欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔12月号より

君のなかの哀しみの量(かさ)わからない ときどき夜の床に落ちていて

/前田康子 p5

近くで君を見ていても君は哀しみをさらけだしたりはしないのだけれど、不意にたとえば夜の床のようなところに、君の哀しみの欠けらだけが落ちていることに気づく作者。君のいないところに、君の哀しみの気配だけを感じています。相手の哀しみへの触れ方がやさしく印象的。

 

柊のあかい実よりも葉のつやをむしろ愛するひとだときづく

/小田桐夕 p23

ひとことに「柊が好き」といっても、その「好き」の実際はさまざまであり、そのひとが柊のどんなところを好ましく思っているのか、作者は一歩踏みこんだところに心をむけています。そして、そのひとが「葉のつや」をみているのだということに気づく。そこには、そのひとをもっと知りたいという思い、そのひとのものを見る目に対する好ましい思いが顔をのぞかせています。平仮名にひらかれたやわらかい文体と相まってそこはかとない相聞のかおりのする一首です。

 

各々がひとつの部屋に扉を閉ざし廊下にともり続ける灯

/吉澤ゆう子 P27

家族がそれぞれの時間をもつようになると、ひとつ屋根の下にもそれぞれの灯をともすようになります。その灯はそれぞれの扉に閉ざされて…。その扉の外側にしずかに灯り続ける廊下の灯は、母である作者自身の投影のようでもあります。

 

分け合はむと取り置くぶだう二晩の儀式のやうに独り食みをり

/清田順子 P85

ふたりでいたときには当然のようにふたりで分けあうものだったぶどう。けれどいまはあなたはいない。あなた不在の部屋で、あなたの分であったはずのぶどうまで二晩をかけてひとりで食べる。あなたのことを想いながらひと粒ひと粒ゆっくりと口にはこべば、その所作はどこまでもしずかで、どこか儀式めいてくるのです。

 

鮎洗うとき匂いくる血のあれば指先は最も悲しみの部位

/小川和恵 p92

鮎を洗う指先、指先というところは、目の前にあるなにかに触れてそのいたみに触れるところである、と同時に、触れて力を及ぼしてしまうところでもあります。

 

サラダスピナーにレタスの水を切りながら過去とは遠い一点ではない

/小川和恵 P92

サラダスピナーにレタスの水切りをすると、レタスについた水滴はふるい落とされる。けれど、いま自分の心に存在する過去は…。〈今〉というときから切り離し、ふるい落とすことなどできない〈過去〉という時間。〈過去〉という記憶。

 

もう二度と訪れることのない街に紅葉は何度でも赤くなる

/鈴木晴香 p104

訪れることはもう二度とないであろうと思うその街に、自分がいてもいなくても、そんなことにはまるで関りもなく季節は巡ってゆく。いま、その街に紅葉があかくなっているのを想像するだけでなく、これからさきの、長いながい時間のなかに何度も赤くなることを想像することで、その街までの、その街の記憶までの、心理的な遠さがより一層際立ってきます。

 

はじめから触れられないとわかっている安心求め展覧会へ

/椛沢知世 P126

触れるべきか触れざるべきか、人との距離のとり方に心を砕く作者でしょうか。そんなとき、展覧会の作品を思えば、それは触れてはならないことがあらかじめ明示されている世界。そのことへの気づきが作者の思考を落ち着かせるのでしょう。

 

胡瓜食む奥歯のすんと涼しくて秋はもう輪郭のうちがわに

/魚谷真梨子 P150

輪郭とは、みずからの輪郭であり、時間性ともいうべきものの輪郭でもあるようにも思われ、胡瓜を食むときに秋という季節をその輪郭の内側に感受する、というその下句に惹かれます。季節とは外側から内側にやってくるものだろうか、それとも内側に芽生えるもののだろうか、ということにも思いを馳せつつ…。

 

柿あおく雨に打たれつ筆箱を落して列に遅れる子あり

/福西直美 P164

また熟していない柿が雨に打たれるときの、冷たさ、鋭さ。それが筆箱を落として響く音とも共鳴しあって、そこはかとないさみしさが匂います。作者の視線は対象の外側にあり、感情の語彙はなにも用いられていないところがよく、不思議な余韻があります。

 

食卓にキャンドル一つ 伸び縮む闇にカインの嘘を逃がそう

/鳥本純平 P194 

食卓のキャンドルの炎の揺れから「伸び縮む闇」を見いだしています。その闇はさまざまな葛藤にゆらめく心かたちのようでもあります。キャンドルという西洋的なアイテムから作者の思考は聖書へと及び、カインのついた嘘の裏側にある彼の葛藤、ひとりの人間としての彼の心のにがさに心は添っていくのでしょう。

 

塔11月号より

ひとつはしらふたつはしらとかぞへつつじふさんぼんをつりおろしたり

/真中朋久 p5

「はしら」とは、神や位牌、遺骨などをかぞえる単位。数字のみが具体として提示され、事実のみが描かれながら、平仮名にひらかれた文体がその行為の意味をかみしめるかのような雰囲気を醸しています。厳かな場面でありつつ、ご神体を人間がつりおろすという行為そのもののもつ不遜に思いを馳せるような、うっすらとした不穏も滲んでいます。

 

蝶の翅 生まれて初めて開くときそのひとところ森の嵩増ゆ

/土屋千鶴 P13

蝶が羽化する場面。蝶がはじめてその翅 をひらくというその高揚感が、森の嵩が増えるというイメージでとらえられています。実際には、蝶が羽化することで森の嵩が増えるわけではないわけですが、「嵩増ゆ」という断定になぜか納得させられてしまいます。とても抽象的で象徴的な把握であるにもかかわらず、蝶がうつくしい翅をゆたかにひろげる映像を呼びおこし、観念で終わらないイメージのふくらみがあります。

 

とめどなき暑気を言ひつつ絵のなかの景色のごとく忘れゆくべし

/溝川清久 p16

この夏の途方もない暑さのことを言いながら、その一方でどんなに激しく忘れがたいと思われることでも時間とともにその記憶は薄れていってしまうことを承知しているもうひとりの自分。「絵のなかの景色のごとく」という比喩は、ひとときの自分をとらえてながらもやがて薄れていってしまう対象物との距離感、その心もとなさようなものを伝えるものとして、体感のある比喩となっています。

 

立秋やまだ燃えてゐる夏の野に草城が銀の匙まぼろし

/出奈津子 P80

暦の上では立秋、でもまだ夏の暑さの残る野に、草城の銀の匙まぼろしがみえる、という一首と読み、なんて素敵な歌だろうと思いました。「草城」は「くさしろ」、いまはもう草に埋もれた城跡のことだろうと思い、また、「銀の匙まぼろし」とは、かつての城の栄華の象徴なのだろうと思いました。が、よくよく読んでみると、これは日野草城の〈秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙〉という句を下敷きにしているのかな、、、と。それでもなお、言葉のとおりに受けとって自分のなかに広がった最初のイメージをあきらめたくないという気持ちもあります。

 

銀の紙ひらき牛酪を掬ひたりそののち深くなる雨のをと

清水弘子 p92

バターを、その銀の包みをひらいて掬う、というただそれだけの場面なのに、詩情があります。そのしずかな行為ののちに、耳はより雨の音を意識するわけですが、一首を通して静謐でどことなく啓示的な雰囲気があります。

 

噴水を燃える焔に見立ててはそれをあなたに黙って消した

/白水ま衣 P93

消えても消えてもまた噴きだして、焔のように噴きあがる噴水。焔のようにみている噴水は、とりもなおさず作者の感情のありようなのだろうと思います。けれど、その焔のことは、相手に伝えることはない。焔でありながら噴水であるそれは、はげしさもありつつどこかひえびえとしてさびしげで、内省的な作者の姿がたちあがります。

 

食べて寝て目覚めて食べるうさぎいて食べられてゆく草の音する

/福西直美 p106

淡々とうさぎの行為に着目しその行為を並べ、また視点をかえて食べられていく草の音に着目します。感情を排した詠みぶりで淡々と描かれているようでいて、「食べられてゆく草の音」というのがよく、連綿とつづく生命の、その本質的なところが掬いとられているような深みがあります。

 

マグカップにシンクに映りてゐし吾をあつめてひるの眠りにおつる

/千村久仁子 p142

マグカップやシンクに映るおぼろげな自分の姿。それは昼という時間帯のあいまいさゆえでしょうか。真昼間にばらばらと浮遊するような自意識を、眠ることによって取りもどすような不思議な感覚が魅力的です。

 

合歓の木にねむりのかよふ夕ぐれは子供のやうに月出てをりぬ

/福田恭子 P164

合歓の木、ねむり、と「ね」の音が重ねられるやわらかさ、その後も「よ」「ゆ」「や」というやわらかい音がつづき、一首を夢のような雰囲気で包んでいます。声にだして読んだときのなんともいえないここちのよさ。合歓の木に「ねむりのかよふ」というどこか不思議な感覚の表現も、「子供のやうに」月が出るという意外性のある比喩も魅力的です。

 

夕刻は影がわたしを離れて在るごとくに見ゆるリード引きつつ

/山川仁帆 p157 (離:か)

夕刻には、影がみずからを離れて存在しているように感じられるのだ、という作者。夕刻のよわくあわいひかりのなかで、ながくのびる影。どこか現実から浮遊したような感覚とともに、そう感じられるのでしょう。「ごとくに見ゆる」という部分は、「在る」と断定してもよかったのでは、とも思いましたが、何度も読むうちに、この「ごとくに見ゆる」という緩慢な言いぶりが、夕刻の、淡く、どこか現実から浮遊したような感覚を生みだしているようにも思われ、また、その影を、距離をおいて外側からみているような視線も感じられて、必要な表現であるように今は思っています。

 

水原紫苑歌集『びあんか』より

鳥たちは遊びのやうに北を指しわれにちひさき骰子残れり 

(骰子:ダイス)

「遊びのやうに」といわれて際立つのは、鳥たちが北をめざすのは本能にしたがうからであって、けして遊びなどではないということ。にもかかわらず、それは遊びのようにかろやかで、迷うところがありません。翻って人間はどうでしょうか。道ひとつを選びとることの、どれだけ険しいことか。もはや本能だけでは生きられぬ人間の手のなかには、ちいさな骰子がひとつ、残されています。

 

いちにんを花と為すこと叶はざる地上をりをり水鏡なす

人ひとりを花のすがたに変えてしまうこと、そのようなことひとつ望むべくもないこの世にあって、人は人として弁別されて生きてゆくのみです。その地上に、折々できる水鏡。その水鏡が透きとおりつつ映し出す、この世であってこの世でない、もうひとつの世界。

 

われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる

(魚:うを)

やわらかな太古の記憶。歌集全体をつうじて、作者が今ある生にとどまらず、前世、さらにもっと遡る時代の記憶を自身のなかにもっていることが感じられます。この歌もそうしたことを思わせる歌のひとつ。そのような記憶があればこそ、この世を慈しむ、その慈しみ方にもスケールの大きさが感じられます。そしてかすかなかなしみを帯びつつ、一首にはかなしみをみずからのものとして感受する体温が感じられます。

 

月明にひとが透けゆくくるしみを目守らば朝まなこ炎えなむ

 (朝:あした、炎:も)

しろじろとした月光に射しぬかれながらくるしみの淵にいるひと。そのくるしみを、ただじっと見守る、ということ。月光に透けゆくさまは、そのくるしみをわがものとしてとらえる作者の感受性がみせる光景です。一晩中、月光のもとに見守りつづけるその目は、月のつめたいひかりを、そしてそのひとのくるしみをしんしんと溜めて、朝になればきっと炎えてしまうだろう、というのです。うつくしくも痛ましい一首です。

 

美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より

一日のうちの大概の時間を、馬は四脚で立ち続けます。眠るときでさえ。そうであればこそ、太古、折しも馬がその美しい四脚を折りたたまむとき、哲学は流れ出したのだと作者はいいます。四脚を折り、なにかがほどけたときに、やわらかに溢れだす哲学があったのだというのです。ここにあるのは、目には見えないものを感受するまなざしであり、「流れいでたり」の断定に、作者自身の哲学があります。

 

永井陽子歌集『ふしぎな楽器』より

人去りて闇に遊ばす十指より彌勒は垂らす泥のごときを

仏像に造詣のふかい作者。彌勒といえば、貴い存在としてみることが多いけれど、作者は人のいなくなった闇のなかで十指より泥を垂らす姿を想像します。では、「泥」の意味するものとは、、、。彌勒という存在に、貴さだけでなく、人間的なものを感受し、彌勒が内側に湛える苦悩のようなものに思いを馳せているのだろうと思いつつ、もっと官能的な何かであるような気もしています。

 

たれをも許ししかも許さぬ中庸や東洋のぎんいろのゆふぐれ

中庸という言葉が、本来の意味からは少し位相を変えて使われつつ、「しかも許さぬ」という部分により重みがあるように感じられます。

〈あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ〉にはじまる本歌集のⅠ章は歴史上の事柄を主題にするものが多く、この一首においても「東洋」とは大陸からみた日本、それも現在からかなり時代を遡った時代の日本であるように思われます。「ぎんいろのゆうぐれ」のもつ不思議な雰囲気にはうっとりとするようなうつくしさがあります。

 

高麗人は装ひをとき韻を解きほのかにひとをおもひそめにき

「高麗」とは、高麗王朝のことでしょうか。「装ひをとき韻を解き」という匂いたつような表現は、どのような高麗人を思い描いて呼びおこされた言葉なのでしょう。「韻を解き」には、言葉ではない、もっとプリミティブなものを感じているようななまめかしさがあり、とてもドラマティックなものを思わせます。

 

月の光を気管支に溜めねむりゐるただやはらかな楽器のやうに

「気管支」という具体が生きていて、管楽器のような楽器を思い浮かべます。作者はつねづね人体を楽器のように感じていたようです。その楽器が次に音を奏でるときまでゆたかに月の光を溜めているというふくよかなイメージ。「月の光」「ねむり」「やはらかな」というやわらかい言葉を重ね、みずからの身体を「やはらかな楽器」とイメージすることは、細やかで繊細な作者の心に、束の間、安息をもたらすものであったのかもしれません。

 

月光にさへこんなにも軋むこの家には何本の釘が打つてあるのだらう

釘、というアイテムも、たとえば〈あま白く春の大路に光りゐる釘もとほき世の神にやあらむ〉などにもみるように度々現れます。月光は、釘は、作者にとってどんな象徴的意味をもつのであったのか。「月光にさへこんなにもに軋む」のは、この家でありながら、それを感受する作者自身の繊細さでもあるのでしょう。

 

塔9月号より

根こそぎになりて倒れてゆくときにみづならの樹は川を渡りぬ

小林幸子 P5

地崩れで倒れてしまったミズナラの樹。すこやかに根をはり立っているときには、たとえ望んでもけして渡ることかなわなかった川を、根こそぎになって、もうどうしようもない姿になって倒れていくそのときになって、はじめて渡ることとなったのだという作者の着眼がせつなく響きます。「なりて」「倒れて」という「て」のかさなりがここではゆったりとした韻律を生み、ミズナラが倒れてゆく姿がゆっくり、スローモーションのように映像としてみえてきます。

 

ぬれた言葉ぬれた真実ぬぎすてよさもなくば鹿はもうもどらない

/江戸雪 P6

上句を正確に読み解くのは難しいですが、「ぬぎすて」るという言葉から、濡れ衣という言葉なども思い浮かびます。浮名や噂、世の中に溢れる根拠のない不確かなこと、そういうものを疑いもなく受容することへの嫌悪のような感じ。「ぬぎすてよさもなくば」のとてもつよい口調も印象的。「鹿」とは、原初的なうつくしさのようなイメージでしょうか。全体的に抽象性の高い表現がなされながらも、作者のつよくたしかなメッセージが胸に迫ります。

 

アスファルトは色の集まりあの猫が落とした影を私がひろふ

/穂積みづほ p29

アスファルトに瓶リサイクルのカレットが利用されていると、きらきら光を返し七色に光る、上句はそういうことを言っているのかなと思いつつ、下句を読むと、ちょっとちがう気がしてきます。アスファルトとは、その道をゆきかう数知れぬ人や生き物が影を落としていくところ。そのそれぞれの影の色の集まり。そんな風にも感じられてきます。下句の「猫が落とした影」という表現も不思議な感じを残します。

 

くるぶしは六月の雨に濡れながらわたしのための言葉など要らず

/大森静佳 P42

わたしのための言葉、それはたとえばみずからを慰撫するための言葉、という感じ。そのために言葉を使うのではない、ということでしょうか。大森さんの、他者の魂に呼びかけるような歌、時空を越えていく歌、そういうものを思い起させます。みずからにとどまるような言葉ではなく、もっと大きく、もっと深いなにかを希求する、この歌は、そのためにみずからに課す言葉のようにも思われます。

 

日の暮れの早くなる日々遅くなる日々を生きおり 鍵ぶらさげて

/宮地しもん p46

季節により日の暮れの時刻が刻々と変わってゆく、その移り変わりを、淡々と言葉で捉えて、それにもかかわらず得も言われぬ味わいがあります。そしてそのなかで、毎日朝になれば家から出て、夜には家に帰る、そんな変わらぬ日常を送る姿を、「鍵ぶらさげて」の言葉だけで伝えています。つつましやかな、けれどたしかな生がそこにあります。

 

葦原にことばはなびく ほんたうはこちらに向けてしまひたかつた

/小田桐夕 P115

なびくことばは、作者の逡巡する心でもあるのでしょう。本当は、強引にでも伝えたいことがあるのにもかかわらず、相手を思い、相手の思いを最大限に尊重したいと思えばこそ、自分の気持ちをありのままに伝えることも躊躇われてしまう、そんな逡巡。その、相手を思えばこそ言葉を躊躇ってしまうどうにもならないもどかしさ、やるせなさ、声には出せない心の声が、下句の平仮名にひらかれた口語旧仮名の文体にのっています。

 

ぼんやりなきうりの私さう言へばあなたは熟瓜(ほぞち)あねといもうと

/千村久仁子 P119

「ぼんやりなきうりの私」というフレーズにまず驚き、そして掴まれてしまう。作者の言葉のゆたかさにはいつも驚かされます。亡くなられた妹さんをながく詠い継ぐ作者ですが、この一首もなんともせつなく、あたたかい一首です。
この一首の前には、〈籠にゐるきうりのわたしここちよき風うけ何のはならひもなし〉という一首も置かれていて、こちらは、みずからが籠の胡瓜になってしまったような、存在が溶け合うような不思議な感覚があります。そして、あるがままであること。あるがままに、他者や自然を受容する落ち着きと深みがあります。

 

窓ひとつ息をしてをり青つたのしづかに暮れきつてしまふまで

/福田恭子 p121

暮れてゆく部屋の窓、おそらく主体はその部屋にひとりいて、じっと窓をみているのでしょう。「暮れきつてしまふまで」には、それなりの時間の経過が感じられます。この暮れどきという時間の、どこまでもしずかでありながら、けれど感情をゆすぶられるような独特の感触。暮れきってしまうまでじっと窓の息づきをみている姿は、かすかに怖さもあり、窓と主体のまなざしが溶け合って、窓と主体が一体となってしずかに息づいている、そんな雰囲気があります。

 

つり合ってしまえば遊べぬシーソーのむこうの端にだれか座った

/落合優子 p146

シーソーは両端に座るものの重量がちがうこと、つり合わぬことが大事。そうであることは承知の上で、なおこの一首には得も言われぬさびしさが漂います。シーソーのむこう端にだれかが座ることにより、主体の座る側がぐん、と持ち上げられる様子は、まるで主体がこの世界に投げ出されるかのような感触があります。「だれか座った」というそっけない言いぶりは、相手がだれであるかにかかわりなく、他者と自分、という立ち位置を冷めたまなざしでみているような感じがあります。
一連には癌を患い抗がん剤治療をする様子が描かれ、それゆえにこの一首には、病に選ばれてしまった自分、というやるせなさも滲むように感じられます。

 

〈木〉のならぶ文字は淋しいさしのべてふれたき枝に枝の触れえず

/福西直美 p198

〈淋〉という文字は木がならんでいる。一本であるときよりも、ならんだときにこそ、さびしさはさびしさとして顕在化する。相手があって、その相手に触れたい、届きたいと願うときに、さびしさというのは生まれるものであり、一人より、二人いるときにこそさびしいというのは、人間の本質的な感情であるのだろうなと思っています。

 

 

塔8月号より

くるしさをくるしさで堰きとめたって孔雀の首には虹色がある

/大森静佳 p59

孔雀のほそくながい首、あるいはその首から搾りだされるような、あの悲しげな鳴き声のイメージと相まって、くるしさをくるしさで堰きとめるということ、その作者の苦しさを、体感として伝えます。その一方で、上句のあとには省略があり、上句と下句では転換があります。くるしさをくるしさで堰きとめたってどうにもならないよ、孔雀の首には虹色があるのだ、と言い聞かせ、奮い立たせるように。

 

あれは鳥それは木これは花 パパは君に何にも教へられない

/益田克行 P71

鳥も木も花も、指さしながら教えているのに「何にも教へられない」という作者。そこには、往々にして人はものの名を知っているだけでその存在を知ったような気になってしまうけれど、存在とはそんな簡単なものではない、という、存在に対する慎ましい態度があるように思われ、その慎ましさが一首の深みになっています。

 

無傷って言うときひとつめの傷ができる気がする ぼくは無傷です

/田村穂隆 p71

無傷、という言葉を使いつつ、同時にその言葉に傷ついていくような、言葉に対する繊細さ。そして、それでもなお奮い立たせるようにいう、結句の「ぼくは無傷です」が痛々しく響きます。

 

月を見るように遠くに目をやれど六畳一間に〈遠く〉はあらず

/福西直美 p88

「月をみるように」というのはそれ自体比喩的で、希望とか憧れとかそういうものの象徴なのだろうと思います。けれど、六畳一間には紛れようもない現実そのものがあって、〈遠く〉などそこにはないのだ、と。生活に根差した感情を詠いつつ、一首全体に詩情があります。

 

ミモザ いつか運命の人じゃない人と死ぬまでの日々が眩暈のようだ

/川上まなみ p89

いつか運命の人に出会いたい、そう願いつつ、運命の人に出会うことなんてそうそうあることであるはずもなく、人は妥協や諦めを重ねて生きていく。けれど運命の人と出会うことをすっかり諦めてしまうこともできず、わずかな希望を抱きつつ日々を生きればその日々は迂遠そのもの。そのはるけさを思うとき、感情はわさわさと揺らめくのでしょう。
ミモザ」と木の名を掲げ、その下に続く文体は、まるで作者がミモザの木を見上げ、ミモザの木の下に立ち尽くしているかのような映像を呼びおこし、わずかな風にも揺れやまぬミモザと、作者のいう「眩暈」がおり重なっていくようです。

 

わが胸に器があればこの雨を受けとめそして静かに割れる

/石松佳 p90

それはきっと音のないしずかな雨、あるいは雨のような感情なのでしょう。その雨をひとつの陶器の器のように、身じろぎもせず受けとめる作者。受けとめて受けとめて、そして最後にはその雨もろともに割れてゆくのだ、と。けれど、それはけして受けとめきれなくなって割れるのではない。その雨を全霊で受けとめ、割れて、破片となってなお、その雨と混じりあい、運命を共にするのだという覚悟のようなものであるように思われます。結句の「静かに割れる」の衝撃に、心がふるえました。

 

青嵐の先触れのごとき風がわが髪をあやつる午後の回廊

/山川仁帆 p99

まだつよく吹くわけではないけれど、すこし生ぬるいような、そしてどこか予兆めいた風の手触りのようなものを感じます。「あやつる」という擬人化がここでは活きていて、その風になされるがままに、その風に全身をゆだね、全身でその風を感じている主体の姿が目に浮かびます。

 

風に海のかをりがまじつてゐることをわたしはうつかり忘れてゐたな

/小田桐夕 p107

風っていろいろなところを吹いてくるものだから、風の中には、海のかおりだって混じっている。けれどそれはかすかなものだから、うっかりすると忘れてしまって、あらためて気づくこともない。そしてそういうことって、風にかぎらずあることだなあ…と思わされます。風のことを詠いつつ、それは象徴性を帯び、旧かなと独特の口語が妙にしっくりと心に沁みてくる、そんな一首です。

 

剃刀を幾度も添はすほんたうの顎を鏡に映し出すまで

/小林貴文 p109

剃刀の鋭利な鋭さと、鏡のなかに映し出される、ありのままの自分に対峙する感情の鋭さ。漢字の多用された文体のなかで旧かなの「ほんたうの」が浮き彫りになり、本当を突きつけられるような気持ちになります。

 

泉よりもどつて来たるまなざしでかなしき事をいふいもうとは

/福田恭子 p113

「泉よりもどつて来たる」が実際なのか、比喩なのかはさだかではありませんが、この「泉」には象徴的な響きがあります。水が映しだすものになにかを知らされたかのような、あるいは、泉でなんらかの思索にふけってきたかのような、そんな雰囲気です。泉に行く前までとはちがう、かなしいまでのつよさを携えて、妹は泉から戻ってきたのでしょう。

 

割れたのと同じ皿買い足すつもり今年の桜足早に過ぎ

/森尾みづな p183

桜が散りゆく下句の景は、今年の桜は今年一度かぎりであることを思わせて、そう思いながら上句にもう一度戻るとき、「同じ皿」の「同じ」という言葉が痛切な響きをもってきます。作者は割れてしまった皿と同じものなどもうこの世に存在しないことを承知の上で、その事実に抗うように、同じ種類の皿を買い足すのです。

 

 

第8回塔短歌会賞受賞作「灰色の花」より

第8回塔短歌会賞受賞作、白水ま衣さんの「灰色の花」。
画家二コラ・ド・スタールを連作の主題に置き、彼の絵、そして彼の内面にまでふかく迫りながら、同時にスタールに惹かれる作者自身のなかに息づく心理、自身の哲学のようなものまでもが表現された、とても読み応えのある一連でした。
白水さんの作品には、詩的な感受性のなかにも、骨太なものがあることをつねづね感じていましたが、今回の作品でもあらためて彼女の思惟のふかさを感じました。
一般的には、みずからの内面にある思惟や思索の部分を詠もうとすると、一首が観念的になってしまったり、言いたいことばかりが先立ってしまったりしてしまいがちですが、白水さんの作品のなかではそういうことがない。そこに、場面や景が立ちあがり、実感としての手触りがあるのです。

 

燃やしたのではない燃えていたのだと蝋燭の火を消しながら告ぐ

人為的な要因によらずそこに存在するもの、どうしようもなくそこに〈在る〉もの、必然…そのようなものへの意識。それは、連作の最初に詠われる〈偶然〉と相反するようでいながら、その混沌こそが真実であるかのよう。火を消しながら告ぐのは、スタールであるかのようであり、作者であるかのようであり、イメージの膨らみがあります。また、〈燃やしたの/ではない燃えて/いたのだと〉という韻律が、〈ではない〉〈いたのだ〉という語を印象づけ、思いが確固たるものであることを印象づけます。

 

スタールが描きたる海の混沌は容赦がなくて君と似ている

この一首から、私はスタールの画集のなかの〈海景〉という一枚を思い浮かべました。その海は一見、灰色に塗りこめられているようでありながら、じっと眺めていると、その独特の構図、灰色の濃淡、筆致…そこには海という世界の深淵が描かれています。そしてこの絵のページには〈彼が見るとき、無限が見えてくる。見る瞬間、彼は無限を感じ取り、彼の身振りは、そこに「触れる」ことなのだ。〉というアンヌ・ド・スタールの言葉が添えられています。一首を読んで画集のこのページを思い浮かべたのは、この言葉を記憶していたせいであったかもしれません。作者が見るとき、〈君〉という存在もまた、そのような無限性を思わせる存在なのだろうことを思いつつ。

 

反対をしてはくれないさみしさは波の音にも似て心地よい

生きるということは、その折々をみずからで判断していくしかない、孤独な営為。そのことを作者はよくわかっている。そして、その人がもし反対をしてくれる人であったなら、その反対に自分をゆだねることができるかもしれないけれど、そうはしない人であることもよくわかっている。そこに一抹のさみしさはありつつ、それは、その人もまた、孤独を受けとめて生きている人であればこそ。そう思うとき、その人への思いを深くする作者であり、その思いこそが波の音にも似た心地よさにつながるのでしょう。結句が〈心地よい〉であることが、孤独を感じつつもそれを受け容れ、なお凛とある作者を思わせ、清々しさすらあります。それは〈土足ではこちらに入ってこない君の靴下今日もあったかそうだ〉の一首にも感じられます。

 

嘘という真実 把手と手のような関係を手の立場から説く
真実という嘘 コップの影の端にコップは立っているしかなくて

手という存在ありきの把手という存在、コップとその影との関係、そういうものに対して、既成概念にとらわれることなく、丁寧にみつめる思慮深さ。作者のなかにはつねに〈存在〉そのものに対する思惟があるのだと思っています。

 

抽象でも具象でもありうるのだとスタールが描くパン、その光

サルバドール・ダリの言葉に、「最も写実的な絵画が最もシュールな作品であることは永遠のパラドクスである。」というものがあります。スタールの絵をみていると、同じように、具象を突きつめた先に抽象が、抽象を突きつめた先に具象があることを思わされます。前掲の〈嘘という真実〉〈真実という嘘〉の歌と同様、一見相反する概念の、その先にある深みを思わされる一首です。そして結句の〈その光〉、それは、絵に描かれた光であると同時に、作者の中に渦巻く思惟に、スタールの絵がひとつの道筋を指し示してくれたこと、そのあかるさであるのかも知れません。

 

すれ違う犬と目が合う一瞬の、えくぼのような時間が好きだ

スタールの絵に眼差しを深め、思惟を深めながら、一方で、時間を〈えくぼ〉として捉えるという、感覚の生き生きとした、あたたかな歌が混ざってくる、その多面性に、一連の魅力があります。犬と目が合う一瞬に対する、ほっこりとするような手ざわりがあります。

 

部屋に絵を飾るとくるしくなるのなら絵になってしまえばいい、わたしが

この歌の前には〈夕近き額縁店に掛けられて鏡は何かを映してしまう〉〈鏡だと思って君の顔を見ればなぜに微笑む君であろうか〉という鏡をモチーフにした二首が並びます。そこにあるかぎり、なにかを映さずにはいられない鏡という存在。近しい〈君〉という存在もまた、自分自身を映しだす鏡であること。そして、画家の思惟の果ての姿としてそこにある絵もまた、そこに自分自身の内面を重ねみてしまうという意味において、鏡ともいうべき存在なのかもしれません。
スタールを連作のモチーフとして、彼の絵に、あるいは彼の内面にふかく触れながら歌を重ねてきて、ここにきて、スタールと作者が重なりあうかのような、スタールの苦しさと作者の苦しさが混然一体となるかのような激しさに息をのみます。
それゆえに、連作の最後に置かれた〈宛先は最後に記す 振り返ったら死ぬような気がする雪の夜を〉という一首のなかに色濃く匂う〈死〉のイメージが、スタールの自死という事実をはらみつつ、ひえびえと心に迫るのです。