欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔6月号より

何に触れても大きな音のする家に音を立てずに育つものあり

/橋本恵美 p29

この家はおそらく大人ばかりの家。そこに子どものにぎやかな気配は感じられず、どこか張り詰めたような緊張感のあるしずけさとほのぐらさ。静寂であるがゆえに響いてしまう物音は、実際の物音ばかりではなく、象徴的な意味あいも感じさせます。この家にはしずかに流れてゆく時間があり、音を立てずに、声には出さずにはぐくまれていく感情があります。そのひんやりとした体感。

 

かぜに消えたをみなと風にのこりたる皇帝ダーリアこの門の奥

/千村久仁子 p45

どこか幻想小説のような雰囲気。おみなを消してしまうほうの風には平仮名があてられ、表記にも工夫があります。また、「皇帝ダーリア」は花の名前ですが、「をみな」と並列に置かれることにより、擬人化的、男性的な雰囲気を醸しだしています。この場面、おそらく実景なのだと思われますが、こうして言葉に置き換えられることにより、語句の効果として、幻想的な雰囲気がもたらされ、そのさきを想像させる物語的なひろがりがうまれています。

 

いのるにもこわがるにも手を握り込むわたしたちなにも奪われないよう

/加瀬はる p66

祈ることと怖がること。そのふたつの感情的行為が同じかたちとしてあらわれることの不思議。怖がるは畏れるにもつながっていくようにも。人の動作のかたちに着眼しながら哲学的でさえあります。

 

はろほろ、ふ。はるばろろろふ。散りながら空気を磨くように桜は

/田村穂隆 p75

上句のオノマトペの独特な響き。「はろほろ」ときて「ふ」と息吐くように散り、そして「はるばろろろふ」というどこか時空のはるけさも感じさせる響きに散ってゆく姿。独特のオノマトペを用いて、桜の散る様子を音でとらえようとしています。そして一転下句では、桜というものの、ただうつくしいだけにとどまらず、痛々しく、かすかに狂気をもはらむようなその姿を、「空気を磨くように」という硬質な表現でつかまえています。

 

無意識にほほ笑んでいた筋肉をやさしくほどく真夜中の腕

/拝田啓佑 p92

知らず知らずのうちにまわりに気を遣ったり空気を読んで微笑んでいた筋肉。けれどそれは本来の心のありようとは微妙にずれていて…。それをやさしくほどいて、無理に微笑まなくていい、といってくれる存在。主体を包み込んでくれるものは、親しいひとの腕であり、それ以上に、真夜中という時間帯、それ自体の腕でもあるような、そんな雰囲気が感じられます。

 

まなぶたにそと触れてみる白猫に「あい」といふ名をつけしをとめの

/川田果弧 p115

白猫と少女とその眠りと…やわらかく、繊細なうつくしい世界。白描に「あい」という名前をつけたその少女の心、少女の心のうちに秘められた世界、それはけして大人が無遠慮にふれにいくことはできないものだけれど、その世界を思いながら、その世界の輪郭にふれるように、眠る少女のやわらかい瞼にそっと触れてみる、その行為もまた、やわらかくふっくらとして、うつくしいなあ。

 

待つことはしなくていいよ待つことは寂しいから 空を犬と見に行く

/川上まなみ p157

待つことはしなくていいと相手に告げるのは、待つことの寂しさを知っているひとだから。四句の「寂しいから/空を」という句割れは、一文字あきのあとにもう一度語調を持ち上げるように字余りの破調で「空を」と挿入されることにより、「空を」に力がこもり、覚悟のようなものが滲みます。寂しさをひとりで引きうけて立つ主体の姿がそこにあります。

 

待つことの重さ、あるいは月浴というおこないに影かさなって

/梅津かなで p167

こちらも「待つこと」。この歌では待つことの重さが、月浴という行為と重ねられています。「重さ」「かさなって」という重量のある言葉がかさねられ、また、月浴というしずけさの行為のなかで待つことの重さが感受され、心に残ります。

 

 

塔4月号より

白壁に冬の樹の影うきあがり生前の肩に手を置く前世

/山下泉 p6

〈生前〉という時間に〈前世〉という時間が手を置いている、つまり、前世はやがて生前と呼ぶべき時間となりうるものであり、ひとつながりのおおきな時間軸のなかに併存しています。上句の「うきあがり」という表現が木の影をなまなましいものにし、そこにあってそこにないものをみる作者のまなざしと響きあっています。

 

一羽ゐていつよりか二羽それからのいかばかりの日々今もうゐない

/千村久仁子 p29

こちらも時間軸のおおきな歌。一羽だったものが二羽になり、ともに時間を過ごし、けれどそのうちの一羽(あるは二羽ともであるかもしれない)はもうここにはいない。いなくなった〈今〉という時間には空がひろびろとして、それはまるで悠久の時間のようでもあります。二羽いるときにはずっと続くと思えたその時間が、おおきな時間軸のなかでは、ほんの一瞬であったと知らしめるかのようです。

 

たくさんの嘘ついてきたわたくしと真っ白なおまへ 指切りをする

/澄田広枝 p38

自分のためにつく嘘ばかりではない、とはいえ、年を重ねてゆくほどに嘘は増えていくもの。嘘のない無垢な時代はほんのいっときのことで、当たり前のように嘘を必要とするようになっていきます。そのことを知り抜いているからこそ、純真無垢な幼子と指切りをするという行為それ自体には一種の残酷さがあり、「指切り」という字面のもつ怖さとあいまって痛みをともなうものとして感受されています。

 

美しい貝は使へず皺だらけの千円札をレジに差し出す

/益田克行 p52

私たちがいま生きているこの社会では、美しい貝がお金として通用することはない。その自明の理をあえて言葉におとしこむとき、なんともいえない感情が滲みます。美しいものに、美しいことを理由にお金としての価値を与えることはかなわず、システムとして定められた紙切れだけがお金としての価値を持ちうるのだということへの言い知れぬジレンマ、のようなもの。

 

納豆の糸の切れつつひかり帯びて微笑みたるか半跏思惟像

/金田光世 p54

納豆の糸から半跏思惟像へ、上句から下句への展開に目を奪われます。そこに因果関係はなく、みごとな飛躍であり、そうでありながら一度読み下してからもう一度上句に戻るとき、卑近なものであるはずの納豆の糸がなんとも神々しくかがやいてみえてくる、、、。忘れがたい一首です。

 

買ってきた色鉛筆を仕舞いたる抽斗は他の用事であける

/宇梶晶子 p61 

色鉛筆というのはなにとはなく心ときめく文具です。この主体にとってもそうであるような雰囲気があります。色鉛筆を買ってきて、それを大切に抽斗のなかに仕舞うのだけれど、使う機会がそうそうあるわけでなく、色鉛筆の存在を心にたしかめつつ、それを取り出すためでなく抽斗を開閉しているというところに感情の襞が感じられます。

 

かぎろひの春の書棚よ その奥の骨のやうなる箇所に触れえず

/小田桐夕 p161

「かぎろひ」は春にかかる枕詞ですが、単に記号としての枕詞であるにとどまらず、だんだんと明るくなっていく、つまりあきらかになっていく(その書棚、あるいはその書棚のなかの一冊のことを主体が理解していく)、という意味において有効に使われているように思われます。そして、だんだんあきらかになり、わかりはじめることにより、かえってすべてをわかることの難しさをつきつけられてしまうことの苦しさとして下句があるように思われます。「かぎろひの春」というあかるさと「その奥の骨」という存在の仄暗さ、そのコントラストに、感情の屈折が感じられます。

 

目をとじているうち運ばれた先の、年の暮れ小銭で水を買う

/𠮷田恭大 p212

電車に乗って運ばれていくのでしょう、省略の効いた文体のなかにも映像がくっきりと浮かびます。そして「運ばれた先の、」と読点で区切られたあとにくるのが場所ではなく、「年の暮れ」であることで、目を閉じて電車で運ばれていくうちに、空間のみならず、時間も(年の暮れ以前から年の暮れへ)運ばれていったかのような、不思議な味わいが醸されています。そして小銭で水を買うという行為は慎ましくもあり、手にとる水の透明感が一首にひかりのゆらめきを与えています。

 

好きだったことが好きではなくなって春のすべてが恥ずかしくなる

/逢坂みずき p215

年齢をかさねたことにより、あるいはなにかを経験したことにより、みずからの価値観が一変してしまう、ということへの苦い思い。知ることは恥の感情のはじめ。

 

蚊のかたちではあるけれど遊星のひとつとしよう血を宿しており

/梅津かなで p251

人の血を吸った蚊、その蚊をうとましいものとしてみるのではなく、なんと遊星としてみよというスケールのおおきな展開に驚きます。突拍子もない発想のようでありながら、そのうちがわに血、すなわち生命を宿すという点において、蚊と遊星は本質的に相似であることを思わされます。

塔3月号より

傷つけるだけのことばが蝋燭を貫きほのおはのたうつ鳥よ
冷ややかに燃やされている火を海とかんちがいして鳥が溺れる

/江戸雪 p5

一首目、相手を傷つける言葉とわかっていてもその言葉しかなく、どうしようもなくその言葉を口にするのでしょう。炎をみながらそこにのたうつ鳥をみてしまうという、心のにがさ。
二首目、火という熱いものをみつめつつ、そこに冷え冷えとしたものを感じています。冷ややかに燃やされている火はまるで海のようなほの暗さ。ここで火は海であり、前の一首のイメージをひいて炎のかたちは鳥でもあります。そして炎のゆらめきは鳥そのものでありながら、同時に海にのみこまれてゆく姿でもあります。

 

しろじろと撒かれし水は垂直にのぼりしか高き花梨の尻まで

/穂積みづほ p56

深い夜の場面を思い浮かべます。「しろじろと」「垂直に」「高き」という言葉がそれぞれに働いていて、たいらかな地面に撒かれた水が、垂直にのぼり、ずっと高い所にある花梨の実の根元までのぼっていくその光景が、まるで水の目線で描かれた童話かなにかのように目の前にひろがります。

 

短日を蜘蛛は巣がけり経(たていと)に掛くるそのたびきらめく緯(よこいと)

/篠野京 p88

寒い季節に蜘蛛が巣をはっている、というただそれだけの場面でありながら、冬の陽のもとでその蜘蛛の巣はなんともいえずきらきらしています。下句が平凡なようでいて「そのたび」あたりに、蜘蛛が時をかけて巣をはってゆく時間性も感じられ、また、経が緯にふれるたびに互いが互いに響きあうようにきらめく様子を思わせて魅力的です。

 

どの海のにおいでもいい砂抜きのあさりの水を残して眠る

/椛沢知世 p89

キッチンにあさりの砂抜きの水を残している、というささやかな行為であり、そこにあるのは砂抜きの水、ただそれだけです。作者はそこから海に思いを馳せているわけですが、言葉の斡旋のしかたのためでしょうか、読者もまた、作者とともに海を夢見るような、大きな海のひろがり、見知らぬ海のひろがりのイメージを受け取っているような気がします。

 

あらさう、と言ひかへす時水鳥のごときものわが声を過りぬ

/濱松哲朗 p89

「あらさう」という言葉は、頷きの言葉でありようでありながら、「言ひかへす」という言葉とあいまってここでは批判的なニュアンスを帯びています。また、音だけを考えてみると「あらそう」は「争う」をも想起させ、どこか不穏な響きがあります。作者は「あらさう」という言葉のもつニュアンスにとても意識的です。だからこそそうした言葉を口にするときの、ひやりとするような感覚が水鳥というイメージをひきだしてくるのでしょう。…それにしても、感情と鳥は親和性があるなあ。

 

鳥を飼い犬を飼う日々少女期は半透明の付箋のそよぎ

/高松紗都子 p93

下句をどのように読むべきか迷いますが、「半透明」という、透明でもなく、完全に色がついているのでもない微妙な色彩と、「付箋のそよぎ」というたよりげのないもののイメージが、少女期という繊細なゆらぎの季節とつりあっています。
人よりも、鳥や犬と心かよわせることの方が多い、そんな傷つきやすい少女期を想像させます。

 

バスの影去つてしまふと赤まんまにわたしの影がかぶさつてゐた

/北島邦夫 p103

なんていうことはないささやかな場面が、こんなにも平易な言葉だけを使って、こんなにも抒情性をもって表現できるものか、と思わされます。三句の字余りが韻律を緩めるとともに、たっぷりとした時間性のようなものを感じさせます。旧仮名とのバランスも魅力。

 

片腕で抱いた袋は重たくてひとつずつ林檎を捨ててゆく

/山川仁帆 p117

片腕で抱いた袋というと茶色い紙袋をイメージします。そこに無造作に、いくつも詰め込まれた林檎。中身は全部林檎、それも黄色い林檎か青林檎のような気がします。両手でもつのではなく、これなら大丈夫、というところまで数を減らすため、ひとつずつ手放してゆく。その動作はとても淡々としているように思われ、不思議なしずけさがあります。結果として象徴性も帯びています。

 

寂しさは小さな靴でやってくる少女の笑い声のようだね

/大橋春人 p120

はじめは少女の靴音をイメージし、読みすすめていくうちに、それが少女のトーンの高い笑い声となり、頭のなかに反響するような、不思議な感覚になります。「寂しさ」と「少女の笑い声」という一見対極にあるかのようなものをイコールでつないでいるところに、何とも言えない残酷性と痛々しさ、そしてふかみがあります。

 

くしゃみするまでの一瞬くちゃくちゃのダダイズムって顔をする猫

/鳥本純平 p162

内容のおもしろさはもとより、「く」の音のかさなり、ダダイズムという言葉のリズムが内容と不可分に世界観を作りだしています。「ダダイズムって顔」って…。



塔2月号より

ゆきあいの湖と呼ぶべし躍層は静かに昼を崩れつつあり

/永田淳 p6

「躍層」とは湖のある深度において、水温などが変化する層のことですが、この語彙により、湖の深さ、冷たい水の手ざわりというイメージが喚起されます。下句は作者の知的想像力によりイメージされている景であろうと思われ、躍層が静かに崩れてゆく昼の、なんともいえない物憂さのようなものが漂っています。

 

月がまた満ちるところへ何匹も金魚がわたしを逃げ出していく

/上澄眠 P44

童話の一場面のような、絵本の挿絵のような不思議なイメージの、けれど心惹かれる歌です。金魚がわたしを逃げ出していく、それも何匹も…という体感には、欠落感やしずかなさびしさのようなものが滲みます。

 

その影が扉を押して入り来る あなたは私でかつてのわたし

/徳重龍弥 P51

あなたという人のなかに自分自身を見いだし、さらに過去の自分自身を見いだして、下句のフレーズが目を引きます。その影というのは実景なのか、イメージなのか…。いずれにしても作者の、自分自身へのふかく、かすかにほの暗い思索が感じられます。

 

人の輪の間で目立たぬようにしてなぐさめ顔のあの子が立ってる

/乙部真実 P56

実景なのか、記憶に纏わるイメージなのか、どことなく不思議な感じがあります。「人の輪の間で」という上句には、群衆による圧力のようなものがイメージされます。そのなかでひとり目立たないよう、けれど群衆とは心的距離を置く「あの子」という存在。それは作者をなぐさめる存在なのでしょうか、あるいは「あの子」は作者そのものの姿なのかもしれません。

 

黒猫は夜に紛れる呼んだなら細い二本のひかりが届く

/大橋春人 p145

夜に紛れるようにして遠ざかっていく黒猫。でも声に出して呼べば猫は振り返って、そのまなざしは細い二本のひかりとなって作者のもとに届く。でもやっぱり黒猫は、振り返ってもまた遠ざかっていってしまうのだろうな…と思わせる、しずかで凛とした雰囲気が一首を包んでいます。

 

逃げてゆく獣の脚はさびしくて濡れた翼をたたむ鳥たち

/高松紗都子 P184

解釈をするのは難しいけれど、心惹かれる歌です。逃げてゆく獣とは、もしかしたら犬とか、わりと身近な動物なのかもしれないけれど、「獣」と表記することによって、原始的な存在としての動物を思わせます。その後ろ姿にさびしさを見いだしながら、下句へのつながりも独特です。濡れた翼をたたむことのしっとりとしたおもたさ、ともいうべき手ざわりが読後感として残ります。

 

向い風に漂うとんぼ大丈夫これは時間の流れではない

/拝田啓佑 P210

向かい風に吹かれて飛ぶでもなく漂うとんぼ。そこに苦しさのようなものを感受しつつ、容易くは進まない時間というものをそこに重ねてみてしまう。けれど、三句で「大丈夫」とみずからに言いきかせるようにして、これは時間の流れではないのだ、と言います。そこには逡巡することの痛みが感じられます。

 

 

塔1月号より

音にもああ影はあるのだ拡声器の声が団地に反響している

/乙部真実 p61

上句のフレーズ、これまで音にも影がある、というふうに具体的に認識をしたことがなかったけれど、言葉としてこのように定着されたことで、これまで漠然とは感じたことのあったはずの感覚がたしかなものとして刻まれた感じがあります。影という存在が、ときとして実在よりも大きくなったり、存在感を増したりするように、拡声器の声の反響がかすかなさびしさや不穏を含みながら、心の中に実際の声よりもながくありありと存在している、そんな雰囲気です。

 

疲れれば目を合はせなくなる人とねぢれた位置で海を見てゐる

/小林真代 p63

相手の性格をよくわかっているからこそ、あえて慰めの言葉をかけることはしない、そして横に並ぶこともしない、ただ「ねぢれた位置で」同じ海を見るだけであるということが、近しい関係の人であっても、けして踏み込めない、踏み込むべきではない領域があることを思わせます。「ねぢれた位置で」にはそれをあえて選択した作者の心情もまた滲んでいます。

 

日がさせばうそつぽくなるまるき壺けれども影はしづかな壺なり

/千村久仁子 P81

明るい日に射されるとき、壺の柄もかたちも、妙にしらじらしく浮きあがってそこに違和さえ感じてしまう、そんな感じでしょうか。けれどその影をみれば、かわることなくただしずかにそこにある。外部からの作用があるとき、実在のほうはそれに多かれ少なかれ作用されてしまうけれど、影はただそのものとしてかわらずにあり続ける。まるで影の方が〈本質〉であるかのように。

 

会ひたさは濡れてゐる羽 やはらかなあかつきの陽にまぶたをひろぐ

/小田桐夕 P86

会いたさという感情を、「濡れてゐる羽」というものに喩えて印象的です。濡れている羽の、しっとり湿った重たさ、飛び立つにはどこか気怠いような重たさを思い浮かべます。やわらかなあかつきの陽のなかにイメージされる「濡れてゐる羽」、痛々しくうつくしい一首です。

 

地下深く沈まなければ遠くにはいけない 長いながいホームだ

/紫野春 p122

都会の地下鉄の実景であり、実景だけを描きながら、それゆえに実景にとどまらない示唆的なひろがりをもっています。

 

このくちは面白くないくちだからどうでもよくないことしか言えぬ

/小松岬 P164

平仮名にひらかれた文体が、内容の痛々しさをありありと伝えます。この文体ゆえに、一首がまるで呪文のように作者の心のうちで何度もつぶやかれているかのような印象も抱きます。

 

街はいまアイーダの一曲ながし地に捨てられたままの唐黍

/髙田獄舎 p27 (唐黍:とうきび

句跨りになっている「一曲」という言葉、句跨りになっているがゆえに「一」がつよめられ、まるで街にはアイーダだけが永遠に流れているかのよう。そして下句で一転、捨てられたままの唐黍がクローズアップされて、景をそのまま詠んでいるという文体でありながら不思議な、啓示的な雰囲気が漂います。

 

 

塔12月号より

君のなかの哀しみの量(かさ)わからない ときどき夜の床に落ちていて

/前田康子 p5

近くで君を見ていても君は哀しみをさらけだしたりはしないのだけれど、不意にたとえば夜の床のようなところに、君の哀しみの欠けらだけが落ちていることに気づく作者。君のいないところに、君の哀しみの気配だけを感じています。相手の哀しみへの触れ方がやさしく印象的。

 

柊のあかい実よりも葉のつやをむしろ愛するひとだときづく

/小田桐夕 p23

ひとことに「柊が好き」といっても、その「好き」の実際はさまざまであり、そのひとが柊のどんなところを好ましく思っているのか、作者は一歩踏みこんだところに心をむけています。そして、そのひとが「葉のつや」をみているのだということに気づく。そこには、そのひとをもっと知りたいという思い、そのひとのものを見る目に対する好ましい思いが顔をのぞかせています。平仮名にひらかれたやわらかい文体と相まってそこはかとない相聞のかおりのする一首です。

 

各々がひとつの部屋に扉を閉ざし廊下にともり続ける灯

/吉澤ゆう子 P27

家族がそれぞれの時間をもつようになると、ひとつ屋根の下にもそれぞれの灯をともすようになります。その灯はそれぞれの扉に閉ざされて…。その扉の外側にしずかに灯り続ける廊下の灯は、母である作者自身の投影のようでもあります。

 

分け合はむと取り置くぶだう二晩の儀式のやうに独り食みをり

/清田順子 P85

ふたりでいたときには当然のようにふたりで分けあうものだったぶどう。けれどいまはあなたはいない。あなた不在の部屋で、あなたの分であったはずのぶどうまで二晩をかけてひとりで食べる。あなたのことを想いながらひと粒ひと粒ゆっくりと口にはこべば、その所作はどこまでもしずかで、どこか儀式めいてくるのです。

 

鮎洗うとき匂いくる血のあれば指先は最も悲しみの部位

/小川和恵 p92

鮎を洗う指先、指先というところは、目の前にあるなにかに触れてそのいたみに触れるところである、と同時に、触れて力を及ぼしてしまうところでもあります。

 

サラダスピナーにレタスの水を切りながら過去とは遠い一点ではない

/小川和恵 P92

サラダスピナーにレタスの水切りをすると、レタスについた水滴はふるい落とされる。けれど、いま自分の心に存在する過去は…。〈今〉というときから切り離し、ふるい落とすことなどできない〈過去〉という時間。〈過去〉という記憶。

 

もう二度と訪れることのない街に紅葉は何度でも赤くなる

/鈴木晴香 p104

訪れることはもう二度とないであろうと思うその街に、自分がいてもいなくても、そんなことにはまるで関りもなく季節は巡ってゆく。いま、その街に紅葉があかくなっているのを想像するだけでなく、これからさきの、長いながい時間のなかに何度も赤くなることを想像することで、その街までの、その街の記憶までの、心理的な遠さがより一層際立ってきます。

 

はじめから触れられないとわかっている安心求め展覧会へ

/椛沢知世 P126

触れるべきか触れざるべきか、人との距離のとり方に心を砕く作者でしょうか。そんなとき、展覧会の作品を思えば、それは触れてはならないことがあらかじめ明示されている世界。そのことへの気づきが作者の思考を落ち着かせるのでしょう。

 

胡瓜食む奥歯のすんと涼しくて秋はもう輪郭のうちがわに

/魚谷真梨子 P150

輪郭とは、みずからの輪郭であり、時間性ともいうべきものの輪郭でもあるようにも思われ、胡瓜を食むときに秋という季節をその輪郭の内側に感受する、というその下句に惹かれます。季節とは外側から内側にやってくるものだろうか、それとも内側に芽生えるもののだろうか、ということにも思いを馳せつつ…。

 

柿あおく雨に打たれつ筆箱を落して列に遅れる子あり

/福西直美 P164

また熟していない柿が雨に打たれるときの、冷たさ、鋭さ。それが筆箱を落として響く音とも共鳴しあって、そこはかとないさみしさが匂います。作者の視線は対象の外側にあり、感情の語彙はなにも用いられていないところがよく、不思議な余韻があります。

 

食卓にキャンドル一つ 伸び縮む闇にカインの嘘を逃がそう

/鳥本純平 P194 

食卓のキャンドルの炎の揺れから「伸び縮む闇」を見いだしています。その闇はさまざまな葛藤にゆらめく心かたちのようでもあります。キャンドルという西洋的なアイテムから作者の思考は聖書へと及び、カインのついた嘘の裏側にある彼の葛藤、ひとりの人間としての彼の心のにがさに心は添っていくのでしょう。

 

塔11月号より

ひとつはしらふたつはしらとかぞへつつじふさんぼんをつりおろしたり

/真中朋久 p5

「はしら」とは、神や位牌、遺骨などをかぞえる単位。数字のみが具体として提示され、事実のみが描かれながら、平仮名にひらかれた文体がその行為の意味をかみしめるかのような雰囲気を醸しています。厳かな場面でありつつ、ご神体を人間がつりおろすという行為そのもののもつ不遜に思いを馳せるような、うっすらとした不穏も滲んでいます。

 

蝶の翅 生まれて初めて開くときそのひとところ森の嵩増ゆ

/土屋千鶴 P13

蝶が羽化する場面。蝶がはじめてその翅 をひらくというその高揚感が、森の嵩が増えるというイメージでとらえられています。実際には、蝶が羽化することで森の嵩が増えるわけではないわけですが、「嵩増ゆ」という断定になぜか納得させられてしまいます。とても抽象的で象徴的な把握であるにもかかわらず、蝶がうつくしい翅をゆたかにひろげる映像を呼びおこし、観念で終わらないイメージのふくらみがあります。

 

とめどなき暑気を言ひつつ絵のなかの景色のごとく忘れゆくべし

/溝川清久 p16

この夏の途方もない暑さのことを言いながら、その一方でどんなに激しく忘れがたいと思われることでも時間とともにその記憶は薄れていってしまうことを承知しているもうひとりの自分。「絵のなかの景色のごとく」という比喩は、ひとときの自分をとらえてながらもやがて薄れていってしまう対象物との距離感、その心もとなさようなものを伝えるものとして、体感のある比喩となっています。

 

立秋やまだ燃えてゐる夏の野に草城が銀の匙まぼろし

/出奈津子 P80

暦の上では立秋、でもまだ夏の暑さの残る野に、草城の銀の匙まぼろしがみえる、という一首と読み、なんて素敵な歌だろうと思いました。「草城」は「くさしろ」、いまはもう草に埋もれた城跡のことだろうと思い、また、「銀の匙まぼろし」とは、かつての城の栄華の象徴なのだろうと思いました。が、よくよく読んでみると、これは日野草城の〈秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙〉という句を下敷きにしているのかな、、、と。それでもなお、言葉のとおりに受けとって自分のなかに広がった最初のイメージをあきらめたくないという気持ちもあります。

 

銀の紙ひらき牛酪を掬ひたりそののち深くなる雨のをと

清水弘子 p92

バターを、その銀の包みをひらいて掬う、というただそれだけの場面なのに、詩情があります。そのしずかな行為ののちに、耳はより雨の音を意識するわけですが、一首を通して静謐でどことなく啓示的な雰囲気があります。

 

噴水を燃える焔に見立ててはそれをあなたに黙って消した

/白水ま衣 P93

消えても消えてもまた噴きだして、焔のように噴きあがる噴水。焔のようにみている噴水は、とりもなおさず作者の感情のありようなのだろうと思います。けれど、その焔のことは、相手に伝えることはない。焔でありながら噴水であるそれは、はげしさもありつつどこかひえびえとしてさびしげで、内省的な作者の姿がたちあがります。

 

食べて寝て目覚めて食べるうさぎいて食べられてゆく草の音する

/福西直美 p106

淡々とうさぎの行為に着目しその行為を並べ、また視点をかえて食べられていく草の音に着目します。感情を排した詠みぶりで淡々と描かれているようでいて、「食べられてゆく草の音」というのがよく、連綿とつづく生命の、その本質的なところが掬いとられているような深みがあります。

 

マグカップにシンクに映りてゐし吾をあつめてひるの眠りにおつる

/千村久仁子 p142

マグカップやシンクに映るおぼろげな自分の姿。それは昼という時間帯のあいまいさゆえでしょうか。真昼間にばらばらと浮遊するような自意識を、眠ることによって取りもどすような不思議な感覚が魅力的です。

 

合歓の木にねむりのかよふ夕ぐれは子供のやうに月出てをりぬ

/福田恭子 P164

合歓の木、ねむり、と「ね」の音が重ねられるやわらかさ、その後も「よ」「ゆ」「や」というやわらかい音がつづき、一首を夢のような雰囲気で包んでいます。声にだして読んだときのなんともいえないここちのよさ。合歓の木に「ねむりのかよふ」というどこか不思議な感覚の表現も、「子供のやうに」月が出るという意外性のある比喩も魅力的です。

 

夕刻は影がわたしを離れて在るごとくに見ゆるリード引きつつ

/山川仁帆 p157 (離:か)

夕刻には、影がみずからを離れて存在しているように感じられるのだ、という作者。夕刻のよわくあわいひかりのなかで、ながくのびる影。どこか現実から浮遊したような感覚とともに、そう感じられるのでしょう。「ごとくに見ゆる」という部分は、「在る」と断定してもよかったのでは、とも思いましたが、何度も読むうちに、この「ごとくに見ゆる」という緩慢な言いぶりが、夕刻の、淡く、どこか現実から浮遊したような感覚を生みだしているようにも思われ、また、その影を、距離をおいて外側からみているような視線も感じられて、必要な表現であるように今は思っています。