欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔5月号より

冬をしまふ器のあらば幾たびも数ふる夕べ雪となりたり

/溝川清久 p17

「冬をしまふ器」とは不思議な表現です。冬の日の翳りを抱え込むような、深い器などを思い浮かべます。そんな器があるならばその器を何度も数えるのだといって、静謐な雰囲気があります。そうして、降りだす雪。主体の心と雪に因果関係はないけれど、どこかで呼応しあっているようにも思われます。

 

声はつねに過去からの声 風の日のあなたが水仙を撮っている

/大森静佳 P64

声とは、声にする人がいてはじめて存在するもの。その意味で、耳に届くとき声はつねに過去からのものであるといえるのかもしれません。
風の日にひとり水仙を撮っているひとは、このとききっと声を発してはいない。上句で声について言い触れながら、対照的に下句の光景の無音が印象的です。風の音のほかに聞こえない景色のなかで、主体はいま目の前にいるその人の声を、心に呼び起こしているように思われます。

 

桟橋より見る雨の乗馬クラブには帽子のごとくしずかなる馬

/白水ま衣 p65

映画のワンシーンのようなうつくしい光景です。「帽子のごとく」という比喩が詩的で、目に映るもののしずけさを効果的に物語っています。「帽子のごとく」という言葉が選ばれたことにより、馬のみえるその光景が、一読忘れがたい抒情を帯びるようです。

 

背を向けて無口な庭師のやうに立つもういく日も陽ざしは薄い

/澄田広枝 p71

具体的な状況はわからないけれど、だれかとの関係性のことをいっているのでしょう。「無口な庭師のやうに」が印象的な比喩で、その姿は心象のようでもあります。また、下句にもかすかな翳りが感じられ、主体のなかになにかしらの屈折した思いがあることを感じさせます。

 

レシートに「リード楽器」と印字されどこかとほくで擦れあふ葉先

/岡部かずみ p82

レシートに印字された言葉から意識がどこか遠くの葉擦れに飛ぶ、といううつくしさ。 「レシートに」「リード楽器」というラ行の音、「印字され」「擦れ」とレの音が重ねられることにより、一首に透明感がうまれているように思います。

 

ああきっと雲をちぎれば一輪のラナンキュラスと等しい重さ

/小松岬 p93

ラナンキュラス一輪の重みと、ちぎった雲の重みを比較する発想がユニークでありながら、「ああきっと」という初句には雲という手に届かない存在への希求があるようにも感じられ、かすかにせつなくもあります。ラナンキュラス一輪の重みとは、はたして重いのか、重くないのか。重くないものの、手のなかに忘れがたく残る重みのようなものを感じます。

 

時かけて空を降り来る雪だから何か思ひ出せさうで見てゐる

/髙野岬 p112

とてもとても軽い、舞うような雪を思い浮かべます。空から落ちてくるまでの雪の時間、その時間はけして短いものではないのだと思っているのでしょう。その時間は、主体がこれまで生きてきた時間の一部が組みこまれているような、はるかな時間を内包するようなイメージです。

 

他動詞のぬらすといふことゆびさきは椿の雪をそうつとはらふ

/千村久仁子 p128

何かをぬらさずにはおかない雪というものに思いをはせ、「ぬらす」という動詞が他動詞であることに言い触れて、なにかをそのままにはしておかない、行為が不可避的におよんでしまうことのかなしさに対する思いがしずかに伝わってきます。

 

鹿のつのに触れてゐたのはそれぞれに隠しごとをもちよつたひとたち

/小田桐夕 p131

隠しごとというのは、なにか悪巧みのようなものではなく、口に出すことなく抱えているもののことなのではないかと思います。だれにも言えない苦しさを持ち寄って、ただ、鹿の角に触れている複数のひと。どこか不思議で、どこか濃密な空気が漂っています。

 

組んだ手に額を載せてひつたりと鰐のくつろぎ、十一匹の鰐

/松原あけみ p139

組んだ手に額を載せるみずからの姿を、鰐であると見立てているのだと思います。どうして十一匹なのかという部分は読み切れませんでしたが、鰐ののっそりした動きを思うからでしょうか、ゆるやかな時間さえ感じられるようです。

 

降りつづく冷たきものが青銅の肌に積もりて「考える人」

/山川仁帆 p169

西洋美術館の前庭の「考える人」の像を思い浮かべます。雨、あるいは雪が降りつづき、ブロンズの肌の上を濡らしてゆく。その光景を描写しているのみでありながら、描写に徹することにより、その光景がなにかを啓示しているようでもあり、読後に余韻がうまれています。