欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。〈西窓の欅の右へと日没の場所の移りて春が近づく〉

塔11月号より

みづうみをめくりつつゆく漕ぐたびに水のなかより水あらはれて

/梶原さい子「塔」2017年11月号 

手漕ぎボートでゆく湖の、その水に主体のまなざしはあります。オールで漕ぐその動作はたしかに水面をめくるよう。水そのものに肉迫して描写する下句にもリアルな実感があり、水というものの怖ささえ感じます。

 

城門に草笛きかせる人も居り過ぎゆく耳にようやく届く
/山下泉「塔」2017年11月号  

城門を通り過ぎるときに視野のかたすみにその存在をみとめたのでしょう。いま、耳だけでその草笛のかすかな音色を、そして草笛を吹くそのひとを感じています。おだやかなその場所の空気感までもが伝わってきます。

 

夢のような、ときみが言うたび喉元に白さるすべり暗く噴きだす

/大森静佳「塔」2017年11月号

「夢のような」ときみがいうたびに、主体はどうしようもなく胸苦しい、そんな感情をかきたてられる、そのように受けとりました。それは「夢のような」という言葉の、はかなさや届かなさに対する感情でしょうか。下句の喩が難しいながらとても魅力的です。

 

帽子のように遠いひとだとおもうとき脱いではならぬ帽子だ、これは

/白水ま衣「塔」2017年11月号

こちらも喩の魅力的な歌。そして下句の感情の吐露が激しく、切実です。

「帽子のように遠い」というのは、いまは自分とともにあるひとであるけれど、いつかふっと離れていってしまうかもしれない存在、そしていつでも誰かの帽子ともなりうる存在、というほどの意味でしょうか。近くにいながら感じる遠さとは、相手の存在が大きければ大きいほど生まれる感情であると思っています。

 

差してない人と三人すれちがい四人目が来て我はたたみぬ

相原かろ「塔」2017年11月号 

一首の中に傘という語彙は出てこないにもかかわらず、鮮明にその光景が目に浮かぶ、そこに巧さとおもしろさがあります。そしてそのなかに主体の感情のうごきもあざやかに描きだされています。

 

キッチンに食器をあらふまるき背の生きるとはときに獣めきたる(獣:けもの)

/久保茂樹「塔」2017年11月号

食器をあらうその背中は、みられていることを意識していない、無防備な背中でしょう。そして食器を洗うという行為は、日々粛々とおこわれる、生きていくための行為です。それをみつめる主体は、生きることの言いしれぬさびしさのようなものを感じているのでしょう。主体の眼差しにみずからの眼差しを重ねみるとき、食器をあらうその背中がなんともせつなくみえてきます。

 

自画像のための鏡が教室のそこここに陽をはね返しをり

/川田果弧「塔」2017年11月号 

自画像のための鏡、とあるので美術室のような場所を想像します。まだ誰もいないしずかな美術室で、陽のひかりが鏡に乱反射している、ただそれだけ。ただそれだけでありながらこの歌にはなんともいえない雰囲気があります。

 

いはぬこと多きひとならむ まなざしのなかの木洩れ日をそのままに見る

/小田桐夕「塔」2017年11月号

いま目の前にいるそのひとは、寡黙でありながら思慮深さを感じさせるひとなのでしょう。そしてそのひとの眸に映る木洩れ日をじっとみつめる主体は、そのひとが言葉にしない部分までもを感じとりたい、と思っているのでしょう。結句が意志的で、ひたむきです。主体もまた、このひとと似たところがあるのではないかと思っています。

 

かなしいと笑ってしまう人もいるからからからと外れるチェーン

/山名聡美「塔」2017年11月号

第四句のはじめの「から」は理由の「から」のようでありながらチェーンが外れる「からから」という音に傾れこんでいきます。かなしいと笑ってしまう、そのさびしさにからからからというチェーンの空回る音が拍車をかけます。

 

壊れゆくものと暮らしてゆく日々を水をインコにやるように過ごす

/大橋春人「塔」201711月号

考えてみると、私たちのめぐりにあるものは、ものであれ人と人との関係であれ、おしなべて時間のなかで壊れゆく宿命やほころびゆく可能性を負っています。主体はその事実に抗うことができないことも、みずからにできることはインコに水をやるようなほんのささやかなことだけであることも知っています。けれどささやかながら日々を慈しむそうした行為が、一方ではそうした宿命や可能性への抗いになっているのかもしれません。

 

船の上の食堂のやうだ生活は 夏には夏の港を炎やして

/石松佳「塔」2017年11月号 

この歌は、生活を「船の上の食堂」に喩えて目をひきます。船の上の食堂とは、一応は満たされているけれど、どこか心もとなく、どこかもの足りなさを感じる、そんな日々の感触でしょうか。

一転、下句には烈しさがあります。夏の港を炎やすという行為は、みずからの退路を断っていくこと。選んだ道をゆくことはほかにあったはずの可能性を棄ててゆくことであり、そのことへの痛みの感情があるのかもしれません。

そして意味とは別に、映像としてのうつくしさも心に残る一首です。