欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔11月号より

ひとつはしらふたつはしらとかぞへつつじふさんぼんをつりおろしたり

/真中朋久 p5

「はしら」とは、神や位牌、遺骨などをかぞえる単位。数字のみが具体として提示され、事実のみが描かれながら、平仮名にひらかれた文体がその行為の意味をかみしめるかのような雰囲気を醸しています。厳かな場面でありつつ、ご神体を人間がつりおろすという行為そのもののもつ不遜に思いを馳せるような、うっすらとした不穏も滲んでいます。

 

蝶の翅 生まれて初めて開くときそのひとところ森の嵩増ゆ

/土屋千鶴 P13

蝶が羽化する場面。蝶がはじめてその翅 をひらくというその高揚感が、森の嵩が増えるというイメージでとらえられています。実際には、蝶が羽化することで森の嵩が増えるわけではないわけですが、「嵩増ゆ」という断定になぜか納得させられてしまいます。とても抽象的で象徴的な把握であるにもかかわらず、蝶がうつくしい翅をゆたかにひろげる映像を呼びおこし、観念で終わらないイメージのふくらみがあります。

 

とめどなき暑気を言ひつつ絵のなかの景色のごとく忘れゆくべし

/溝川清久 p16

この夏の途方もない暑さのことを言いながら、その一方でどんなに激しく忘れがたいと思われることでも時間とともにその記憶は薄れていってしまうことを承知しているもうひとりの自分。「絵のなかの景色のごとく」という比喩は、ひとときの自分をとらえてながらもやがて薄れていってしまう対象物との距離感、その心もとなさようなものを伝えるものとして、体感のある比喩となっています。

 

立秋やまだ燃えてゐる夏の野に草城が銀の匙まぼろし

/出奈津子 P80

暦の上では立秋、でもまだ夏の暑さの残る野に、草城の銀の匙まぼろしがみえる、という一首と読み、なんて素敵な歌だろうと思いました。「草城」は「くさしろ」、いまはもう草に埋もれた城跡のことだろうと思い、また、「銀の匙まぼろし」とは、かつての城の栄華の象徴なのだろうと思いました。が、よくよく読んでみると、これは日野草城の〈秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙〉という句を下敷きにしているのかな、、、と。それでもなお、言葉のとおりに受けとって自分のなかに広がった最初のイメージをあきらめたくないという気持ちもあります。

 

銀の紙ひらき牛酪を掬ひたりそののち深くなる雨のをと

清水弘子 p92

バターを、その銀の包みをひらいて掬う、というただそれだけの場面なのに、詩情があります。そのしずかな行為ののちに、耳はより雨の音を意識するわけですが、一首を通して静謐でどことなく啓示的な雰囲気があります。

 

噴水を燃える焔に見立ててはそれをあなたに黙って消した

/白水ま衣 P93

消えても消えてもまた噴きだして、焔のように噴きあがる噴水。焔のようにみている噴水は、とりもなおさず作者の感情のありようなのだろうと思います。けれど、その焔のことは、相手に伝えることはない。焔でありながら噴水であるそれは、はげしさもありつつどこかひえびえとしてさびしげで、内省的な作者の姿がたちあがります。

 

食べて寝て目覚めて食べるうさぎいて食べられてゆく草の音する

/福西直美 p106

淡々とうさぎの行為に着目しその行為を並べ、また視点をかえて食べられていく草の音に着目します。感情を排した詠みぶりで淡々と描かれているようでいて、「食べられてゆく草の音」というのがよく、連綿とつづく生命の、その本質的なところが掬いとられているような深みがあります。

 

マグカップにシンクに映りてゐし吾をあつめてひるの眠りにおつる

/千村久仁子 p142

マグカップやシンクに映るおぼろげな自分の姿。それは昼という時間帯のあいまいさゆえでしょうか。真昼間にばらばらと浮遊するような自意識を、眠ることによって取りもどすような不思議な感覚が魅力的です。

 

合歓の木にねむりのかよふ夕ぐれは子供のやうに月出てをりぬ

/福田恭子 P164

合歓の木、ねむり、と「ね」の音が重ねられるやわらかさ、その後も「よ」「ゆ」「や」というやわらかい音がつづき、一首を夢のような雰囲気で包んでいます。声にだして読んだときのなんともいえないここちのよさ。合歓の木に「ねむりのかよふ」というどこか不思議な感覚の表現も、「子供のやうに」月が出るという意外性のある比喩も魅力的です。

 

夕刻は影がわたしを離れて在るごとくに見ゆるリード引きつつ

/山川仁帆 p157 (離:か)

夕刻には、影がみずからを離れて存在しているように感じられるのだ、という作者。夕刻のよわくあわいひかりのなかで、ながくのびる影。どこか現実から浮遊したような感覚とともに、そう感じられるのでしょう。「ごとくに見ゆる」という部分は、「在る」と断定してもよかったのでは、とも思いましたが、何度も読むうちに、この「ごとくに見ゆる」という緩慢な言いぶりが、夕刻の、淡く、どこか現実から浮遊したような感覚を生みだしているようにも思われ、また、その影を、距離をおいて外側からみているような視線も感じられて、必要な表現であるように今は思っています。