齋藤史歌集『ひたくれなゐ』より
ひきつづき、齋藤史歌集『ひたくれなゐ』の五首選を。
『ひたくれなゐ』は史67歳の刊行。『魚歌』より36年を経ています。
テーブルの均衡を信じ居らざればグラスの水の夜をきらめく
水がきらめくのは水がかすかに揺れたからなのでしょうか。平行なテーブルの上では揺れることはない、はず…。けれどみめぐりには、そうであろうと思い込んでいることのいかに多いことでしょう。きらめく水は、テーブルの均衡を信じない、常識と思われていることを鵜呑みにしない、という作者に呼応するかのようです。
どこに置きても位置のふさはぬ壺ひとつ水なみなみと充たす日の暮
どこに置いてもしっくりとこないその壺には、作者自身の姿が投影されています。どこにいても心の底からやすらぐことのない生きづらさ。それは拭い去ることのできない重く暗い過去の記憶からけして心解き放たれることのない生きづらさでもあるのでしょう。けれど、だからこそ、壺になみなみと水を充たす、そこにみずからの生に対する矜持がみえます。
花らんぷ我家にありしことなきに 若かりし母が日ごとともしき
存在しない花ランプを、母がともしてくれたという、つじつまの合わない内容でありながら、懐かしくせつなく、なんとも言えない感情を呼びおこされます。「花らんぷ」という表記も独特の雰囲気を醸しだしています。
理の通った歌が多くみられるこの歌集のなかで、『魚歌』の前半を思わせる、不思議な雰囲気と魅力のある一首です。
山繭のみどりの色の褪せ易き知りてより少年は蒐めむとしき
(蒐:あつ)
山繭の、うつくしいみどりの色それ自体ではなく、その色が褪せ易いものである、というところに魅了される少年。その〈色の褪せ易さ〉は、多感で傷つきやすい〈少年〉という存在そのものと呼応し、はかなく、うつくしいものとして互いに響きあっています。
そしてその背後には、そのような少年の嗜好を甘やかにせつなくみつめる作者まなざしもおのずと色濃くみえてきます。
ねむりの中にひとすぢあをきかなしみの水脈ありそこに降る夜のゆき
(水脈:みを)
ねむりの中のうすやみにぽうっと浮かびあがるその水脈は、心の底にいつも抱き続けているかなしみなのでしょう。そこにしずかに降りつづく雪は、遠い記憶を呼びおこしつつ、かなしみをそのきよらかさのうちに浄化し癒すもののようでもあり、よりひえびえと深めていくもののようでもあります。平仮名の多いやわらかな表記も歳月を経たかなしみの有りようをあらわすかのようです。
あるいは、二・二六事件に結びつける解釈を避けるならばこのかなしみは、人が生まれながらに抱かずにはいられない生のかなしみ、未分化のかなしみ、ともいえるのかもしれません。