欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔8月号百葉集に

塔8月号百葉集にとりあげていただきました。

画家は終わりをみていただろう絵の青の奥へ奥へと鳥のはばたく

/中田明子「塔」2016年8月号

絵に描かれているのは、鳥が飛んでいる途中の空間だけである。しかし、画家の目は、鳥がどこへ飛び去っていくかを見ていただろうと想像している。絵に内蔵された時間を感じている歌。明るい儚さのようなものも伝わってくる。

(評・吉川宏志さん)

 

ありがとうございました。

 

塔5月号選歌後記に

塔5月号選歌後記にとりあげていただきました。

館内にあがなう葉書のその貌に絵に見たる翳写りておらず

/中田明子「塔」2016年5月号) 

 即物的に解せば、美術館と撮影のライティングの違い、ということになる。ただ、そうではない。写真はあくまで写真であって、実物で触れた感動は再現できないのだ。陰翳を消し去ってしまうことへのかすかな違和感。

(評・永田淳さん)

 

ありがとうございました。

 

〈水位〉

教会に入ったことは三度ある   川の水位は日ごとに戻る
/安田茜「weather」『かんざし』創刊号

作中主体はどんな状況下で教会に入ったのであろうか。これまでに三度だけ、ということはクリスチャンではないけれど、ということだろう。単に地元のあるいは旅先での経験のことをいっているのか、それとも教会に行かずにはいられないような、教会という静謐な場所を求めずにはいられないようなことがかつてあったということだろうか。後者であるようにも思われる。それは下句とのかかわりゆえであるかもしれない。
川の水位は雨や海の満ち引きによって水位を変えるが、それもいずれまたもとに戻る、日々その繰り返しである。
作者はどこかみずからのことを冷めた目で客観的に見ているようなところがあるように思う。だからここでも、どんなに激しい感情が自分に沸き起こったとしてもそれはいっときのこと、いずれ自分自身のその感情すら日常のなかで平準化されていくのだ、と達観とも諦念とも思えるような思考が作者のなかにあるように思う。それが下句の川の水位と結びついていくのであろう。
うちに激しさを秘めながらも静かな一首である。
 
そのほかに...

陽に褪せた煉瓦を順にふみながら発話するほどあなたとずれる
点火するようにひとさし指で押す列をはみ出た詩集のひとつ 

塔9月号月集より

おとついもきのうも雨で今日やっとカンナのそばに涙ながせり
/江戸雪「塔」2016年9月号 

おとついもきのうも感情を、たぶん負の感情をやりどころのないままに押し殺すようにしてやり過ごした。そうするしかなかった。雨で、とあるがそれはなにか象徴としての雨であろうか。そして今日やっとその感情をしずかに解き放つのである。カンナというつよい花に見守られるようにして。
 

わが知らぬ雨の静かに降りいたり夜は甍を遠く光らせ
/永田淳「塔」2016年9月号 

主体のいる場所からは雨は見えない。夜、遠く光る甍がそこに音もなく降る雨を顕在化させるのである。〈夜〉が〈甍を遠く光らせ〉るのだと、夜を擬人化させたことが夜のスケール感を描きだしているように思う。うつくしい一首。
 

撫でたら死んでしまふ気がして黒犬はそのまま死にきドクダミ咲くころ
/河野美砂子「塔」2016年9月号

撫でてやりたい気持ちはやまやま、けれどここで撫でてしまったら愛しいこの犬は安心してそのまま目を閉じてしまうかもしれない、そんな心の葛藤。文体にややねじれがあるのだがそれが主体のやりどころない心のありようをなまなまと伝える。
梅雨どきほの昏い場所に群生するドクダミの花のイメージが主体のしずかにして深いかなしみに寄り添う。
 

君が君のためだけに笑ふ小さき声ひさびさに聞く夜の机辺に
/澤村斉美「塔」2016年9月号

(塔紙面上の永田和宏さんの評がすばらしいのでぜひそちらを。)
 

風つよき日に子が拾いたる木片が白いタオルに包まれてあり
/花山周子「塔」2016年9月号

この一首にただようそこはかとないせつなさはなんだろう。拾った木片がタオルに包まれている。詠まれていることはそれだけなのに、ドラマがある。〈風つよき日に〉〈白いタオルに〉が役割を果たしているのだろう。そこにはわが子を(わが子の痛みを)そっと見守る母の視線がある。
  

塔7月号月集より②

ルリユールと声に出だして言うときの湿りをはつか手渡している
/永田淳『塔』2016年7月号 

ルリユールとは、フランス語で「綴じ直す人」という意味である。そこにはおのずと本に対する愛しみが感じられる言葉である。
そのような言葉を声に出していうときの、なんともいえない感慨をそっと手渡すのだという。相手もまたその感慨を理解する人であるという確信があってこそ、作者はその繊細な感覚を手渡そうとするのだろう。
 

水としてあるいは影としてわれは吾子の視界を横切つて行く
/澤村斉美 『塔』2016年7月号

生まれたばかりの赤ちゃんはまだものの輪郭をはっきりと認識することができない。赤ちゃんの目に映る母親はあたかも水の塊のようでもあり、影のようでもある。
けれどこの一首はそのことにとどまらず、子どもにとって親との関係はかりそめのもの、やがては離れていくものであることをも示唆しているように思われる。そう思うとき「横切つて行く」がせつなく響く。
 

緻密ともちがう細部の表現がトトロを走らせトトロを眠らす
永田紅『塔』2016年7月号

ものごとは緻密につめていけばすべてを把握できるかといえばそういうものではなく、緻密さとは違う次元の、感性の細やかさ、繊細さ、そのゆたかな襞のようなものにしかとらえられないものがある。トトロの世界を存在させうるのはまさしくそういう部分。
 

塔7月号月集より

山桜の遠き乳色そこに行くことのできぬを去年も思いき(去年:こぞ)
見たような、何も見なかった気もしつつ今年の桜過ぎてゆきたり
吉川宏志「塔」2016年7月号 

忙しい日々のあわいに思いをはせる遠き山桜。去年も見に行きたいと思いつつ行けなかった、そして今年も。「今年も思いき」ではなく「去年も思いき」ということで今のやるせない思いがよりつよくせつなく伝わってくる。
日々のあわいに何気なく目にしつつ、桜の開花時期はあっという間に終わってしまう。果たして自分は今年桜を見たといえるのだろうか。はかなく、まぼろしのようにも思える今年の桜。

 

どこまでが桜どこまでが日暮れだろう 眼は今日もふたつしかなく
/前田康子「塔」2016年7月号 

日暮れにみる桜はこの世のものとは思えない妖艶さをまとう。そんな桜を目の前にすると人間の存在が圧倒的にちいさなものに思えてくるほどに。「どこまでが桜どこまでが夕暮れだろう」という上句はそんな桜独特の雰囲気をとらえて印象的。そしてひとはふたつしかない眼に桜を焼きつけるのだ。
 

揺れながらささめきながらこころとはときに桜を憎むいれもの
/江戸雪「塔」2016年7月号

桜とはどうしてこんなにも日本人の心をかき乱すのだろう。その開花を待ち焦がれ、満開を迎えれば心震わせ、散りはじめればどうしようもなく胸苦しい。そんな気持ちにさせる桜をときに憎いとさえ思う。そうして桜がいよいよ散ってしまうとさみしく思うと同時に、やっと心の平穏を取り戻せると安堵することもまた事実かもしれない。
 

〈一つの花の名前〉

ゆみづのやうに言葉をつかいそれでゐて一つの花の名前がいへない
/藪内亮輔「心酔していないなら海を見るな」『率』10号

人は言葉を用いてみずからの感情を伝えることができる。それでも、それにもかかわらず、言葉の力というものは有限で、その限界に直面してはしばしば絶望する。もっとも伝えたい心の深部はそうたやすくは言葉にはならないものである。「ゆみづ」と平仮名にひらかれていることによりなにか言葉への無力感が漂うようであり、「それでゐて」という転換にはしずかな怒りや苛立ちを感じる。
「一つの花の名前」とはどう読めばよいだろうか。言葉にしたいと切実に思っているにもかかわらず口にしようとすれば自分のなにかが躊躇させてしまう、あるいは嘘になってしまう、そんな言葉であるかもしれないし、もっとシリアスなことをいっているのかもしれない。
掲出歌の語り口は一見抽象的であるようでいて、読み手はああこの感覚わかる....という思いを呼び起こされるだろう。あくまで詩的でうつくしい表現に昇華させながらみごとに真理を突いている、そんなふうに思う一首である。