欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。〈西窓の欅の右へと日没の場所の移りて春が近づく〉

齋藤史歌集『魚歌』より

過日、齋藤史歌集『魚歌』を読む会をしました。

齋藤史の歌への言葉にはしづらいさまざまな思いはありつつ、

備忘録として、会のために用意した私の五首選を。

ちなみにこのときは不識書院の『齋藤史歌集』を読んでおり、そこからは随分多くの歌が抜けていることにあとで気づきました。

これから完本を読んでみたいと思っています。

 

アクロバティクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き

「アクロバティクの踊り子」というモダンでうつくしいモチーフ、「白い蛭になる夢」という不思議さ、それらがあいまって一首全体が白昼夢のような白色のイメージに包まれています。

夢とは、水の中でみる幻覚でしょうか、それとも踊り子の心にきざす願望でしょうか。一首にはうつくしさのなかにそこはかとない痛みをともなう翳りがあります。

ちなみに、「白」という色は『魚歌』のなか、とりわけその前半おいて頻繁に用いられ、その翳りを内包したような明るさが印象的です。

 

夜毎に月きらびやかにありしかば唄をうたひてやがて忘れぬ

(夜毎:よるごと)

連作「スケルツオ」のなかの一首。

うつくしい月、その月に照らされながら華やぐひととき、ロマンティックな雰囲気を感じつつ、初句から四句までをすうっと読んできて、結句の展開に息をのみます。「やがて忘れぬ」には、「忘れゆく」などとは異なり、言い切るような、思いを断ち切るような強い響きがあります。そしてそこに、「やがて忘れぬ」と言いながら、けして忘れることのない作者の悲傷をみる思いがしています。

 

定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花

こちらも連作「スケルツオ」より。

父・劉の赴任にともない各地を転々とした作者であるゆえの「定住の家をもたねば」であり、戦争へと傾いていく時代の不穏を根底に感じながらのそれでもあるのでしょう。けれど、それだけにとどまらず、私は(あるいは、私の精神は)何ものにも縛られることはない、という作者の若々しくも高らかな宣言であるようにも思われます。

「シシリイの薔薇やマジョルカの花」は具体的なものではなく、憧れや華やかさというイメージを読者に手渡してくれます。そしてそれが華やかであればあるほど、どこか危うさをはらんだもののようにも思われます。

「スケルツオ」は昭和10年、二・二六事件の前年の作品。忘れがたい連作です。

 

たふれたるけものの骨の朽ちる夜も呼吸づまるばかり花散りつづく

(呼吸:いき) 

朽ちてゆくけものの骨は想像のなかに見えているのでしょう。二・二六事件への思いをかさねみてしまう一首です。

どれだけ時を費やしてもけして忘れることのできない記憶のうえに、しらじらと桜のはなびらが降り積もってゆく。そこには胸苦しくなるほどの静謐な時間が流れています。

 

いつぱいの温きお茶に銭を置き雨の巷に出でてゆくべき

(温:あたたか) 

喫茶店で一杯のお茶を飲み終わり、さあ街に出ていこうという場面です。

ここで喫茶店というあたたかく居心地のよい場所と雨の降る街とは、一枚の壁を隔てて内と外の関係にあります。結句の「べき」が意志的で、外ではどんなことが待ち受けているかわからないけれど、主体はあたたかなものに満たされて、たしかな意志をもち、たしかな足取りで踏み出していく、一首にはそういう強さと明るさがあります。