塔12月号より
君のなかの哀しみの量(かさ)わからない ときどき夜の床に落ちていて
/前田康子 p5
近くで君を見ていても君は哀しみをさらけだしたりはしないのだけれど、不意にたとえば夜の床のようなところに、君の哀しみの欠けらだけが落ちていることに気づく作者。君のいないところに、君の哀しみの気配だけを感じています。相手の哀しみへの触れ方がやさしく印象的。
柊のあかい実よりも葉のつやをむしろ愛するひとだときづく
/小田桐夕 p23
ひとことに「柊が好き」といっても、その「好き」の実際はさまざまであり、そのひとが柊のどんなところを好ましく思っているのか、作者は一歩踏みこんだところに心をむけています。そして、そのひとが「葉のつや」をみているのだということに気づく。そこには、そのひとをもっと知りたいという思い、そのひとのものを見る目に対する好ましい思いが顔をのぞかせています。平仮名にひらかれたやわらかい文体と相まってそこはかとない相聞のかおりのする一首です。
各々がひとつの部屋に扉を閉ざし廊下にともり続ける灯
/吉澤ゆう子 P27
家族がそれぞれの時間をもつようになると、ひとつ屋根の下にもそれぞれの灯をともすようになります。その灯はそれぞれの扉に閉ざされて…。その扉の外側にしずかに灯り続ける廊下の灯は、母である作者自身の投影のようでもあります。
分け合はむと取り置くぶだう二晩の儀式のやうに独り食みをり
/清田順子 P85
ふたりでいたときには当然のようにふたりで分けあうものだったぶどう。けれどいまはあなたはいない。あなた不在の部屋で、あなたの分であったはずのぶどうまで二晩をかけてひとりで食べる。あなたのことを想いながらひと粒ひと粒ゆっくりと口にはこべば、その所作はどこまでもしずかで、どこか儀式めいてくるのです。
鮎洗うとき匂いくる血のあれば指先は最も悲しみの部位
/小川和恵 p92
鮎を洗う指先、指先というところは、目の前にあるなにかに触れてそのいたみに触れるところである、と同時に、触れて力を及ぼしてしまうところでもあります。
サラダスピナーにレタスの水を切りながら過去とは遠い一点ではない
/小川和恵 P92
サラダスピナーにレタスの水切りをすると、レタスについた水滴はふるい落とされる。けれど、いま自分の心に存在する過去は…。〈今〉というときから切り離し、ふるい落とすことなどできない〈過去〉という時間。〈過去〉という記憶。
もう二度と訪れることのない街に紅葉は何度でも赤くなる
/鈴木晴香 p104
訪れることはもう二度とないであろうと思うその街に、自分がいてもいなくても、そんなことにはまるで関りもなく季節は巡ってゆく。いま、その街に紅葉があかくなっているのを想像するだけでなく、これからさきの、長いながい時間のなかに何度も赤くなることを想像することで、その街までの、その街の記憶までの、心理的な遠さがより一層際立ってきます。
はじめから触れられないとわかっている安心求め展覧会へ
/椛沢知世 P126
触れるべきか触れざるべきか、人との距離のとり方に心を砕く作者でしょうか。そんなとき、展覧会の作品を思えば、それは触れてはならないことがあらかじめ明示されている世界。そのことへの気づきが作者の思考を落ち着かせるのでしょう。
胡瓜食む奥歯のすんと涼しくて秋はもう輪郭のうちがわに
/魚谷真梨子 P150
輪郭とは、みずからの輪郭であり、時間性ともいうべきものの輪郭でもあるようにも思われ、胡瓜を食むときに秋という季節をその輪郭の内側に感受する、というその下句に惹かれます。季節とは外側から内側にやってくるものだろうか、それとも内側に芽生えるもののだろうか、ということにも思いを馳せつつ…。
柿あおく雨に打たれつ筆箱を落して列に遅れる子あり
/福西直美 P164
また熟していない柿が雨に打たれるときの、冷たさ、鋭さ。それが筆箱を落として響く音とも共鳴しあって、そこはかとないさみしさが匂います。作者の視線は対象の外側にあり、感情の語彙はなにも用いられていないところがよく、不思議な余韻があります。
食卓にキャンドル一つ 伸び縮む闇にカインの嘘を逃がそう
/鳥本純平 P194
食卓のキャンドルの炎の揺れから「伸び縮む闇」を見いだしています。その闇はさまざまな葛藤にゆらめく心かたちのようでもあります。キャンドルという西洋的なアイテムから作者の思考は聖書へと及び、カインのついた嘘の裏側にある彼の葛藤、ひとりの人間としての彼の心のにがさに心は添っていくのでしょう。