欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

葛原妙子歌集『葡萄木立』

このところ葛原妙子歌集『葡萄木立』を読んでいました。次第に葛原妙子の世界に夢中になっていくのを感じながら読みました。(旧字は代用しています)

 

◆二つのものの生の相似を掴む比喩

あゆみきて戸口に鈍き海見えし猫は月光のやうにとどまる

飲食ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し(飲食:おんじき)

月あらぬ山の夜の青さながらにふかしぎなる魚を切りしのちのごとし

一瞬のわれを見いづる父なく母なく子なく銀の如きを

一首目、これは飼い猫、うつくしい白猫でしょうか。その猫が戸口に歩み寄り鈍色の海をじっと見ている、しずかでうつくしい光景です。そこはかとないさびしさも感じられます。「月光のやうに」という比喩、作者はじっと海をみつめる猫のまなざしに、しらじらと海を照らす月の孤高のうつくしさをみてとったのでしょう。

二首目、飲食をかさねることにより増えてゆく空壜、その空壜をみつめる作者の心には飲食をかさねること、それなくしてはありえない生そのものへのいたみの感情があり、その感情が作者に遠き泪をみせるのでしょう。作者の文章に「空壜の林立ばかりの山家に独居。かくして立つ者、立って動かぬ者のみを「存在」と思いつめて暮らした秋であった。」という一節があります。

三首目、月のない山の夜の青、青とありますからまったくの闇夜ではない。うっすらとものの影が感じられるくらいの青い夜は、うつくしくもあり、けれどそこにはなにものかがひそんでいるかもしれない、そんなおそろしさもあります。その感覚はふかしぎな魚の、体のなかを切りひらいてみることと似ているというのです。妖しくも奥深いイメージのひろがりがあります。

四首目、人は誰しも誰かに理解されることを望みつつすっかり理解されることはない。それを当然と思いつつ、当然と言い聞かせつつ、人はぬぐい切れないさびしさを感じるものです。得も言われぬその感情がここでは「銀」という一文字に閉じ込められています。「銀」と表現されてみるとそれ以外にふさわしい言葉はないと思われるほど説得力があります。

 

◆内在する不安、そのほの暗さ

黒き水なにゆゑぞつよくゆれしかばみなそこに白銀の太陽ゆれたり

月蝕をみたりと思ふ みごもれる農婦つぶらなる葡萄を摘むに

青蟲はそらのもとにも青ければ澄むそらのもと焼きころすべし

絹よりうすくみどりごねむりみどりごのかたへに暗き窓あきてをり

一首目、「雲ある夕」という一連の中の一首です。水の面が風かなにかで揺れたことにより、水底に映っていた太陽も揺れたということなのですが、平仮名を多用した文体、「黒き水」「白銀の太陽」という色彩の効果によりぞくっとするような不穏なイメージがひろがります。ひとつ前の〈水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき〉にもこの魚は水のおもてに拒絶され、水中に戻ることがかなわなかったのだというひややかさがあります。

二首目、歌集には葡萄や胎児、嬰児、眸というテーマが多くでてきます。葡萄は作者にとって人間の宿命の、また忍苦の象徴であり、生存そのものの中に含まれる妖、つまり不気味なものの象徴でもあります。この一首において作者は、葡萄の粒と、農婦のお腹の中の胎児(あるいは胎児の眸)というふたつのものを月蝕のように重ね見たのだろうと思います。葡萄と重なる胎児は、作者にとって月蝕のときの月が暗赤色にみえるようにうっすらと不気味なものとしてみえているのでしょう。

三首目、空の青さにも怯むことないまばゆいばかりの青虫の青をみたときに、言葉には言い尽くせない畏れのような感情が湧きおこり、それが「焼きころすべし」というつよい言葉となって表出したのでしょう。残酷でありながら痛切な叫びのように響きます。

四首目、ねむりを絹の透きとおるようなうすさと比した修辞がうつくしい、みどりごが午睡をしている場面です。にもかかわらず作者の目に映るものはそのかたえに暗くひらいている窓。みどりごの行く先を暗示するようなそこはかとないほの暗さがあります。そしてこのほの暗さは単にこのみどりごに対してというにとどまらず、なべて人間という存在に対して作者が抱くほの暗さなのでしょう。

 

◆破調、三句欠落の要請 

晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて

この一首は三句欠落とされています。破調による読みにくさはあるのですが、この一首の場合、三句欠落によりそこにうまれた空白がなんともいえない空気感を醸しだしています。稲葉京子は「晩夏光がおとろえて、さびしく静かな夕ぐれ方の限りなく深い無韻感を、この欠落した第三句が大きく拡げているのである。」といっています。

作者の三句欠落の代表的な歌としてほかに〈黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ〉や〈築城はあなさびし もえ上る焰のかたちをえらびぬ〉(いずれも『原牛』)があります。このふたつも三句欠落への不可避の要請がある歌のように感じています。

 

◆「美しい」という修辞

いまわれはうつくしきところをよぎるべし星の斑のある鰈を下げて(斑:ふ)

美しき把手ひとつつけよ扉にしづか夜死者のため生者のため(把手:のぶ)

美しき信濃の秋なりし いくさ敗れ黒きかうもり差して行きしは

作者はつねづね「短歌は美しくあらねばならぬ、もっと美しく、更に美しく。」といっていたといいます。作者にとっての「美しさ」とは何であるか、その答えに近づくために、「美しい」という修辞の用いられた歌をとりあげてみます。

一首目、上句の平仮名表記が印象的であり、平仮名であることによりそれがあたかも幻であるかのような感覚にさせられます。「うつくしきところ」とはどこなのか。それはほんの一瞬あるかないかのところ、あるいは作者からは遠い存在の場所のような気がします。

二首目、しずかな夜のひととき、作者にとってそれは死者と生者がゆきかう時間なのでしょう。扉はその境界線。死者と生者がゆきかう幻の扉の把手はなにより清浄で美しいものでなければならない。生と死がつねに隣りあわせのものであり、いつ入れ変わってもなんの不思議もないのだという思いがながれています。

三首目、戦時中、作者は三人の子を連れて信濃疎開しています。そのときの辛さは作者の中にながく影を落とします。「黒きかうもり」はその象徴であり、戦時中の日本の現実と作者の心の翳り、それと対照的なものとして信濃の秋の美しさがあります。その美しさは祈りのようでもあります。

 

◆「手」というモチーフ

一人の医師の左手 左手はしりえざるふかきやまひを触知す(一人:いちにん)

怖しき母子相姦のまぼろしはきりすとを抱く悲傷の手より(悲傷:ピエタ

ガラスケース透くさながらの夜となり銀貨をかぞへゐしはわれなり

歌集には「片手」の章をはじめ、手というモチーフが多くでてきます。

一首目、夫である外科医の手でしょう。人間というふかしぎの中のさらに奥の知りえざる病に触れにいく医師の左手を、畏れつつみつめるまなざしがあります。

二首目、作者は見え過ぎてしまう人、見てはならないものまで見てしまう人と評されることが多く、この一首はそのような作者の目をつよく感じます。見てはいけないものの見えはじめる端緒としてマリアの手に、作者は目をとめているのです。

三首目、「ガラスケース透くさながらの」といううつくしい夜に、わたしは銀貨を数えている。この一首に手という言葉は出てきませんが、「片手」という章の中に置かれていることとも相まって、銀貨を数える手が浮かびあがってくるような一首です。

 

◆葡萄のあらわすもの 

うすらなる空気の中に実りゐる葡萄の重さはかりがたしも 

 作者は歌集のあとがきで次のように書いています。「イスラエルびとの切りとつたエシコルの谷の葡萄の大きさ重さは、ふと人間の宿命の、また忍苦の重さとも思はれるが、ときを選ばず葡萄の大きな玉がみえるとき、私にはまた別の思ひがある。それは生存そのもののなかに累々含まれる妖、つまり不気味なものとの対面を意味する。」

これをふまえこの一首を読むとき、初読のときとは比べものにならない奥深さをもって心に迫ってきます。