葛原妙子歌集『葡萄木立』より
水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき
水面にぐぐっと接近した、的確にして無駄のない景の把握。そしてそれにより、魚が跳ねた、というだけにとどまらない雰囲気が醸しだされる。
「この歌は、ことばが発見する景の新鮮さという点において、事象にたいする認識の角度の位置のとりかたにおいて、葛原妙子という歌人を思うときに先ずわたしの心に浮かんでくる歌である。」と、全歌集の栞の中で河野裕子は述べている。
たれかいま眸を洗へる 夜の更に をとめごの黑き眸流れたり
幻視の歌人と呼ばれる作者ゆえ、眸や見ることをモチーフにした歌がたくさんある中で、「流失」というタイトルの一連の最後に置かれ、印象的な歌である。ひとつ前には〈水栓をひらきて流失をたのしめるうつくしき水勢深夜に響く〉があり、その流れの中にあるのだろうと思われる。みずからの手を水の流れに浸しつつ、誰かの、おとめごの、眸を思うのだろう。怖くてうつくしい一首である。
硝子戸に鍵かけてゐるふとむなし月の夜の硝子に鍵かけること
しらじらとかがやく月なのだろう。それは、硝子戸に鍵をかけたからといってそれが隔てにはならない、心をつかまえにきて離さない、それほどにうつくしい月。そのうつくしさの前に、主体は無抵抗である。
飮食ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し(飮食:おんじき)
〈晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて〉と同じ一連にある歌である。
晩夏のひかりもかげりをみせる夕方に、ただ空壜として置かれている壜を見ている。それは人間の日々の営みがそこにあったこと、そしてその飲食はもはや過去のものであることの証しである。主体は生そのものの痛ましさの象徴として見ているのだろうか。あるいは空壜に時間そのものをみているのだろうか。まなざしは透徹している。
天秤の目盛のかげにわがみたり死をよそほへるうつくしき秋を
天秤へとしずかに秋の日射しがさしているのだろう。天秤の目盛の影が落ちている。主体はそこに、ほかでもない秋という季節のどこか耽美的なうつくしさを見い出す。医師の妻である作者にとって天秤とは身近なものだったのかもしれないけれど、天秤の目盛という具体の選びかたがよく、だからこそ醸しだされる雰囲気がある。