葛原妙子歌集『原牛』より
あやまちて切りしロザリオ轉がりし玉のひとつひとつ皆薔薇
ロザリオの糸が切れて手元から転がっていくいくつもの珠が、薔薇の花へと姿を変える、そのさまが美しく目に浮かぶ。ロザリオは聖母マリアへの祈りの場面で身につけるものであり、薔薇は聖母マリアの象徴であるが、そのロザリオを「あやまちて切りし」ことにあまり意味をもたせなくてもよいのかもしれない。四句が六音になっていて、その欠落感が一首に緊張感をもたらし、まるで変容への前触れのようである。
ひとひらの手紙を封じをはりしが水とパンあるゆふぐれありき
なぜだろう、この歌が心に残る。手紙を書くというしずかな行為、ゆうぐれという時間、水とパンというキリスト教を思わせるもの、それらが〈清貧〉という言葉を思わせる。
築城はあなさびし もえ上る焰のかたちをえらびぬ
幻視の歌人と呼ばれる作者には、城というものが根源的に抱える滅びの宿命が見えてしまうのだろう。幻視とはないものがあるように見える、ということにとどまらず、ものごとの本質を暴力的に掴みとることでもあるのだと思う。
一首は三句欠落ととらえればよいのだろうか、全体として破調である。これほどの破調が必要であるのか、とは思う。けれど、少なくともこの一首においては、口に出して読んだときに不思議と違和感がなく、言葉の選択という意味においても、これ以上でもこれ以下でもなく、この形なのだろうと思う。ちなみに、私が読むときには、三句欠落というよりも〈築城はあなさびし、、もえ上る焰のかたちをえらびぬ、、、〉のように読んでしまうのだけれど。
噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々たりきらめける冬の浪費よ(凛々:りり)
「冬の浪費」がいいなあと思う。「冬の浪費」こそ噴水の本質であり、公園の噴水、とりわけ冬の噴水に心惹かれてしまうのは、それが「冬の浪費」であるからなのだろう。
片眸を閉づるときしもさびしきわれの鼻梁はわれに見えくる(眸:まみ)
眸を(この場合は片眸を)つむったときにはじめて見えてくるものがある。
ここでいうさびしさは、普段は見えないものが見えてしまったときにはっと兆す感情、そして自分が自分であることの、えもいわれぬさびしさ、という感じだろうか。「われの鼻梁は」「われに見えくる」という「われ」のリフレインにより、鼻梁をつきつけられるような心理的効果がうまれている。