欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔7月号より

書を捨てねばここから出られず町へ出たいといふにはあらず

/真中朋久 p4

一首のベースには「書を捨てよ、町に出よう」という寺山修司の言葉を思い浮かべます。今の自分を脱却するために、葛藤する主体。「書を捨てねば」変わることはできないということを深く自覚しながら、この一首の痛切なところは、その葛藤は町に出れば解決する類のものではないということに対してもまた、作者が自覚的であるということ。下句の「いふにはあらず」の「は」のあたりにその感情がにじんでいるような気がします。かさねられた否定の言葉には、「書を捨てねば」と思う一方で、あるべき自分はやはり内省を深めた先にしかないのだという、出口のみえない苦しさがあります。

 

桜(はな)を見しままに眼鏡は失くなれり レンズのカーブに流れていた白

/前田康子 p5

あの日、咲き誇る桜を見たのを最後に失くしてしまった眼鏡。桜を、それも満開の桜を見ていたとき、眼鏡のレンズにはその桜が白く流れていたのだという、うつくしい記憶。
「レンズのカーブに」というこまやかな描写が、眼鏡の存在をいきいきとさせ、単なる〈物〉にとどまらない存在感を与えるのでしょう。一首を読み終えたとき、主体の手もとを離れてしまった眼鏡のそのレンズのカーブには、まだ、白々とその桜が映っているような、眼鏡はいまもずっとその白を見続けているような、不思議な感覚に襲われます。また、カーブという語彙がイメージさせる〈その先のみえなさ〉のようなものもかすかに感じられ、そうしてみると、いま眼鏡は一体なにを映しているんだろう、、、と怖いような気持ちにもなります。

 

ギャラリーは白磁の器とり揃へ物の角度のあきらかな午後

/髙野岬 p101

ギャラリーに並べられた白磁の器、そこにあかるい日射しが射しこんでいます。その日射しは、白磁の器の輪郭をあきらかにし、また、白磁の器はそれぞれに影を伸ばして、その影は、〈そこに在る〉ということを、その存在を、たしからしくしています。人の気配をほとんど感じない、静寂の場面が詠われながら、どこかいきいきとしています。下句の表現も巧みです。

 

引き出しに大事なものをしまひこみ雛人形のまなざしをする

/森尾みづな p155

引き出しに大切なものをしまいこんでいるのは主体自身、あるいは主体の前にいる誰か。そうであるにもかかわらず、下句のように詠われることによって読者の心が向かうのは、雛人形の心の裡である、ということ。無意識のうちに非生物であるはずの人形がもつ〈感情〉というものを想像してしまう、、、というところが言葉の、そして短歌のおもしろさだなあと思っています。

 

君と海を見ることはない君はもう海なのだから風つよく吹く

/魚谷真梨子 p163

なんらかの別離があって、もう会えないひと。そのひとへの思いを詠って、とても切なく、またゆたかな一首です。「君はもう海なのだから」という言葉は、そのひとが今も、そしてこれからも、主体のなかから去ることはないのだろうことを思わせ、去らないどころかその存在はつねに主体のなかにゆたかに揺蕩い、ときに波のように寄せてくることを思わせます。

 

足を組むあいだ離れていた影を足裏(あうら)に戻す昼の公園

/神山俱生 p177

足を組んでいる間は影が自分から離れているのだという気づき、そして、また歩きだそうとするときに、その影を足の裏に回収するという捉え方、いずれも誰もが体験することでありながらそれが見事に言葉として定着されています。足を組んでおそらく休憩しているときにだけ、足から離れる足の影のようにほどかれる心があり、立ちあがるときにはほどかれた心をみずからのなかに回収して、たとえばサラリーマンが昼休みを終えて職場に戻るように、また自分を待つ現実社会に戻っていくのだという、主体の姿を思わせるようなひろがりもあります。

 

夜明けとふひかりのおほさ いつかゆく景色をさきに見たかもしれず

/小田桐夕 p183

夜明けという時間帯のなんともいえない幽玄なうつくしさを、「夜明けとふひかりのおほさ」と表現していて、それは、たとえば「夜明けはひかりの多い時間」などと表現するのとはまったく違うふしぎなうつくしさを生みだしています。その不思議な感じというのが、下句につながっていき、それはまるで彼岸であるかのような、この世にいて彼岸をみてしまったかのようなえもいわれぬ怖さを伴なう感慨につながっていきます。うつくしさとほのぐらさがあいまった印象的な一首です。

 

距離感をつぶやいたきみ FemaleとmaleそのFeのごとき吐息で

/梅津かなで p216

「きみ」というひとがなにについての距離感のことを言ったのかはわかりませんが、「Feのごとき吐息」というのがとてもよくて、「Fe」と発語するときの、ちょっと唇をかんで息を零す感じに実感があります。そこには、ちょっと唇をかむということ、息が前歯にあたって押し返されるような、かすかな鬱屈感のようなものからくる苦さがあります。そして、ささやかな「Fe」という差異だけであるにもかかわらず、Femaleとmaleには埋められない乖離があることに自覚的な主体であることが、その苦さにかさなってゆくようです。