欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

〈膝に咲く〉

会いに行こうと思ったことはあるけれどそのたび膝に芙蓉が咲いて 
/佐々木朔「夏の日記」『一月一日』vol.3

会いに行こうと思わないわけではなく会いに行こうと思ったことはある。一度ならず何度も。けれどそのたびに膝に芙蓉が咲くのだという。
芙蓉とはちょうど今頃の季節に咲くアオイ科の花。朝にひらいて夕方にはしぼんでしまう。学名のHibiscus mutabilisのmutabilisは変わりやすい、不安定な、という意味。
会いに行こうとはするもののそのたびにためらいの気持ちが出てしまう。作者にとってどんな関係の人であるかはわからないけれど、とても大切な、そしてどうしても会って伝えるべき何かがある人だろう。
ためらいの気持ちが生じるときのその感覚が膝に集中していくのが独特である。自分は会いに行こうとしているのに膝に芙蓉が咲くから行かれないのだといわんばかりの口ぶりが、会いに行こうという気持ちは十分にあるのに、むしろ会いに行かなければいけないとさえ思っているのに、それができないのだというどうにもならなさを表しているだろう。そしてなにより「膝に芙蓉が咲いて」がうつくしくてかなしい。
 

〈眼窩〉

街は今日なにをかなしむ眼球なき眼窩のやうな窓々を開き 
稲葉京子『ガラスの檻』

〈われを包むガラス如き隔絶よこのさびしさに衰へゆかむ〉にみるように、この歌集には作者の生きて負う深いかなしみが一貫して流れている。それは〈まことうすき折ふしを織りふり返るわが歳月はうつくしからず〉のようにときとして作者自身の自己否定の感情にもつながってゆくものであるのだが、稲葉京子はそのことから目を背けることをしない。
掲出歌では街、すなわち作者の生きるこの世界が内包するかなしみに思いが及ぶ。「眼球なき眼窩」のそのくぼみは世界を受容する。目に見えるものだけではなく、目に見えないもの、見ようとするものにしか見えないもの、けれど厳然としてこの世界に、そして一人ひとりのうちに存在するものを受容する。それは生きることの真実を見つめている作者のひときわしずかなまなざしそのもののようである。

 

〈白木蓮〉

両岸をつなぎとめいる橋渡りそのどちらにも白木蓮が散る(白木蓮:はくれん)
 /永田紅『日輪』

これは作者が大学受験を終え浪人生活をはじめた頃の歌である。
まず目をひくのは、橋とは両岸をつなぎとめているものである、という把握である。
歌集には〈対岸をつまずきながらゆく君の遠い片手に触りたかった〉という歌があり、ここでも〈対岸〉は届かない君が存在する場所の象徴としての意味合いがあるように思われる。
掲出歌にもどれば、実際には橋がなければ両岸が離れていってしまうということはないのであって、そこには〈岸〉あるいは〈対岸〉というものに作者の心境が投影されていると思われる。〈対岸〉は大学進学を決めて新しい道を歩みはじめた友人たちのいる場所であろうか。これから浪人生活をはじめようという作者にとって眩しくも届かない場所であっただろう。
作者が橋を渡りゆくとき、こちらの岸にも、対岸にも、白木蓮は同じように散る。白木蓮は同じように散るのに、こちらの岸と対岸とはまったくちがう世界なのである。それがせつない。
 

〈ためらい〉

門をたたけ‥‥‥しかし私ははるかなるためらいののち落葉を乱す
永田紅『日輪』

これは「骨が好き」という題の一連におかれる相聞歌である。
「門を叩け、さらば開かれん」というマタイの福音書の一節を思わせるこの初句に、作者はみずからを鼓舞する。恋を一歩進めようとするのであろう。けれど次に作者は「‥‥‥」という空白の間を置く。この「‥‥‥」は作者のためらいであり思慮であり、その空白の間により読者は次の展開を息をのんで見守ることとなる。
その展開とは「落葉を乱す」。思慮深く、ものしずかな印象のつよい作者であるがゆえに「乱す」という言葉が読者の心に激しく突き刺さる。ものしずかでありながらそのなかにもえる炎を抱く作者をみる思いがする。
そして次に置かれるのがこの一首である。

関係は日光や月光を溜めるうちふいに壊れるものかもしれぬ 

 

塔5月号花山多佳子選歌欄評に

塔5月号の花山多佳子選歌欄評にとりあげていただきました。

一通のメイル打ちつつきざしくる遠きいたみよ夜は明けゆく
/ 中田明子(塔2016年3月号掲載)

「遠きいたみ」はどのようなものだろう。 この歌からそれを読み解くことは困難だ。しかし夜明け前に打つメイルの内容を想像することで近づいてはいける。まず、メイルはEメールの意味だろうから誰に送るにしても距離の問題はあまりない。となると過去からくる痛みだろうか。夜明けの時間まで打っているということはとても深い痛みなのだろう。忘れていた痛みが再発しているのだろう。細かいことだが、「メイル」の表記が良い。

(評・大木はちさん)
 
ありがとうございました。

 

〈野の花〉

オフェーリアながれ、アネモネ手を離れ水辺のような部屋を歩みぬ
野の花を束ねいたりし手のちからゆるみてもなお言葉はのこる
永田紅『北部キャンパスの日々』 

『北部キャンパスの日々』は日付のある歌として『歌壇』に一年間連載された作品がまとめられた歌集であり、掲出歌は12月19日「テートギャラリー」とタイトルがつけられた連作の一部である。作者はこのときイギリスを訪れている。
テートギャラリーといえばロンドンにある国立美術館。そのなかでもジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』は有名である。
一首目、オフィーリアが水に浮かび、アネモネがその手を離れていく、そのような水辺の絵を眺めながら作者自身、水を打ったように静まり返るその展示室を水辺を歩くような心持ちで歩いてゆく。オフィーリアとアネモネと自分の動きが並列に表現されていることで作者がその絵のなかに没入している感じがうかがえる。(ただ、アネモネは絵のなかの花のことであればケシではないだろうか。)
二首目、オフィーリアが手にしていた野の花にはそれぞれ花言葉が秘められている。スミレは純潔、ケシは死、ヒナギクは無邪気、パンジーはかなわぬ愛、というように。「手のちからゆるみてもなお」という部分が平仮名にひらかれていることは若きオフィーリアの純真、それゆえの無力を示すようである。オフィーリアが死し、その手に握られていた野の花がその手から放たれても、オフィーリアが命を賭して伝えたかったであろう言葉はその絵をみるものの前につきつけられている。
いずれも心理的、時間的重みを感じさせ、しずかなかなしみを湛えた歌である。
 

大森静佳歌集『てのひらを燃やす』より

触れることは届くことではないのだがてのひらに蛾を移して遊ぶ
/大森静佳『てのひらを燃やす』 

触れること、それはすなわち届くことではない。たとえ誰かに(あるいはなにかに)触れたとしてもそのものの心に、深部に届いたことにはならない。理解したことにはならない。てのひらに蛾を移して遊びながら、蛾をみつめながら作者はそんなことを思う。
そこには人(あるいはもの)の他者性に対する謙虚さ、真摯さ、またそれと同時に人と人(あるいはもの)とが完全に分かりあうことはけしてないのだということに対する作者の根元的なさびしさが痛々しくただよっている。
蛾というモチーフもいい。蝶ではなく蛾。蛾のどくどくしさをてのひらにのせるという行為をとおして、触れるだけで届くことかなわぬことのせつなさを思う作者の心の澱みがひりひりと伝わってくる。
 
またこんな歌もある。 

こころなどではふれられぬよう赤蜻蛉は翅を手紙のごとく畳めり
平泳ぎするとき胸にひらく火の、それはあなたに届かせぬ火の  

このふたつにおいても触れることと届くことのへだたりを思う。
作者には他者を希求する心がある一方で、みずからの深部はたやすく他者に触れられるものではないし、触れられたりはしない、という思いが色濃くあるように思う。それは痛みであると同時に、作者の矜持でもあると思うのである。