一首鑑賞〈表情〉
降りる時うしなう表情よ そののちにバスはゆきたり風をうみつつ
/坂井ユリ「花器の欠片が散らばるごとく」『羽根と根』5号
バスのなかで主体は誰かと話をしていたのだろうか。一首の雰囲気にはどこかさみしげな雰囲気が漂う。表情をうしなうとは意識してあるいは無意識につくっていた表情をほどくということだろう。バスを降り、表情をうしなうのは主体自身?それとも話していた相手だろうか?
「バスはゆきたり」という言いぶりは主体がバスを見送っている景を想像させる。そして相手の前で本当の自分を抑えていた息苦しさからの解放を。
だがバスを降りていったのは相手のほうであるかもしれない。自分と話していたときのたとえば楽しげな表情をすっと消してバスを降りていく相手の姿を見逃さず、主体はバスのなかからさみしく見ていたかもしれない。一字あけの時の間は、相手を見守る主体にとって、時間が長くながく感じられたことのあらわれであり、「バスはゆきたり」という言いぶりは、主体の心のありようとは別に現実の時間だけがさきに進んでいってしまう、そんな感覚かもしれない。そんなふうにも思う。
そしてバスは発車する。ふたりの距離を物理的にも心理的にも遠ざけてゆくように…。
さまざまにドラマを感じさせる一首である。
一連の作品のなかにはこのような歌もある。
表情をゆるめるように真顔なり別れはときに安堵でもある
一首鑑賞〈渇く〉
皮膚すこしあざみに破り冬の野の生きて渇けるなかへ入りゆく
/小原奈実「錫の光」『穀物』第3号
この歌に不思議なほど心惹かれてしまう。
まず、上句において「腕」や「指」ではなく「皮膚」というところまで接近して描写することのなまなましさ。また「破」るという言葉は一般には紙や布につかうことが多いが、これを皮膚に対してつかうとき「傷つける」という場合よりもどこか残酷性を増す。
そして、冬の野が「生きて渇ける」ものだという把握も研ぎ澄まされている。ここでも「乾く」ではなく「渇」くという言葉をえらぶことにより、「乾く」よりもよりつよく潤いを求め、渇望するエネルギーのようなものが読者の前に提示される。そのエネルギーは冬の野のエネルギーであると同時に、皮膚を破ってもなおそのなかに歩みをすすめる主体そのもののエネルギーであり、それを炎にたとえるなら青白い炎のようである。
このように書きながらも一方では思ってしまう。静謐な描写のなかに秘められたこのひややかな熱量は、言葉で分析しようとしても遠ざかってしまう、ただしずかに味わえばいいのではないだろうか、と。
塔11月号若葉集より
繰り返すことにも飽きて何らかのリボンを結えない長さに裁った
/多田なの「塔」2016年11月号
よくも悪くも繰り返しにあふれる日常へのささやかな抵抗として、ふたたび結うことのかなわぬ長さにリボンを裁つという行為。どうにもならないことへの苛立ちと痛み。
前輪のなき自転車の棄てられておしろいばながめぐりに咲きぬ
/川田果弧「塔」2016年11月号
前輪を失ってもう走ることのできない自転車、それを弔うようにまわりにはおしろいばなが咲き乱れている。日常のかたすみにうちすてられてゆくものへのまなざしとともに、一首のなかにはおおらかな時間の経過が読みこまれている。
開け放つ窓の向こうにさあさあと雨のおと聞く 土曜のひるね
/紫野春「塔」2016年11月号
つよくもよわくもない初夏の雨。「開け放つ」は季節をまるごと受けとめようとするかのようであり、その雨音に耳を傾けながら目を閉じれば雨の匂いまでしてくるようである。また「さあさあと雨」のあ音のかさなりが明るく、「おと」「ひるね」と平仮名にひらかれていることで全体にやわらかい雰囲気がただよう。アンニュイで、それでいてこころやすらぐ土曜のひるね。
朝光にひとり、ふたりと子供らをスクールバスは遠くへ連れ去り
/河野純子「塔」2016年11月号
スクールバスに乗せてしまえば、もうそこからさきは親の手の届かぬ世界。朝のあかるいひかりや子どもたちのきらきらした笑顔とは対照的に、そこには言い知れぬ不安がある。バスの姿が見えなくなるまで立ちつくす母。「遠くへ」は実際の距離であるとともに、心理的な距離でもあるのだろう。
この空の断片切りとりそれだけで初夏とあてうる人と会ひたし
/伊與田裕子「塔」2016年11月号
いま自分が心からうつくしいと感じるこの初夏の空を、同じ感覚で感じる人。そんな人がいるならば、もしいるならば会いたいけれど...。
河野裕子さんの〈月光が匂ふといへばわかる人〉をふと思い出す。
塔11月号作品2より②
階段をゆっくりおりる母の背にごめんと何度つぶやけばいい
/西之原正明「塔 」2016年11月号
親孝行をしたいけれど思うようにいかない。面と向かっては素直になれず、母の背に向かってごめんとつぶやく。今日もまた。小言を言わない母の、ちいさな、寡黙な背に。
死のことを思へば地獄の文字にゐる犬一匹と時に出会へり
/永山凌平「塔 」2016年11月号
死について考える。おのずと地獄へと思考が広がっていく。地獄、と思うときふと地獄の文字のなかに犬がいることに気がつく。どうしてここに犬が...?主体はその犬のなかに孤独を見ただろうか。それとも...。死を詠いながらどこかユーモアもある一首。
妹のもうゐない世のはつなつの〈のぞみ〉へひらり身をうつしたり
/千村久仁子「塔 」2016年11月号
この世にもう妹はいないということ、季節は確実に移りかわり、みずからの現身だけがここにこうして残されているということ。それはもう十分わかっているけれどどこかでまだ受け入れられていない。「妹のもうゐない世」と言葉にすることで自分を納得させようとするかのようである。また、「ひらり身をうつしたり」はどこか浮遊感のある言いぶり。新幹線という非日常的な乗り物に乗ることで、あるいは妹の御霊の近くに行かれるのではないか...などとどこかで思ったりするのだろうか。
百日紅ふきだして夏、熱帯夜うすい背びれをひるがえしたり
/山名聡美「塔 」2016年11月号
百日紅が「ふきだ」すという把握が「熱帯夜」という言葉とともに一首の熱量となり微かに不気味さも漂わす。その熱量のなかで「うすい背びれ」にひやりとした感覚をおぼえる。誰の背びれ...?魚?それとも「私」?いずれにしてもどこか官能的である。
海風に海が混じっていることを誰も気付いていないバス停
/鈴木晴香「塔 」2016年11月号
海風には海の湿度や海の匂い、海そのものが混じっている。けれどそれはそう感受するものにしか感受されないささやかな気づき。いまこのバス停に並んでいる自分以外の人々はそれぞれになにかに気持ちをとらわれて気づいていないだろう。それがすこしさびしくもあり、世間との微かなずれを感じてしまうのかもしれない。
塔11月号作品2より
しくしくと泣く子を連れた炎天にさみしい声の河童に出会う
/高原さやか「塔 」2016年11月号
しくしくと泣く子とふたりとぼとぼ歩く昼の道に、主体は途方もないさみしさを感じたのだろう。河童は想像上の生き物であるが、実は主体そのものであったのかもしれない。炎天という場面のなか、ひんやりとしたさみしさの漂う一首である。
重ね方まちがふともう入らないガラスのボウル、日暮れの棚に
/松原あけみ「塔」2016年11月号
順序を違えただけでうまくいくはずのことがうまくいかなくなる、だれしも経験したことがあるだろう。ここではガラスのボウル、日暮れという場面を切りとることにより、生活のなかにうまれる微かな痛みをうまく掬いあげている。
釦押し日傘の骨を閉づるときふつと世界が消えさうになる
/石松佳「塔」2016年11月号
日傘を閉じるそのとき、目の前は一瞬暗み、まるでみめぐりの世界が消失するかのような錯覚をおぼえる。それはほんの一瞬のささやかな感覚。そしてその感覚は日盛りのもとにいるからこそ感受される、眩暈にも似た感覚なのかもしれない。
ふつくらと金魚はみづにふくらんでとどかぬ世界をみてゐるつもり
/小田桐夕「塔」2016年11月号
「ふつくらと」「ふくらんで」という「ふ」のかさなりのやわらかさ、平仮名にひらかれた文体のやわらかさ、金魚が水にふくらむという把握、それらがあいまってゆったりと時間そのものがたゆたうような世界観をうみだしてる。
一番でなくてはならぬ子はすでに哀しい翼折りたたみもつ
/石井 久美子「塔」2016年11月号
既定のものさしではかられ順位をつけられる、そういう競争社会のなかに生きることの不条理。ほんとうはそんなものさしでははかれない大切なものがたくさんあるのに、そういうものを意識的に、あるいは無意識のうちに、切り捨てて生きてゆかなければならないさみしさ。
塔11月号月集より
涓滴のごとしといへど炎天の砂地にそそぐみづといへども
/真中朋久「塔」2016年11月号
「いへど」「いへども」という二度の言いさしが印象的。たとえそれがしずくのようなものであっても、乾いた砂地を潤すものであっても、それだけではない水というもののおそろしさ。おそろしさに直接言及しないことにより、水に対する作者の強い思いが表出するとともに、より一層読者の想像を掻き立てる。
声はまだそこまで届いていないから蹠を砂に押されて歩む
/永田淳「塔」2016年11月号
波打ち際を歩きつつ、さきゆくひとを呼びとめようとしている場面だろう。ふつう砂の上を歩くときというのは砂を押し沈めてゆく感覚であろうが、ここでは逸る気持ちが「砂に押されて」という繊細な感覚を生んでいる。
蝶の影のみがまぶたを通りゆき私はねむる駅のベンチに
/松村正直「塔」2016年11月号
言葉をそぎ落として詠われているのだが、そこがあたたかでおだやかな白昼の駅のホームであること、その駅は人気もなくのんびりとしていて、次の電車までにはまだ随分時間があるであろうことなどが、読者のなかにゆたかな景として立ちあがってくる。
そして「まぶた」や「ねむる」が平仮名にひらかれることにより、よりふわふわとねむたい雰囲気が醸し出されているようにも思う。
『66(ロクロク)』より
草のはら深くゆかむとをさなごは靴を脱ぎをり鳥になるとて
/高木佳子「銀芒」『66』
ひろいひろい草原のなかに子どもといるとき、この子、もしかしたらふっとこの中に紛れて消えてしまうんじゃないだろうかと、そんな思いになることがある。それが小さな子であればなおさらに。
この一首にもそんな感覚をおぼえる。一体どこまで行こうというのか、なぜ靴を脱ぐのか...。鳥になる、とはその子が言った言葉なのか、そういうつもりなんだろうと思ったということだろうか。どこか浮遊感があり、微かな不安感が漂う一首である。
けふどこで傷ついたのか穿きかへて脱ぎ捨ててゆくナイロンの脚
/岸野亜紗子「筐体」『66』
脱ぎ捨てられたナイロンのパンツの、そのしずかな存在が醸し出す痛み。今日という日をどこで過ごし、どのように過ごしたのか、自分の知らないところで生きるひとの、その時間を思う。ナイロンのパンツではなく「脚」とあることで、今日傷ついた自分そのものをうち捨てようとするひとの意志がみえてくる。そしてその意志を感じるとき、主体はその痛みにより深く思いをはせるのだろう。
かなしくて寄せる体のかなしくて点々と夜の船は光れり
/錦見映理子「まぼろしの舟」『66』
愛する人と並んで夜の海を見ている場面だろう。〈かなしい〉とは〈愛しい〉であり、〈悲しい〉〈哀しい〉である。愛するひとが隣りにいるにもかかわらず、愛する気持ちがつよければつよいほど、かなしみの嵩は増してゆく。その心に映る夜の船はしらじらとして、そのかなしみを際立たせたことだろう。
せつなさのなかにも韻律のうつくしさが心に残る。
人体は曲線なれどふれあえば互み凹ます まして母と娘
/富田睦子「プラタナス」『66』
人と人とのかかわりのなかでもとりわけ母と娘という関係は独特なものであり、複雑なものである。お互いにだれよりも相手のことを思いながら、ときに過干渉になり、ときにどうしようもなく傷つける。自分が娘の立場では母という存在の重さを思い、母という立場になれば、自分という存在がわが子にかける負荷の大きさを思うだろう。
そんな母娘の関係を言いあててなお詩情あふれる一首である。
水桶に沈む葡萄はびっしりと気泡まとえりしばし黙しぬ
/遠藤由季「紺色のベスト」『66』
きっと粒が大きくて色の濃い巨峰やピオーネだろう。水桶の底で気泡をびっしりとまとっている。まるで気泡に絡めとられるように。この一首にはそんな痛ましさがある。
父母のこと、変わりゆく街のことを思い、婚を解いたことを友と語りあかす一連のなかの最後に置かれたこの一首は、さまざまな思いを抱えながらこの齢を生きる作者の痛みそのものなのだろう。
つねに笑む猫の口もと 散りし土 銀色の虫の脚の一本
/沼尻つた子「脚の一本」『66』
景品として手に入れた鈴虫の飼育の場面を描いた一連のなかの一首、ぞくっとする一首である。
「つねに笑む」猫の口もとというのがまず怖い。この描写だけで、おもてむきは微笑みながら日々虎視眈々と鈴虫を狙っていたであろう猫のすべてが言い尽くされている。そして一字あけでつながれた文体が、カメラワークでまず口もと、次に土、そして脚にズームされていくようなドラマチックな効果を生み、事柄だけでつながれていることがその事実の残酷さをより際立たせている。
作者の「怪談短歌」にかつて同じようにぞくっとしたことを思い出す。