塔7月号より
さざなみが君の水面を覆いゆく銀色の笛を深く沈めて
/松村正直 p6
君が内面に深く沈めるのだという「銀の笛」が印象的。銀という色、笛という存在の硬質な感じが、そのひとの内面の、核のようなものを思わせます。そしてそれは深く沈めて、たやすく誰かに触れさせることのないもの。たやすく触れることはできないけれど、作者はその存在をたしかに感じています。
罵りの語はさらに語を呼びながらとどまりがたく馬をかなしむ
/河野美砂子 P11
感情の昂ぶりのなかで罵りの言葉を発するとき、罵りの言葉はあらたな罵りの言葉を引きだしてとめどもないことになる、ということがあります。ここでは、「罵」という漢字には馬が含まれていることに目をとめて、そこからイメージを膨らませ、一旦駈けだしたら容易には止まらない馬の姿を思い描いています。その馬の姿を、感情の昂ぶりからはすこし距離を置く体温の低いまなざしで、昂ぶりのとめどなさと重ねみています。
口笛を吹いても心減らざれば息ふかく窓より口笛を吹く
/花山周子 p15
上句は「減らざれば」といいながら、口笛ではない何かによってはすり減っていってしまう、心という存在のありようを際立たせます。心は擦り減ってしまうものであるけれど口笛を吹くことでは減らない、だから口笛を吹くのだというせつなさ。家の窓辺で、誰に聞かせるでもなくただひとりで息ふかく吹く口笛は、まるで自分自身を解放するための祈りのようでもあります。
どこまでも歩いてゆけそうな靴をはきどこまでも歩くさびしさ
/白水ま衣 p29
歩きつづける、という行為は、主体のなかに、思惟や思索、あるいは物思いがはてしなく続けられている状況のようにも思われます。どこまでも歩いてゆけそうな靴をはくということは、とどまらせるきっかけになることがない、ということ。どこまで、ということのないはてしなさのなかに沈みこんでいくようなさびしさがあります。
逢ひたいと思ふほどではないけれどセロリのやうな雨が降ってる
/佐近田榮懿子 p41
「セロリのやうな」という比喩の、一義的には意味をとりにくい比喩でありながら、雰囲気や感情のありどころが匂い立つようなところがとても魅力的。上句と下句のつき方も、理が通ってしまっていたり、因果関係になってしまっていたりすることがなく、それが一首にひろがりを与えています。
先までおほきなたれかの眼のなかのわたしであつた雪を踏みつつ
/千村久仁子 p144 (先:さつき)
人知の及ばぬなにか大いなる存在のまなざしなのでしょう。雪の積もる昼の町、であるように思いますが、そのなかに立ち、そうしたものの気配を感じる、という崇高な雰囲気を湛えた一首です。
硝子越し眼がひろう夕闇の花びら雪の地に触れる音
/山川仁帆 p192 (眼:まなこ)
花びら雪、とは花びらのような形をした大片の雪。その花びら雪が地に触れる音、それは聞き分けることなどできないほどにかすかな音。その音を、「眼」でひろうのだというのがこの一首の眼目。硝子越しに花びら雪のふる様子をじっと眺めていると、花びら雪が地に触れる音までみえるようだと言うのです。そこにはとても静謐な時間が感じられます。
病院のましろな壁がまなうらに浮かぶ 批判に舵切るときは
/紫野春 p204
少なからぬ逡巡ののちに、それでもやはり批判の意を表明する、という方に心を決める、という場面。するべきか、するべきでないか迷いつつ、批判することにより壊れたり、失われたりしてしまうかもしれないことにも思いをいたす、その心の痛みが、どこか殺風景な病院の白い壁をみせるのでしょう。批判する、ということは、する側の自分自身をも傷つける行為であることをあらためて思うと同時に、それでも、と決意する主体の意思を感じる一首です。
美しい顔の火傷を見られぬよう 天女が織った布が夜です。
/菅野紫 p206
神話やものがたりの一場面のような雰囲気。美しいものが外部世界により傷つけられることへの痛み、それを束の間やさしく包みこむ闇という存在が、美しい見立てによって象徴的に詠われています。
水鳥がページをめくっているような春ですどうかまだ行かないで
/椛沢知世 p208
水鳥が産卵をして雛がかえり、その雛が巣立っていくまでというのは、命がけの生の営みがそこでおこなわれているにもかかわらず、忙しないわたしたちの生活のなかで眺めていると、あっという間のことのようにも感じられます。産卵から巣立ちまでをひとつのストーリーとすると、上句の比喩には、水鳥のその営みが、春という季節のページをめくっていくような、春という季節の足早な感じを、水鳥の生の営みと重ね合わせてみているような実感があります。