欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔11月号作品2より

しくしくと泣く子を連れた炎天にさみしい声の河童に出会う

/高原さやか「塔 」2016年11月号

しくしくと泣く子とふたりとぼとぼ歩く昼の道に、主体は途方もないさみしさを感じたのだろう。河童は想像上の生き物であるが、実は主体そのものであったのかもしれない。炎天という場面のなか、ひんやりとしたさみしさの漂う一首である。

 

重ね方まちがふともう入らないガラスのボウル、日暮れの棚に

/松原あけみ「塔」2016年11月号 

順序を違えただけでうまくいくはずのことがうまくいかなくなる、だれしも経験したことがあるだろう。ここではガラスのボウル、日暮れという場面を切りとることにより、生活のなかにうまれる微かな痛みをうまく掬いあげている。

 

釦押し日傘の骨を閉づるときふつと世界が消えさうになる

/石松佳「塔」2016年11月号

日傘を閉じるそのとき、目の前は一瞬暗み、まるでみめぐりの世界が消失するかのような錯覚をおぼえる。それはほんの一瞬のささやかな感覚。そしてその感覚は日盛りのもとにいるからこそ感受される、眩暈にも似た感覚なのかもしれない。

 

ふつくらと金魚はみづにふくらんでとどかぬ世界をみてゐるつもり

/小田桐夕「塔」2016年11月号

「ふつくらと」「ふくらんで」という「ふ」のかさなりのやわらかさ、平仮名にひらかれた文体のやわらかさ、金魚が水にふくらむという把握、それらがあいまってゆったりと時間そのものがたゆたうような世界観をうみだしてる。

 

一番でなくてはならぬ子はすでに哀しい翼折りたたみもつ

/石井 久美子「塔」2016年11月号

既定のものさしではかられ順位をつけられる、そういう競争社会のなかに生きることの不条理。ほんとうはそんなものさしでははかれない大切なものがたくさんあるのに、そういうものを意識的に、あるいは無意識のうちに、切り捨てて生きてゆかなければならないさみしさ。

 

塔11月号月集より

涓滴のごとしといへど炎天の砂地にそそぐみづといへども

 /真中朋久「塔」2016年11月号 

「いへど」「いへども」という二度の言いさしが印象的。たとえそれがしずくのようなものであっても、乾いた砂地を潤すものであっても、それだけではない水というもののおそろしさ。おそろしさに直接言及しないことにより、水に対する作者の強い思いが表出するとともに、より一層読者の想像を掻き立てる。

 

声はまだそこまで届いていないから蹠を砂に押されて歩む

/永田淳「塔」2016年11月号

波打ち際を歩きつつ、さきゆくひとを呼びとめようとしている場面だろう。ふつう砂の上を歩くときというのは砂を押し沈めてゆく感覚であろうが、ここでは逸る気持ちが「砂に押されて」という繊細な感覚を生んでいる。

 

蝶の影のみがまぶたを通りゆき私はねむる駅のベンチに

/松村正直「塔」2016年11月号  

言葉をそぎ落として詠われているのだが、そこがあたたかでおだやかな白昼の駅のホームであること、その駅は人気もなくのんびりとしていて、次の電車までにはまだ随分時間があるであろうことなどが、読者のなかにゆたかな景として立ちあがってくる。

そして「まぶた」や「ねむる」が平仮名にひらかれることにより、よりふわふわとねむたい雰囲気が醸し出されているようにも思う。

 

『66(ロクロク)』より

草のはら深くゆかむとをさなごは靴を脱ぎをり鳥になるとて

/高木佳子「銀芒」『66』 

ひろいひろい草原のなかに子どもといるとき、この子、もしかしたらふっとこの中に紛れて消えてしまうんじゃないだろうかと、そんな思いになることがある。それが小さな子であればなおさらに。

この一首にもそんな感覚をおぼえる。一体どこまで行こうというのか、なぜ靴を脱ぐのか...。鳥になる、とはその子が言った言葉なのか、そういうつもりなんだろうと思ったということだろうか。どこか浮遊感があり、微かな不安感が漂う一首である。

 

けふどこで傷ついたのか穿きかへて脱ぎ捨ててゆくナイロンの脚

/岸野亜紗子「筐体」『66』

脱ぎ捨てられたナイロンのパンツの、そのしずかな存在が醸し出す痛み。今日という日をどこで過ごし、どのように過ごしたのか、自分の知らないところで生きるひとの、その時間を思う。ナイロンのパンツではなく「脚」とあることで、今日傷ついた自分そのものをうち捨てようとするひとの意志がみえてくる。そしてその意志を感じるとき、主体はその痛みにより深く思いをはせるのだろう。

 

かなしくて寄せる体のかなしくて点々と夜の船は光れり

/錦見映理子「まぼろしの舟」『66』

愛する人と並んで夜の海を見ている場面だろう。〈かなしい〉とは〈愛しい〉であり、〈悲しい〉〈哀しい〉である。愛するひとが隣りにいるにもかかわらず、愛する気持ちがつよければつよいほど、かなしみの嵩は増してゆく。その心に映る夜の船はしらじらとして、そのかなしみを際立たせたことだろう。

せつなさのなかにも韻律のうつくしさが心に残る。

 

人体は曲線なれどふれあえば互み凹ます まして母と娘

/富田睦子「プラタナス」『66』

人と人とのかかわりのなかでもとりわけ母と娘という関係は独特なものであり、複雑なものである。お互いにだれよりも相手のことを思いながら、ときに過干渉になり、ときにどうしようもなく傷つける。自分が娘の立場では母という存在の重さを思い、母という立場になれば、自分という存在がわが子にかける負荷の大きさを思うだろう。

そんな母娘の関係を言いあててなお詩情あふれる一首である。

 

 水桶に沈む葡萄はびっしりと気泡まとえりしばし黙しぬ

/遠藤由季「紺色のベスト」『66』

きっと粒が大きくて色の濃い巨峰やピオーネだろう。水桶の底で気泡をびっしりとまとっている。まるで気泡に絡めとられるように。この一首にはそんな痛ましさがある。

父母のこと、変わりゆく街のことを思い、婚を解いたことを友と語りあかす一連のなかの最後に置かれたこの一首は、さまざまな思いを抱えながらこの齢を生きる作者の痛みそのものなのだろう。

 

つねに笑む猫の口もと 散りし土 銀色の虫の脚の一本

/沼尻つた子「脚の一本」『66』

景品として手に入れた鈴虫の飼育の場面を描いた一連のなかの一首、ぞくっとする一首である。

「つねに笑む」猫の口もとというのがまず怖い。この描写だけで、おもてむきは微笑みながら日々虎視眈々と鈴虫を狙っていたであろう猫のすべてが言い尽くされている。そして一字あけでつながれた文体が、カメラワークでまず口もと、次に土、そして脚にズームされていくようなドラマチックな効果を生み、事柄だけでつながれていることがその事実の残酷さをより際立たせている。

作者の「怪談短歌」にかつて同じようにぞくっとしたことを思い出す。

 

一首鑑賞〈孔〉

コンパスの銀を立たしめ女児は円の数だけ孔を穿ちぬ(女児:おみなご)
/沼尻つた子『ウォータープルーフ』 

この歌にはじめて出会ったのは塔誌だっただろうか。この歌が醸しだす不思議な魅力にとりつかれたのをおぼえている。
白紙にコンパスを立てていくつも円を描いてゆく少女。コンパスで描かれた円の数だけ増えてゆく孔。よく見知っているはずのコンパスの孔が、なにか言葉では言いあらわせないような存在感をもって目の前に迫ってくる。この孔をなにかとても不思議な、魅惑的な、あるいはどこか怖ろし気なものとしてみているであろう作中主体のまなざしと、わたしのまなざしが重なっていくような感覚におちいるのである。
それと同時に、コンパスの銀=作者、そして円は作者がこの世に根を下ろし、生きて、母として娘として娘としてあるいはそのどれでもないひとりの人間としていくつも描いてゆく円……そんな気もしてくる。そう思うときコンパスによって穿たれる孔はかすかな痛みをともなって浮きあがってくる。この世に生きることそれ自体の痛みを思わせて。それはこの一首が、この歌集のなかにおさめられたことにもよるだろう。みずからの生を真摯に生きる作者像を歌集全体から感じながらこの一首に出会うとき、ただこの一首にふれるだけとはちがう深みをもつ。
そしてこの歌集のあとがきにある「短歌を詠んでいると自分と自分以外、内と外を隔てる膜のようなものが、限りなく透けてゆく、と感じるのです。」という言葉をいまあらためてかみしめている。
 

一首鑑賞〈あざみ〉

さみしいときみは言はない誰のことも揺れるあざみとしか見てゐない
/山田航『さよならバグ・チルドレン』 

この一首がなぜか心に残っている。このなかには息苦しいくらいの諦念と、その一方で覚悟のようなものがただよう。それはきみのものでもあり、作中主体のものでもあるだろう。
揺れるあざみ、それは繰り返される生命の営みの象徴であろうか。咲いて、枯れて、散って、そしてまた芽吹いて。この世の中における人と人とのまじわりもまたそのようなものと言えるだろうか。永遠に続くものなど存在しないし、かといって一度の別れにより永遠にその関係性が失われるものでもないのかもしれない。
だから「きみ」はさみしいと言わないのだ。おそらくそのさみしさは十分すぎるほど知っていて、けれどそれがこの世の摂理であるということもまた十分すぎるほど知っている。だからこそさみしいと言わないのだ、と思う。
そしてそういう「きみ」に異議を述べることなく、ただしずかに、せつなさとともに見守る主体のまなざしがある。
 

塔9月号作品一首評に

塔9月号作品一首評にとりあげていただきました。

眸のふちにひかり溜めこみ姪三歳 望むと否とにかかわらず、姉(眸:め)

/中田明子「塔」2016年7月号 

この一首の不思議な雰囲気は、一字分のスペースを挟んで、上句と下句の対照的な言葉遣いからきている。上句は眸(め)、溜めの「め」、姪の「め」が続いて流れるような調べであり、下句は大人の論理のフレーズ+姉の一文字で歌が完結する。

眸よりあふれそうな涙をかろうじてこらえ立っている小さなお嬢さん、そう、あなたはお姉さんという存在になったの。あなたの意志に関係なく、自然の法則なの。

末尾に目立つ姉という一文字のなかに女(め)が浮かび上がってきた。

(評・林広樹さん)

 

ありがとうございました。

 

塔9月号山下洋選歌欄評に

塔9月号山下選歌欄評にとりあげていただきました。

けむる春だれもが遠く つややかな檸檬の輪切りを口にふくめり

/中田明子「塔」2016年7月号 

春の季節感がよく表れている一首である。「誰もが遠く」という主体の把握は、輪切りの檸檬を口にふくむというささやかな行為によってあまり寂しさを感じさせない。つややか、という言葉から、檸檬のはちみつ漬けなどを想像した。読み手の口の中にも、甘酸っぱさが広がっていく。

(評・川上まなみさん)

 

ありがとうございました。