塔1月号より
音にもああ影はあるのだ拡声器の声が団地に反響している
/乙部真実 p61
上句のフレーズ、これまで音にも影がある、というふうに具体的に認識をしたことがなかったけれど、言葉としてこのように定着されたことで、これまで漠然とは感じたことのあったはずの感覚がたしかなものとして刻まれた感じがあります。影という存在が、ときとして実在よりも大きくなったり、存在感を増したりするように、拡声器の声の反響がかすかなさびしさや不穏を含みながら、心の中に実際の声よりもながくありありと存在している、そんな雰囲気です。
疲れれば目を合はせなくなる人とねぢれた位置で海を見てゐる
/小林真代 p63
相手の性格をよくわかっているからこそ、あえて慰めの言葉をかけることはしない、そして横に並ぶこともしない、ただ「ねぢれた位置で」同じ海を見るだけであるということが、近しい関係の人であっても、けして踏み込めない、踏み込むべきではない領域があることを思わせます。「ねぢれた位置で」にはそれをあえて選択した作者の心情もまた滲んでいます。
日がさせばうそつぽくなるまるき壺けれども影はしづかな壺なり
/千村久仁子 P81
明るい日に射されるとき、壺の柄もかたちも、妙にしらじらしく浮きあがってそこに違和さえ感じてしまう、そんな感じでしょうか。けれどその影をみれば、かわることなくただしずかにそこにある。外部からの作用があるとき、実在のほうはそれに多かれ少なかれ作用されてしまうけれど、影はただそのものとしてかわらずにあり続ける。まるで影の方が〈本質〉であるかのように。
会ひたさは濡れてゐる羽 やはらかなあかつきの陽にまぶたをひろぐ
/小田桐夕 P86
会いたさという感情を、「濡れてゐる羽」というものに喩えて印象的です。濡れている羽の、しっとり湿った重たさ、飛び立つにはどこか気怠いような重たさを思い浮かべます。やわらかなあかつきの陽のなかにイメージされる「濡れてゐる羽」、痛々しくうつくしい一首です。
地下深く沈まなければ遠くにはいけない 長いながいホームだ
/紫野春 p122
都会の地下鉄の実景であり、実景だけを描きながら、それゆえに実景にとどまらない示唆的なひろがりをもっています。
このくちは面白くないくちだからどうでもよくないことしか言えぬ
/小松岬 P164
平仮名にひらかれた文体が、内容の痛々しさをありありと伝えます。この文体ゆえに、一首がまるで呪文のように作者の心のうちで何度もつぶやかれているかのような印象も抱きます。
街はいまアイーダの一曲ながし地に捨てられたままの唐黍
/髙田獄舎 p27 (唐黍:とうきび)
句跨りになっている「一曲」という言葉、句跨りになっているがゆえに「一」がつよめられ、まるで街にはアイーダだけが永遠に流れているかのよう。そして下句で一転、捨てられたままの唐黍がクローズアップされて、景をそのまま詠んでいるという文体でありながら不思議な、啓示的な雰囲気が漂います。