欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔9月号より

根こそぎになりて倒れてゆくときにみづならの樹は川を渡りぬ

小林幸子 P5

地崩れで倒れてしまったミズナラの樹。すこやかに根をはり立っているときには、たとえ望んでもけして渡ることかなわなかった川を、根こそぎになって、もうどうしようもない姿になって倒れていくそのときになって、はじめて渡ることとなったのだという作者の着眼がせつなく響きます。「なりて」「倒れて」という「て」のかさなりがここではゆったりとした韻律を生み、ミズナラが倒れてゆく姿がゆっくり、スローモーションのように映像としてみえてきます。

 

ぬれた言葉ぬれた真実ぬぎすてよさもなくば鹿はもうもどらない

/江戸雪 P6

上句を正確に読み解くのは難しいですが、「ぬぎすて」るという言葉から、濡れ衣という言葉なども思い浮かびます。浮名や噂、世の中に溢れる根拠のない不確かなこと、そういうものを疑いもなく受容することへの嫌悪のような感じ。「ぬぎすてよさもなくば」のとてもつよい口調も印象的。「鹿」とは、原初的なうつくしさのようなイメージでしょうか。全体的に抽象性の高い表現がなされながらも、作者のつよくたしかなメッセージが胸に迫ります。

 

アスファルトは色の集まりあの猫が落とした影を私がひろふ

/穂積みづほ p29

アスファルトに瓶リサイクルのカレットが利用されていると、きらきら光を返し七色に光る、上句はそういうことを言っているのかなと思いつつ、下句を読むと、ちょっとちがう気がしてきます。アスファルトとは、その道をゆきかう数知れぬ人や生き物が影を落としていくところ。そのそれぞれの影の色の集まり。そんな風にも感じられてきます。下句の「猫が落とした影」という表現も不思議な感じを残します。

 

くるぶしは六月の雨に濡れながらわたしのための言葉など要らず

/大森静佳 P42

わたしのための言葉、それはたとえばみずからを慰撫するための言葉、という感じ。そのために言葉を使うのではない、ということでしょうか。大森さんの、他者の魂に呼びかけるような歌、時空を越えていく歌、そういうものを思い起させます。みずからにとどまるような言葉ではなく、もっと大きく、もっと深いなにかを希求する、この歌は、そのためにみずからに課す言葉のようにも思われます。

 

日の暮れの早くなる日々遅くなる日々を生きおり 鍵ぶらさげて

/宮地しもん p46

季節により日の暮れの時刻が刻々と変わってゆく、その移り変わりを、淡々と言葉で捉えて、それにもかかわらず得も言われぬ味わいがあります。そしてそのなかで、毎日朝になれば家から出て、夜には家に帰る、そんな変わらぬ日常を送る姿を、「鍵ぶらさげて」の言葉だけで伝えています。つつましやかな、けれどたしかな生がそこにあります。

 

葦原にことばはなびく ほんたうはこちらに向けてしまひたかつた

/小田桐夕 P115

なびくことばは、作者の逡巡する心でもあるのでしょう。本当は、強引にでも伝えたいことがあるのにもかかわらず、相手を思い、相手の思いを最大限に尊重したいと思えばこそ、自分の気持ちをありのままに伝えることも躊躇われてしまう、そんな逡巡。その、相手を思えばこそ言葉を躊躇ってしまうどうにもならないもどかしさ、やるせなさ、声には出せない心の声が、下句の平仮名にひらかれた口語旧仮名の文体にのっています。

 

ぼんやりなきうりの私さう言へばあなたは熟瓜(ほぞち)あねといもうと

/千村久仁子 P119

「ぼんやりなきうりの私」というフレーズにまず驚き、そして掴まれてしまう。作者の言葉のゆたかさにはいつも驚かされます。亡くなられた妹さんをながく詠い継ぐ作者ですが、この一首もなんともせつなく、あたたかい一首です。
この一首の前には、〈籠にゐるきうりのわたしここちよき風うけ何のはならひもなし〉という一首も置かれていて、こちらは、みずからが籠の胡瓜になってしまったような、存在が溶け合うような不思議な感覚があります。そして、あるがままであること。あるがままに、他者や自然を受容する落ち着きと深みがあります。

 

窓ひとつ息をしてをり青つたのしづかに暮れきつてしまふまで

/福田恭子 p121

暮れてゆく部屋の窓、おそらく主体はその部屋にひとりいて、じっと窓をみているのでしょう。「暮れきつてしまふまで」には、それなりの時間の経過が感じられます。この暮れどきという時間の、どこまでもしずかでありながら、けれど感情をゆすぶられるような独特の感触。暮れきってしまうまでじっと窓の息づきをみている姿は、かすかに怖さもあり、窓と主体のまなざしが溶け合って、窓と主体が一体となってしずかに息づいている、そんな雰囲気があります。

 

つり合ってしまえば遊べぬシーソーのむこうの端にだれか座った

/落合優子 p146

シーソーは両端に座るものの重量がちがうこと、つり合わぬことが大事。そうであることは承知の上で、なおこの一首には得も言われぬさびしさが漂います。シーソーのむこう端にだれかが座ることにより、主体の座る側がぐん、と持ち上げられる様子は、まるで主体がこの世界に投げ出されるかのような感触があります。「だれか座った」というそっけない言いぶりは、相手がだれであるかにかかわりなく、他者と自分、という立ち位置を冷めたまなざしでみているような感じがあります。
一連には癌を患い抗がん剤治療をする様子が描かれ、それゆえにこの一首には、病に選ばれてしまった自分、というやるせなさも滲むように感じられます。

 

〈木〉のならぶ文字は淋しいさしのべてふれたき枝に枝の触れえず

/福西直美 p198

〈淋〉という文字は木がならんでいる。一本であるときよりも、ならんだときにこそ、さびしさはさびしさとして顕在化する。相手があって、その相手に触れたい、届きたいと願うときに、さびしさというのは生まれるものであり、一人より、二人いるときにこそさびしいというのは、人間の本質的な感情であるのだろうなと思っています。