三井修歌集『汽水域』
先日、カルチャーの仲間による『汽水域』出版のお祝い会がありました。
以下は、その際に10首選をしてお話しさせていただいた内容です。
◆若かりし頃を回顧する
井戸はまだとどめているや覗きたるまだ少年の我の素顔を(119)
若き日にヨルダン川にもとめたる聖水の壜乾き果てたり(197)
今回の第9歌集は、これまでの歌集と比べると重ねてきた齢に思いを馳せる場面が多く登場する。
一首目、これは故郷能登の、お庭の井戸だろうか。少年時代、多感な時期にことあるごとに覗きこんでいたであろう井戸の水面。誰にも言えない心のうちをそっとつぶやいしたりもしただろう。結句の「素顔を」がそんなことを思わせる。
二首目、長く中東に関わってきた作者にとって、当時この「聖水の壜」はお土産ものとして身近なものであり、そのひとつを購入し大切にしていたのだろう。その聖水もいまや「乾き果て」てしまったのだという。商社マンとしての働き盛りの時代を遠く懐かしみつつ時の流れに向けるまなざしを思う。
◆葛藤のなかを生きる
イスラムの祈りの姿見し夜の我の昂ぶり何故のもの(57)
戯れに言えりこの家に住まむとぞ その幾分かは戯れならず(97)
(戯:たわむ、家:や)
マウスなど殺めたりけむその手もて私の息子は幼な子を抱く(147)
人が生きていくうえでどうしようもなく抱えてしまう葛藤を、率直に詠んだものも目を引く。
一首目、宗教については誰しもこの感覚に共感をおぼえるだろう。中東という地で、宗教が争いの原因になっている現実を目の当たりにすることが多かったであろう作者を思えば、その切実さはなおさらである。
二首目、歌集のなかで、中東とともに欠かせないのが故郷能登、そして継ぎの母の存在である。この歌も下の句がどうにもならない現実とのはざまに作者の揺らぎを伝えてせつない。
三首目、これは実験用マウスのことだろう。医学の道にあるものとして当たり前の行いであるのだが、殺めたであろうその手で、というとき、その当たり前にぞくりとする。
◆与えられた生を全うする
地に咲きていたりしものを剪られきて十三階に香る白百合(54)
(剪:き)
翅持たぬ人間と犬地の上を拙く歩み花に近づく(179)
与えられた状況の中で、その状況に抗うことなく生きるものへとまなざしを向ける場面も多く登場する。
一首目、本当は地に咲いていたかっただろう白百合の花が、剪られてもなお十三階という場所で気高く香っている、その姿への心寄せがあるだろう。
二首目、蝶や蜂のように翅を持たない人や犬は花から花へ自由に飛び回ることはできない。それは拙い歩みである。けれどそれこそが与えられたみずからの生であり、拙い歩みは人生そのものである、と受容する作者の姿がそこにある。
◆みめぐりの事象を静謐な目でとらえる
納屋隅に架かる鉞一丁のごとき静けさ冬の夜更けて(28)
(鉞:まさかり)
古九谷の皿の中ゆく赤き雉三百年経てまだ皿を出ず(36)
境内の池の表は静かにて水占の紙一枚浮かぶ(193)
(水占:みなうら)
一首目、冬の夜の静けさを納屋の隅の鉞の佇まいに例えて巧み。
二首目、まるで雉が皿から出てくるのが前提のような言いぶりがおもしろい。作者の想像力がこのような表現を生みだすのだろう。
三首目、景そのものも静謐であるが、無駄のないゆったりとした韻律もまた静謐である。
最後に、好きな歌を。
早春の空に閃く命あり いとけなきものを鳥と呼びつつ(68)