欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

水原紫苑歌集『びあんか』より

鳥たちは遊びのやうに北を指しわれにちひさき骰子残れり 

(骰子:ダイス)

「遊びのやうに」といわれて際立つのは、鳥たちが北をめざすのは本能にしたがうからであって、けして遊びなどではないということ。にもかかわらず、それは遊びのようにかろやかで、迷うところがありません。翻って人間はどうでしょうか。道ひとつを選びとることの、どれだけ険しいことか。もはや本能だけでは生きられぬ人間の手のなかには、ちいさな骰子がひとつ、残されています。

 

いちにんを花と為すこと叶はざる地上をりをり水鏡なす

人ひとりを花のすがたに変えてしまうこと、そのようなことひとつ望むべくもないこの世にあって、人は人として弁別されて生きてゆくのみです。その地上に、折々できる水鏡。その水鏡が透きとおりつつ映し出す、この世であってこの世でない、もうひとつの世界。

 

われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる

(魚:うを)

やわらかな太古の記憶。歌集全体をつうじて、作者が今ある生にとどまらず、前世、さらにもっと遡る時代の記憶を自身のなかにもっていることが感じられます。この歌もそうしたことを思わせる歌のひとつ。そのような記憶があればこそ、この世を慈しむ、その慈しみ方にもスケールの大きさが感じられます。そしてかすかなかなしみを帯びつつ、一首にはかなしみをみずからのものとして感受する体温が感じられます。

 

月明にひとが透けゆくくるしみを目守らば朝まなこ炎えなむ

 (朝:あした、炎:も)

しろじろとした月光に射しぬかれながらくるしみの淵にいるひと。そのくるしみを、ただじっと見守る、ということ。月光に透けゆくさまは、そのくるしみをわがものとしてとらえる作者の感受性がみせる光景です。一晩中、月光のもとに見守りつづけるその目は、月のつめたいひかりを、そしてそのひとのくるしみをしんしんと溜めて、朝になればきっと炎えてしまうだろう、というのです。うつくしくも痛ましい一首です。

 

美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より

一日のうちの大概の時間を、馬は四脚で立ち続けます。眠るときでさえ。そうであればこそ、太古、折しも馬がその美しい四脚を折りたたまむとき、哲学は流れ出したのだと作者はいいます。四脚を折り、なにかがほどけたときに、やわらかに溢れだす哲学があったのだというのです。ここにあるのは、目には見えないものを感受するまなざしであり、「流れいでたり」の断定に、作者自身の哲学があります。