欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

第8回塔短歌会賞受賞作「灰色の花」より

第8回塔短歌会賞受賞作、白水ま衣さんの「灰色の花」。
画家二コラ・ド・スタールを連作の主題に置き、彼の絵、そして彼の内面にまでふかく迫りながら、同時にスタールに惹かれる作者自身のなかに息づく心理、自身の哲学のようなものまでもが表現された、とても読み応えのある一連でした。
白水さんの作品には、詩的な感受性のなかにも、骨太なものがあることをつねづね感じていましたが、今回の作品でもあらためて彼女の思惟のふかさを感じました。
一般的には、みずからの内面にある思惟や思索の部分を詠もうとすると、一首が観念的になってしまったり、言いたいことばかりが先立ってしまったりしてしまいがちですが、白水さんの作品のなかではそういうことがない。そこに、場面や景が立ちあがり、実感としての手触りがあるのです。

 

燃やしたのではない燃えていたのだと蝋燭の火を消しながら告ぐ

人為的な要因によらずそこに存在するもの、どうしようもなくそこに〈在る〉もの、必然…そのようなものへの意識。それは、連作の最初に詠われる〈偶然〉と相反するようでいながら、その混沌こそが真実であるかのよう。火を消しながら告ぐのは、スタールであるかのようであり、作者であるかのようであり、イメージの膨らみがあります。また、〈燃やしたの/ではない燃えて/いたのだと〉という韻律が、〈ではない〉〈いたのだ〉という語を印象づけ、思いが確固たるものであることを印象づけます。

 

スタールが描きたる海の混沌は容赦がなくて君と似ている

この一首から、私はスタールの画集のなかの〈海景〉という一枚を思い浮かべました。その海は一見、灰色に塗りこめられているようでありながら、じっと眺めていると、その独特の構図、灰色の濃淡、筆致…そこには海という世界の深淵が描かれています。そしてこの絵のページには〈彼が見るとき、無限が見えてくる。見る瞬間、彼は無限を感じ取り、彼の身振りは、そこに「触れる」ことなのだ。〉というアンヌ・ド・スタールの言葉が添えられています。一首を読んで画集のこのページを思い浮かべたのは、この言葉を記憶していたせいであったかもしれません。作者が見るとき、〈君〉という存在もまた、そのような無限性を思わせる存在なのだろうことを思いつつ。

 

反対をしてはくれないさみしさは波の音にも似て心地よい

生きるということは、その折々をみずからで判断していくしかない、孤独な営為。そのことを作者はよくわかっている。そして、その人がもし反対をしてくれる人であったなら、その反対に自分をゆだねることができるかもしれないけれど、そうはしない人であることもよくわかっている。そこに一抹のさみしさはありつつ、それは、その人もまた、孤独を受けとめて生きている人であればこそ。そう思うとき、その人への思いを深くする作者であり、その思いこそが波の音にも似た心地よさにつながるのでしょう。結句が〈心地よい〉であることが、孤独を感じつつもそれを受け容れ、なお凛とある作者を思わせ、清々しさすらあります。それは〈土足ではこちらに入ってこない君の靴下今日もあったかそうだ〉の一首にも感じられます。

 

嘘という真実 把手と手のような関係を手の立場から説く
真実という嘘 コップの影の端にコップは立っているしかなくて

手という存在ありきの把手という存在、コップとその影との関係、そういうものに対して、既成概念にとらわれることなく、丁寧にみつめる思慮深さ。作者のなかにはつねに〈存在〉そのものに対する思惟があるのだと思っています。

 

抽象でも具象でもありうるのだとスタールが描くパン、その光

サルバドール・ダリの言葉に、「最も写実的な絵画が最もシュールな作品であることは永遠のパラドクスである。」というものがあります。スタールの絵をみていると、同じように、具象を突きつめた先に抽象が、抽象を突きつめた先に具象があることを思わされます。前掲の〈嘘という真実〉〈真実という嘘〉の歌と同様、一見相反する概念の、その先にある深みを思わされる一首です。そして結句の〈その光〉、それは、絵に描かれた光であると同時に、作者の中に渦巻く思惟に、スタールの絵がひとつの道筋を指し示してくれたこと、そのあかるさであるのかも知れません。

 

すれ違う犬と目が合う一瞬の、えくぼのような時間が好きだ

スタールの絵に眼差しを深め、思惟を深めながら、一方で、時間を〈えくぼ〉として捉えるという、感覚の生き生きとした、あたたかな歌が混ざってくる、その多面性に、一連の魅力があります。犬と目が合う一瞬に対する、ほっこりとするような手ざわりがあります。

 

部屋に絵を飾るとくるしくなるのなら絵になってしまえばいい、わたしが

この歌の前には〈夕近き額縁店に掛けられて鏡は何かを映してしまう〉〈鏡だと思って君の顔を見ればなぜに微笑む君であろうか〉という鏡をモチーフにした二首が並びます。そこにあるかぎり、なにかを映さずにはいられない鏡という存在。近しい〈君〉という存在もまた、自分自身を映しだす鏡であること。そして、画家の思惟の果ての姿としてそこにある絵もまた、そこに自分自身の内面を重ねみてしまうという意味において、鏡ともいうべき存在なのかもしれません。
スタールを連作のモチーフとして、彼の絵に、あるいは彼の内面にふかく触れながら歌を重ねてきて、ここにきて、スタールと作者が重なりあうかのような、スタールの苦しさと作者の苦しさが混然一体となるかのような激しさに息をのみます。
それゆえに、連作の最後に置かれた〈宛先は最後に記す 振り返ったら死ぬような気がする雪の夜を〉という一首のなかに色濃く匂う〈死〉のイメージが、スタールの自死という事実をはらみつつ、ひえびえと心に迫るのです。