『66(ロクロク)』より
草のはら深くゆかむとをさなごは靴を脱ぎをり鳥になるとて
/高木佳子「銀芒」『66』
ひろいひろい草原のなかに子どもといるとき、この子、もしかしたらふっとこの中に紛れて消えてしまうんじゃないだろうかと、そんな思いになることがある。それが小さな子であればなおさらに。
この一首にもそんな感覚をおぼえる。一体どこまで行こうというのか、なぜ靴を脱ぐのか...。鳥になる、とはその子が言った言葉なのか、そういうつもりなんだろうと思ったということだろうか。どこか浮遊感があり、微かな不安感が漂う一首である。
けふどこで傷ついたのか穿きかへて脱ぎ捨ててゆくナイロンの脚
/岸野亜紗子「筐体」『66』
脱ぎ捨てられたナイロンのパンツの、そのしずかな存在が醸し出す痛み。今日という日をどこで過ごし、どのように過ごしたのか、自分の知らないところで生きるひとの、その時間を思う。ナイロンのパンツではなく「脚」とあることで、今日傷ついた自分そのものをうち捨てようとするひとの意志がみえてくる。そしてその意志を感じるとき、主体はその痛みにより深く思いをはせるのだろう。
かなしくて寄せる体のかなしくて点々と夜の船は光れり
/錦見映理子「まぼろしの舟」『66』
愛する人と並んで夜の海を見ている場面だろう。〈かなしい〉とは〈愛しい〉であり、〈悲しい〉〈哀しい〉である。愛するひとが隣りにいるにもかかわらず、愛する気持ちがつよければつよいほど、かなしみの嵩は増してゆく。その心に映る夜の船はしらじらとして、そのかなしみを際立たせたことだろう。
せつなさのなかにも韻律のうつくしさが心に残る。
人体は曲線なれどふれあえば互み凹ます まして母と娘
/富田睦子「プラタナス」『66』
人と人とのかかわりのなかでもとりわけ母と娘という関係は独特なものであり、複雑なものである。お互いにだれよりも相手のことを思いながら、ときに過干渉になり、ときにどうしようもなく傷つける。自分が娘の立場では母という存在の重さを思い、母という立場になれば、自分という存在がわが子にかける負荷の大きさを思うだろう。
そんな母娘の関係を言いあててなお詩情あふれる一首である。
水桶に沈む葡萄はびっしりと気泡まとえりしばし黙しぬ
/遠藤由季「紺色のベスト」『66』
きっと粒が大きくて色の濃い巨峰やピオーネだろう。水桶の底で気泡をびっしりとまとっている。まるで気泡に絡めとられるように。この一首にはそんな痛ましさがある。
父母のこと、変わりゆく街のことを思い、婚を解いたことを友と語りあかす一連のなかの最後に置かれたこの一首は、さまざまな思いを抱えながらこの齢を生きる作者の痛みそのものなのだろう。
つねに笑む猫の口もと 散りし土 銀色の虫の脚の一本
/沼尻つた子「脚の一本」『66』
景品として手に入れた鈴虫の飼育の場面を描いた一連のなかの一首、ぞくっとする一首である。
「つねに笑む」猫の口もとというのがまず怖い。この描写だけで、おもてむきは微笑みながら日々虎視眈々と鈴虫を狙っていたであろう猫のすべてが言い尽くされている。そして一字あけでつながれた文体が、カメラワークでまず口もと、次に土、そして脚にズームされていくようなドラマチックな効果を生み、事柄だけでつながれていることがその事実の残酷さをより際立たせている。
作者の「怪談短歌」にかつて同じようにぞくっとしたことを思い出す。