欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔4月号より

白壁に冬の樹の影うきあがり生前の肩に手を置く前世

/山下泉 p6

〈生前〉という時間に〈前世〉という時間が手を置いている、つまり、前世はやがて生前と呼ぶべき時間となりうるものであり、ひとつながりのおおきな時間軸のなかに併存しています。上句の「うきあがり」という表現が木の影をなまなましいものにし、そこにあってそこにないものをみる作者のまなざしと響きあっています。

 

一羽ゐていつよりか二羽それからのいかばかりの日々今もうゐない

/千村久仁子 p29

こちらも時間軸のおおきな歌。一羽だったものが二羽になり、ともに時間を過ごし、けれどそのうちの一羽(あるは二羽ともであるかもしれない)はもうここにはいない。いなくなった〈今〉という時間には空がひろびろとして、それはまるで悠久の時間のようでもあります。二羽いるときにはずっと続くと思えたその時間が、おおきな時間軸のなかでは、ほんの一瞬であったと知らしめるかのようです。

 

たくさんの嘘ついてきたわたくしと真っ白なおまへ 指切りをする

/澄田広枝 p38

自分のためにつく嘘ばかりではない、とはいえ、年を重ねてゆくほどに嘘は増えていくもの。嘘のない無垢な時代はほんのいっときのことで、当たり前のように嘘を必要とするようになっていきます。そのことを知り抜いているからこそ、純真無垢な幼子と指切りをするという行為それ自体には一種の残酷さがあり、「指切り」という字面のもつ怖さとあいまって痛みをともなうものとして感受されています。

 

美しい貝は使へず皺だらけの千円札をレジに差し出す

/益田克行 p52

私たちがいま生きているこの社会では、美しい貝がお金として通用することはない。その自明の理をあえて言葉におとしこむとき、なんともいえない感情が滲みます。美しいものに、美しいことを理由にお金としての価値を与えることはかなわず、システムとして定められた紙切れだけがお金としての価値を持ちうるのだということへの言い知れぬジレンマ、のようなもの。

 

納豆の糸の切れつつひかり帯びて微笑みたるか半跏思惟像

/金田光世 p54

納豆の糸から半跏思惟像へ、上句から下句への展開に目を奪われます。そこに因果関係はなく、みごとな飛躍であり、そうでありながら一度読み下してからもう一度上句に戻るとき、卑近なものであるはずの納豆の糸がなんとも神々しくかがやいてみえてくる、、、。忘れがたい一首です。

 

買ってきた色鉛筆を仕舞いたる抽斗は他の用事であける

/宇梶晶子 p61 

色鉛筆というのはなにとはなく心ときめく文具です。この主体にとってもそうであるような雰囲気があります。色鉛筆を買ってきて、それを大切に抽斗のなかに仕舞うのだけれど、使う機会がそうそうあるわけでなく、色鉛筆の存在を心にたしかめつつ、それを取り出すためでなく抽斗を開閉しているというところに感情の襞が感じられます。

 

かぎろひの春の書棚よ その奥の骨のやうなる箇所に触れえず

/小田桐夕 p161

「かぎろひ」は春にかかる枕詞ですが、単に記号としての枕詞であるにとどまらず、だんだんと明るくなっていく、つまりあきらかになっていく(その書棚、あるいはその書棚のなかの一冊のことを主体が理解していく)、という意味において有効に使われているように思われます。そして、だんだんあきらかになり、わかりはじめることにより、かえってすべてをわかることの難しさをつきつけられてしまうことの苦しさとして下句があるように思われます。「かぎろひの春」というあかるさと「その奥の骨」という存在の仄暗さ、そのコントラストに、感情の屈折が感じられます。

 

目をとじているうち運ばれた先の、年の暮れ小銭で水を買う

/𠮷田恭大 p212

電車に乗って運ばれていくのでしょう、省略の効いた文体のなかにも映像がくっきりと浮かびます。そして「運ばれた先の、」と読点で区切られたあとにくるのが場所ではなく、「年の暮れ」であることで、目を閉じて電車で運ばれていくうちに、空間のみならず、時間も(年の暮れ以前から年の暮れへ)運ばれていったかのような、不思議な味わいが醸されています。そして小銭で水を買うという行為は慎ましくもあり、手にとる水の透明感が一首にひかりのゆらめきを与えています。

 

好きだったことが好きではなくなって春のすべてが恥ずかしくなる

/逢坂みずき p215

年齢をかさねたことにより、あるいはなにかを経験したことにより、みずからの価値観が一変してしまう、ということへの苦い思い。知ることは恥の感情のはじめ。

 

蚊のかたちではあるけれど遊星のひとつとしよう血を宿しており

/梅津かなで p251

人の血を吸った蚊、その蚊をうとましいものとしてみるのではなく、なんと遊星としてみよというスケールのおおきな展開に驚きます。突拍子もない発想のようでありながら、そのうちがわに血、すなわち生命を宿すという点において、蚊と遊星は本質的に相似であることを思わされます。