松村正直歌集『風のおとうと』
今日は松村正直さんの第四歌集『風のおとうと』を読む会に参加します。
いま、わたしのなかにあるものをここにまとめておきます。
読む会でみなさまの読みに出会えること、そしてそれによってこの歌集への思いをさらに深められるであろうことを楽しみにしています。
◆踏み入ること、踏み入らぬこと
投げ入れる人間あれば見えねども空井戸の底に石は増えゆく
よってたかってみなでこわしておきながら春のひかりがまぶしいと言う
向きをかえて五条通りを西へゆく誰もあなたを見なかったのか
この歌集を読み進めていくなかで印象的だったのは、意外にも象徴性を帯びた詠みぶりが多いということであり、そこには作者自身の琴線そのもののような切実さが滲んでいます。このような詠みぶりを選択することにより、表現することのむずかしい部分にあえて挑んでいるような印象を受けます。
一首目、二首目にみえてくるのは、無自覚のうちになにかを傷つけていくものへの静かな憤り。ものごとを意識的にフラットに、色づけをせずにみようとする主体にとって、そこに無自覚であるということはそれ自体暴力性を帯びてみえるのでしょう。そしてその感情は、三首目のように作為に対してだけでなく、無作為に対しても向けられ、気づかないこと、見過ごしてしまうことに対する痛切な叫びのように響きます。
◆語られることの真実性
烏瓜の揺れしずかなり死ののちに語られることはみな物語
本当か嘘かはひとが決めること紙にインクはあおくにじんで
一首目、人は誰かの真実を語ることなどできはしない、真実はそのひとのなかにのみあるのだと。烏瓜のしずかな揺れを見つめつつそう思いいたる主体のなかにあるのは、人と人とが完全にはわかりあうことのないことへの一抹のさびしさ、でしょうか。
二首目は、一見すると一首目の感慨とは相反するようにも思われます。けれど、人の語ることがたとえ自分の真実でなかったとしても、この世界に生きて生かされていく以上、甘んじてそれをそのままに受容するのだという、主体の諦念にも覚悟にも似た思いがそこにはあるようにも思われるのです。
◆人との、ものとの距離のとり方
もっとも愛した者がもっとも裏切るとおもう食事を終える間際に
その先は入ってならぬところにて見えない線の上にたたずむ
感情に任せてひとを傷つける、あるいは遠い夏の海鳴り
彎曲するプラットホームの先に立つ横顔ふいに見えてうつむく
橋をゆく人には橋の見えざるを河原に立ちて見上げていたり
一首目、人に深入りするということは、深く傷つくことであるという思い、人にかかわる、ということはそれだけの覚悟がなければならないのだという思いが滲みます。一方、二首目、三首目、自分が傷つくことと同様に、あるいはそれ以上に、人を傷つけてしまうことに対して敏感である主体。ひとを傷つけることにまつわる記憶は、遠い夏の海鳴りのように、折々主体のなかに去来するものなのでしょう。
四首目、「彎曲する」という描写がとてもよく、うつくしく景のたつ一首であり、また、そのプラットホームの先に立つ誰かと主体のその距離感は、歌集を通じてみえてくる主体の他人との距離のとり方を象徴するようです。
五首目、橋をゆく人のまなざしにみずからのまなざしを重ね、橋をゆく人の目には渡ってゆく橋の姿はみえないのだということに思いを馳せながら、すこし離れたところから橋と人を見ている。橋が見えないまま橋をゆく人とは、ときに主体自身であるという思いもあるのかもしれません。
◆馴染まないものを、馴染まないままに
風景にやがてなじんでゆくまでを永遠にガラス張りの市庁舎
傘を持たぬ若者ひとり流れより遅れつつすすむ橋の時間を
鉄橋を渡れば見えてくる町の偶然だけがいつも正しい
一首目、まわりの風景にどこかしっくりとはまらないままの、ガラス張りの市庁舎は、けれどみずからの姿を変えることはできない。そのまま、あるがままにみずからがなじんでゆくまでをじっと待つばかり。それはこの世の中にどこか違和を感じつつ、それでもあるがままのみずからを保って生きてゆく主体のさびしさと響きあうようです。
二首目、橋の時間とはせわしない現実からすこしずれるような、現実とはすこし異なる時間の流れのあり方なのでしょう。そのなかを傘を持たず、流れからすこし遅れてひとり歩いてゆく若者をみるまなざしに、主体の心寄せが感じられます。あるいはこの若者は主体そのものであるようにもみえてきます。
三首目、予期しないことに溢れる生において、「偶然だけがいつも正しい」というのは、前掲の歌の「本当か嘘かはひとが決めること」と同様に、抗わないことにひとつの価値を置く、というあり方そのものにもつながっているように思います。
◆言葉によって把握する世界
人形をあきなう店が地下にあると知りてよりここに階段がある
しばらくは動かずにいる地下鉄があなたを通り抜けてゆくまで
午前中に仕事終えたる豆腐屋が水とひかりを片付けており
夏の午後を眺めておれば永遠にねじれの位置にある橋と川
一首目、それまではかかわりもなく、気に留めることもなく、素通りしていた地下への階段。人形を商うその店があると知ったそのときから、その階段はささやかなりともなんらかの意味と色をもって主体の生にかかわってくるようになります。現実に「ある」ということと、自分にとって「ある」ということの違いへの気づきがそこにはあります。
二首目は、地下鉄であなたの住む街を通過する場面でしょうか。あなたというひとの存在は、あなたを思う主体にとってはその街の存在そのものと重なって、そこを地下鉄で通りすぎるとき、まるであなたを通り抜けてゆくような気持ちになる、ということなのでしょう。
三首目は「水とひかり」という把握がうつくしく、四首目の「ねじれの位置」という把握には、深い洞察眼と、永遠に変わらぬ関係へのそこはかとない哀しみが漂います。