塔6月号より
さようならはここにとどまるために言う ハクモクレンの立ち尽くす道
/江戸雪 P5
「さようなら」は、離れゆくひとに向かっていう言葉であると同時に、自分はここにとどまるのだということをみずからに再認識させ、覚悟させるための言葉、言葉をこのようにとらえ直すことにより一瞬にして言葉の彫りが深くなることに驚きます。ハクモクレンの木は立ち尽くすというイメージのある木。そこには作者のありようも投影されています。
わたしにも春という窓開きゐて名前で呼ばるることの寂しさ
/松木乃り P17
きっといま作者はなんらかの苦しさのなかにいるのでしょう。一連のなかの一首として読むとき、心にひっかかっているのは、施設にいる父のことであるようです。「春という窓」という把握がよく、季節は確実にめぐって、どんな人の目の前にもどんな状況のなかにも春という季節の窓は開かれているのだ、という認識がせつなく響きます。
ここはまるで生み落とされた町のよう身を公園の日だまりに寄す
/澤端節子 P41
上句の比喩に白昼夢のような不思議さがあり、なつかしいような、生温かいような、得も言われぬ感触を伝えます。もともとこの町のことは知っていて、そうでありながら今あらためてさえざえとしたまなざしでこの町を見渡しているような感じがあります。
またたく間におたまじゃくしが流れ込む水田にのこす我の足跡
/清水良郎 P50
季節がくれば田にはゆたかに水が張られ、おたまじゃくしだって流れ込み、足跡はあとかたもなくなくなってしまう。そう知りつつも、いま水のない田にみずからの足跡を残す作者。それはおおきな歴史的時間のなかに飲みこまれいずれ忘れられてしまうであろう人間の、それでも懸命に生きている証を残そうとする姿を呼び起こすようでもあります。
零れたる葉は踏みながら生きてゐれば死者の傍へに花を置きたり
/永山凌平 P66
「零れたる葉は」の「は」が印象的に使われています。いま死者に手向けようとしている花から落ちた葉なのでしょう。その葉にはかまうことなく踏みつけてしまう。上句は、生きていればなにかを傷つけずにはいられない残酷さを言いあてるかのようです。
水の色は花器のみどりに移りしが奔放にして指を逃るる
/山川仁帆 P66
水の色は透明にしてかがやくようなひかりを帯び、花器のみどりに映っている。けれど、その色にふれようと手を伸ばせば手に翳ってしまうのでしょう。「移る」「逃るる」というまるで意思があるかのような語句の選択がいきいきとして、水の特性をするどく捉えています。韻律もうつくしく一読忘れがたい一首。
水のないところに水の音がしてクリスマスローズしずかに芽吹く
/福西直美 P95
クリスマスローズの芽吹きの気配に、そこにはない「水」を感受しているところに魅力があります。ただ、上句が十分にしずかな雰囲気を表現しているので、結句の「しずかに」はだめ押しになっている気もします。
遠いビルの屋上にほそく並びゐし黒点がふいにばらばらと浮く
/岡部かずみ P112
ビルの屋上に並んでいたのはおそらく鴉だったのだろうと思いますが、鴉という言葉を出さずに描写しきったところがみどころでもあります。「ばらばらと浮く」という結句も、非常に無機質な感じで、まるで黒いかたまりがゲシュタルト崩壊していくような不気味ささえ感じます。
いまごろは羊になりてゐないかと鍵をおとししひとを思ふも
/千村久仁子 P135
上句が得も言われぬ不思議な感覚です。「鍵」というのがポイントで、鍵というたいせつなものを落とすことによって、まるで異次元の鍵をあけてしまうかのよう。
吸っていた蜜の名前をおしえあう ツツジ、サルビア 会えてよかった
/小松岬 P151
花の蜜を吸うという行為は、どこか少女性を帯びて、しかも密やかな雰囲気があります。自分がかつて吸っていた蜜の名前を相手に告げることは、相手に心を許しているということの証左なのでしょう。「サルビア」と「会えて」の音のつらなりもかろやかで、一首の世界観にマッチしています。