塔8月号より
くるしさをくるしさで堰きとめたって孔雀の首には虹色がある
/大森静佳 p59
孔雀のほそくながい首、あるいはその首から搾りだされるような、あの悲しげな鳴き声のイメージと相まって、くるしさをくるしさで堰きとめるということ、その作者の苦しさを、体感として伝えます。その一方で、上句のあとには省略があり、上句と下句では転換があります。くるしさをくるしさで堰きとめたってどうにもならないよ、孔雀の首には虹色があるのだ、と言い聞かせ、奮い立たせるように。
あれは鳥それは木これは花 パパは君に何にも教へられない
/益田克行 P71
鳥も木も花も、指さしながら教えているのに「何にも教へられない」という作者。そこには、往々にして人はものの名を知っているだけでその存在を知ったような気になってしまうけれど、存在とはそんな簡単なものではない、という、存在に対する慎ましい態度があるように思われ、その慎ましさが一首の深みになっています。
無傷って言うときひとつめの傷ができる気がする ぼくは無傷です
/田村穂隆 p71
無傷、という言葉を使いつつ、同時にその言葉に傷ついていくような、言葉に対する繊細さ。そして、それでもなお奮い立たせるようにいう、結句の「ぼくは無傷です」が痛々しく響きます。
月を見るように遠くに目をやれど六畳一間に〈遠く〉はあらず
/福西直美 p88
「月をみるように」というのはそれ自体比喩的で、希望とか憧れとかそういうものの象徴なのだろうと思います。けれど、六畳一間には紛れようもない現実そのものがあって、〈遠く〉などそこにはないのだ、と。生活に根差した感情を詠いつつ、一首全体に詩情があります。
ミモザ いつか運命の人じゃない人と死ぬまでの日々が眩暈のようだ
/川上まなみ p89
いつか運命の人に出会いたい、そう願いつつ、運命の人に出会うことなんてそうそうあることであるはずもなく、人は妥協や諦めを重ねて生きていく。けれど運命の人と出会うことをすっかり諦めてしまうこともできず、わずかな希望を抱きつつ日々を生きればその日々は迂遠そのもの。そのはるけさを思うとき、感情はわさわさと揺らめくのでしょう。
「ミモザ」と木の名を掲げ、その下に続く文体は、まるで作者がミモザの木を見上げ、ミモザの木の下に立ち尽くしているかのような映像を呼びおこし、わずかな風にも揺れやまぬミモザと、作者のいう「眩暈」がおり重なっていくようです。
わが胸に器があればこの雨を受けとめそして静かに割れる
/石松佳 p90
それはきっと音のないしずかな雨、あるいは雨のような感情なのでしょう。その雨をひとつの陶器の器のように、身じろぎもせず受けとめる作者。受けとめて受けとめて、そして最後にはその雨もろともに割れてゆくのだ、と。けれど、それはけして受けとめきれなくなって割れるのではない。その雨を全霊で受けとめ、割れて、破片となってなお、その雨と混じりあい、運命を共にするのだという覚悟のようなものであるように思われます。結句の「静かに割れる」の衝撃に、心がふるえました。
青嵐の先触れのごとき風がわが髪をあやつる午後の回廊
/山川仁帆 p99
まだつよく吹くわけではないけれど、すこし生ぬるいような、そしてどこか予兆めいた風の手触りのようなものを感じます。「あやつる」という擬人化がここでは活きていて、その風になされるがままに、その風に全身をゆだね、全身でその風を感じている主体の姿が目に浮かびます。
風に海のかをりがまじつてゐることをわたしはうつかり忘れてゐたな
/小田桐夕 p107
風っていろいろなところを吹いてくるものだから、風の中には、海のかおりだって混じっている。けれどそれはかすかなものだから、うっかりすると忘れてしまって、あらためて気づくこともない。そしてそういうことって、風にかぎらずあることだなあ…と思わされます。風のことを詠いつつ、それは象徴性を帯び、旧かなと独特の口語が妙にしっくりと心に沁みてくる、そんな一首です。
剃刀を幾度も添はすほんたうの顎を鏡に映し出すまで
/小林貴文 p109
剃刀の鋭利な鋭さと、鏡のなかに映し出される、ありのままの自分に対峙する感情の鋭さ。漢字の多用された文体のなかで旧かなの「ほんたうの」が浮き彫りになり、本当を突きつけられるような気持ちになります。
泉よりもどつて来たるまなざしでかなしき事をいふいもうとは
/福田恭子 p113
「泉よりもどつて来たる」が実際なのか、比喩なのかはさだかではありませんが、この「泉」には象徴的な響きがあります。水が映しだすものになにかを知らされたかのような、あるいは、泉でなんらかの思索にふけってきたかのような、そんな雰囲気です。泉に行く前までとはちがう、かなしいまでのつよさを携えて、妹は泉から戻ってきたのでしょう。
割れたのと同じ皿買い足すつもり今年の桜足早に過ぎ
/森尾みづな p183
桜が散りゆく下句の景は、今年の桜は今年一度かぎりであることを思わせて、そう思いながら上句にもう一度戻るとき、「同じ皿」の「同じ」という言葉が痛切な響きをもってきます。作者は割れてしまった皿と同じものなどもうこの世に存在しないことを承知の上で、その事実に抗うように、同じ種類の皿を買い足すのです。