永井陽子歌集『ふしぎな楽器』より
人去りて闇に遊ばす十指より彌勒は垂らす泥のごときを
仏像に造詣のふかい作者。彌勒といえば、貴い存在としてみることが多いけれど、作者は人のいなくなった闇のなかで十指より泥を垂らす姿を想像します。では、「泥」の意味するものとは、、、。彌勒という存在に、貴さだけでなく、人間的なものを感受し、彌勒が内側に湛える苦悩のようなものに思いを馳せているのだろうと思いつつ、もっと官能的な何かであるような気もしています。
たれをも許ししかも許さぬ中庸や東洋のぎんいろのゆふぐれ
中庸という言葉が、本来の意味からは少し位相を変えて使われつつ、「しかも許さぬ」という部分により重みがあるように感じられます。
〈あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ〉にはじまる本歌集のⅠ章は歴史上の事柄を主題にするものが多く、この一首においても「東洋」とは大陸からみた日本、それも現在からかなり時代を遡った時代の日本であるように思われます。「ぎんいろのゆうぐれ」のもつ不思議な雰囲気にはうっとりとするようなうつくしさがあります。
高麗人は装ひをとき韻を解きほのかにひとをおもひそめにき
「高麗」とは、高麗王朝のことでしょうか。「装ひをとき韻を解き」という匂いたつような表現は、どのような高麗人を思い描いて呼びおこされた言葉なのでしょう。「韻を解き」には、言葉ではない、もっとプリミティブなものを感じているようななまめかしさがあり、とてもドラマティックなものを思わせます。
月の光を気管支に溜めねむりゐるただやはらかな楽器のやうに
「気管支」という具体が生きていて、管楽器のような楽器を思い浮かべます。作者はつねづね人体を楽器のように感じていたようです。その楽器が次に音を奏でるときまでゆたかに月の光を溜めているというふくよかなイメージ。「月の光」「ねむり」「やはらかな」というやわらかい言葉を重ね、みずからの身体を「やはらかな楽器」とイメージすることは、細やかで繊細な作者の心に、束の間、安息をもたらすものであったのかもしれません。
月光にさへこんなにも軋むこの家には何本の釘が打つてあるのだらう
釘、というアイテムも、たとえば〈あま白く春の大路に光りゐる釘もとほき世の神にやあらむ〉などにもみるように度々現れます。月光は、釘は、作者にとってどんな象徴的意味をもつのであったのか。「月光にさへこんなにもに軋む」のは、この家でありながら、それを感受する作者自身の繊細さでもあるのでしょう。