葛原妙子歌集『朱靈』
『葡萄木立』にひきつづき『朱靈』を読みました。
『朱靈』には『葡萄木立』以後七年間の、715首に及ぶ作品が収められています。
◆見えすぎる目は遠のいて
雁を食せばかりかりと雁のこゑ毀れる雁はきこえるものを
水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり (乾酪:チーズ)
『朱靈』を通読し漠然とながら感じたことは、『原牛』『葡萄木立』と比べて見えすぎる目の恐怖というものは遠のいて、そのまなざしはより深く、より静謐になっているということ。
一首目、自分が食することがなければ今も大空をはばたいていたかもしれない雁の、嚙み砕かれて毀れてゆく声をきいています。命をいただくということへの罪の意識、悲哀の感情が作者のなかにはつねに流れているように思います。
二首目、ヴェネツィアを旅行した際の壮大な連作のなかの一首。運河の街ヴェネツィアの水の音、その水の音にかつてペストでおびただしい死者を出したこの街の仄暗い歴史、そして今日にいたるまで流れてきた時間をみています。「恍惚として乾酪黴びたり」とはすさまじいまなざしです。
◆同じテーマを繰り返しうたう、そして深化してゆく
魚と魚觸るることなし透きとほる流水の膜魚をへだてたり
魚のぼり魚刻々と冷ゆるとき魚は寂しき薔薇の火を得る
をさなごが魚呼ぶこゑす、キリストが魚よ、と呼びし哀泣のこゑ
葛原妙子の歌集のなかには「魚」がしばしば出てきます。同じテーマを繰り返しうたうことにより、そのテーマに執着する作者の内面が顕在化してきます。
掲出の一首目は、するどい観察眼によって描き出された景でありながら、歌集のなかの一首としてみるとき、おのずと象徴的な意味あいを帯びてきます。「魚」はイエスを象徴するものであることを思わずにはいられないのです。そしてキリスト教に並々ならぬ関心を抱きながら死の間際まで帰依することのなかった作者を思うとき、この「魚と魚」とはイエスと作者自身ではなかったかと思ったりするのです。
二首目、薔薇もまた繰り返しうたわれるテーマであり、薔薇が聖母の象徴でもありうることをあわせみるとき、この一首に磔刑のイエスが透けてみえてくるような気がしています。
◆幻視とは対照的にその目からなにかが失せるということ
中國の麻のハンカチ薄ければ身につけしよりかきうせにけり
赤き花抱きよぎれる炎天下いくたびか赤き花のみとなる (抱:いだ)
ふと猫はみえずなりたり白き猫いづこにか消え 大き鈴殘る
葛原妙子というとそこにないものが見えてしまう目、というイメージが強いですが、この歌集ではそこにありつつ失せてしまうものをうたったものもまた印象に残ります。
◆見せけちあるいは否定の文体がみせるもの
晝しづかケーキの上の粉ざたう見えざほどに吹かれつつをり
眞珠秤眞珠を載せず眞珠商白亞の室を閉ぢたるところ
鹽の壺空となりゐつわが家のいづこにも鹽なき時閒過ぎをり (空:から)
上膊より缺けたる聖母みどりごを抱かず星の夜をいただかず (抱:いだ)
見せけちあるいは否定の文体の多いことも作者の特徴のひとつです。
一首目、このようにいわれてみると見えざるほどに吹かれている粉砂糖がむしろまざまざとみえてきます。
二首目では、本来真珠を載せるべき真珠秤に真珠がないということが逆に真珠の存在を心に刻みつけます。
三首目、四首目も同様に、ないものをないということにより、本来あるべきものがないことが顕在化し、読者の側でもそのものをつよく意識することになります。
また、塩というものが聖書のなかで重要な意味をものものであることも一首の奥深さを思わせます。
◆字つまり、その独特の韻律
草食はさびしきかな 窓なる月明りみるにひとしく
しばしばみられる字つまりをはじめとする破調、はじめは破調による読みにくさがあるのですが、繰り返し読むうちに次第に作者独特の韻律に馴染んでいく感覚があり、字つまりにも必要性を感じるようになるから不思議です。
掲出の歌について、作者自身、「二句に一。三句に一。四句にニ。合計一首に四字の欠字、つまり字つまりがある。ギシギシと意味ある言葉の充填でもりあがった歌の卑しさを避けて、この一首の内なる沈んだ情緒さながらに萎え、かつは明視ある歌が欲しかったからだ。五句三十一文字の歌の器は欠けた文字そのものの恩恵によってゆったりと透けてもいるのだ。」(『独宴』)といっています。