欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

一首鑑賞〈孔〉

コンパスの銀を立たしめ女児は円の数だけ孔を穿ちぬ(女児:おみなご)
/沼尻つた子『ウォータープルーフ』 

この歌にはじめて出会ったのは塔誌だっただろうか。この歌が醸しだす不思議な魅力にとりつかれたのをおぼえている。
白紙にコンパスを立てていくつも円を描いてゆく少女。コンパスで描かれた円の数だけ増えてゆく孔。よく見知っているはずのコンパスの孔が、なにか言葉では言いあらわせないような存在感をもって目の前に迫ってくる。この孔をなにかとても不思議な、魅惑的な、あるいはどこか怖ろし気なものとしてみているであろう作中主体のまなざしと、わたしのまなざしが重なっていくような感覚におちいるのである。
それと同時に、コンパスの銀=作者、そして円は作者がこの世に根を下ろし、生きて、母として娘として娘としてあるいはそのどれでもないひとりの人間としていくつも描いてゆく円……そんな気もしてくる。そう思うときコンパスによって穿たれる孔はかすかな痛みをともなって浮きあがってくる。この世に生きることそれ自体の痛みを思わせて。それはこの一首が、この歌集のなかにおさめられたことにもよるだろう。みずからの生を真摯に生きる作者像を歌集全体から感じながらこの一首に出会うとき、ただこの一首にふれるだけとはちがう深みをもつ。
そしてこの歌集のあとがきにある「短歌を詠んでいると自分と自分以外、内と外を隔てる膜のようなものが、限りなく透けてゆく、と感じるのです。」という言葉をいまあらためてかみしめている。
 

一首鑑賞〈あざみ〉

さみしいときみは言はない誰のことも揺れるあざみとしか見てゐない
/山田航『さよならバグ・チルドレン』 

この一首がなぜか心に残っている。このなかには息苦しいくらいの諦念と、その一方で覚悟のようなものがただよう。それはきみのものでもあり、作中主体のものでもあるだろう。
揺れるあざみ、それは繰り返される生命の営みの象徴であろうか。咲いて、枯れて、散って、そしてまた芽吹いて。この世の中における人と人とのまじわりもまたそのようなものと言えるだろうか。永遠に続くものなど存在しないし、かといって一度の別れにより永遠にその関係性が失われるものでもないのかもしれない。
だから「きみ」はさみしいと言わないのだ。おそらくそのさみしさは十分すぎるほど知っていて、けれどそれがこの世の摂理であるということもまた十分すぎるほど知っている。だからこそさみしいと言わないのだ、と思う。
そしてそういう「きみ」に異議を述べることなく、ただしずかに、せつなさとともに見守る主体のまなざしがある。
 

塔9月号作品一首評に

塔9月号作品一首評にとりあげていただきました。

眸のふちにひかり溜めこみ姪三歳 望むと否とにかかわらず、姉(眸:め)

/中田明子「塔」2016年7月号 

この一首の不思議な雰囲気は、一字分のスペースを挟んで、上句と下句の対照的な言葉遣いからきている。上句は眸(め)、溜めの「め」、姪の「め」が続いて流れるような調べであり、下句は大人の論理のフレーズ+姉の一文字で歌が完結する。

眸よりあふれそうな涙をかろうじてこらえ立っている小さなお嬢さん、そう、あなたはお姉さんという存在になったの。あなたの意志に関係なく、自然の法則なの。

末尾に目立つ姉という一文字のなかに女(め)が浮かび上がってきた。

(評・林広樹さん)

 

ありがとうございました。

 

塔9月号山下洋選歌欄評に

塔9月号山下選歌欄評にとりあげていただきました。

けむる春だれもが遠く つややかな檸檬の輪切りを口にふくめり

/中田明子「塔」2016年7月号 

春の季節感がよく表れている一首である。「誰もが遠く」という主体の把握は、輪切りの檸檬を口にふくむというささやかな行為によってあまり寂しさを感じさせない。つややか、という言葉から、檸檬のはちみつ漬けなどを想像した。読み手の口の中にも、甘酸っぱさが広がっていく。

(評・川上まなみさん)

 

ありがとうございました。

 

塔8月号百葉集に

塔8月号百葉集にとりあげていただきました。

画家は終わりをみていただろう絵の青の奥へ奥へと鳥のはばたく

/中田明子「塔」2016年8月号

絵に描かれているのは、鳥が飛んでいる途中の空間だけである。しかし、画家の目は、鳥がどこへ飛び去っていくかを見ていただろうと想像している。絵に内蔵された時間を感じている歌。明るい儚さのようなものも伝わってくる。

(評・吉川宏志さん)

 

ありがとうございました。

 

塔5月号選歌後記に

塔5月号選歌後記にとりあげていただきました。

館内にあがなう葉書のその貌に絵に見たる翳写りておらず

/中田明子「塔」2016年5月号) 

 即物的に解せば、美術館と撮影のライティングの違い、ということになる。ただ、そうではない。写真はあくまで写真であって、実物で触れた感動は再現できないのだ。陰翳を消し去ってしまうことへのかすかな違和感。

(評・永田淳さん)

 

ありがとうございました。

 

〈水位〉

教会に入ったことは三度ある   川の水位は日ごとに戻る
/安田茜「weather」『かんざし』創刊号

作中主体はどんな状況下で教会に入ったのであろうか。これまでに三度だけ、ということはクリスチャンではないけれど、ということだろう。単に地元のあるいは旅先での経験のことをいっているのか、それとも教会に行かずにはいられないような、教会という静謐な場所を求めずにはいられないようなことがかつてあったということだろうか。後者であるようにも思われる。それは下句とのかかわりゆえであるかもしれない。
川の水位は雨や海の満ち引きによって水位を変えるが、それもいずれまたもとに戻る、日々その繰り返しである。
作者はどこかみずからのことを冷めた目で客観的に見ているようなところがあるように思う。だからここでも、どんなに激しい感情が自分に沸き起こったとしてもそれはいっときのこと、いずれ自分自身のその感情すら日常のなかで平準化されていくのだ、と達観とも諦念とも思えるような思考が作者のなかにあるように思う。それが下句の川の水位と結びついていくのであろう。
うちに激しさを秘めながらも静かな一首である。
 
そのほかに...

陽に褪せた煉瓦を順にふみながら発話するほどあなたとずれる
点火するようにひとさし指で押す列をはみ出た詩集のひとつ