欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

春野りりん歌集『ここからが空』

春野りりんさんの第一歌集『ここからが空』、さまよえる歌人の会にてレポートさせていただきました。
 
◆自然と響きあう感受力

ガウディの仰ぎし空よ骨盤に背骨つみあげわれをこしらふ
ムスカリの新芽のひかり仙骨を大地にますぐ保ちあゆまむ
ガジュマルの星夜の息のふかぶかとひと日を生きて窓に凭りたり(凭:よ)
手と脚を折りてひらたく臥すゆうべしたはしきかな地球の鼓動
病いまだ癒えずされども星月夜われもひとつの星とおもへり
手を伸べて生をさしだす八重桜その意のままにわれも手を伸ぶ 

作者の特徴のひとつとして、みめぐりの自然に対してひらけた感覚、自然の呼吸とみずからの呼吸がかさなるような感覚がある。

一首目、二首目、ガウディも仰いだはずの空、ムスカリの輝く新芽、それらを見たときにそれに呼応するように自分の身体の中の、骨盤、背骨、仙骨を意識する。
三首目、ひと日の終わりの静かな時間である。星夜のガジュマルの呼吸に自分の呼吸をかさねるようにしてこの日を閉じてゆくのだろう。
四首目、五首目は作者が病に直面したときの歌であると思われる。病の不安に縮んでいる、そんな状況のなか地球の鼓動を感受し、みずからをおおいなる宇宙の星のひとつとして生かされている存在ととらえる。そして慰められる。
六首目、万葉集などにみられるような古代的なおおらかさで八重桜にふれる。
 
◆生きて負うかなしみ

うつしみへかへるよすがに光りなむねむりのまへのひとくちの水
貫乳のあまた入りたるわが胸をしやぼんの泡に厚く包めり
家族にも告げえぬ夢と絶望をひとり知りゐむ寡黙な司書は
ゆふやけは歳月の傘 過去に立ちつくすわれをそのまま容れて(過去:すぎゆき)
洞をもつコントラバスの音深しわれにも暗き洞あるものを
運命は馬のたてがみ 撫でながらひきよせて乗る春近き朝
ソマリアの水汲み女のさびしさに眩暈のあたまを搬ぶ日ざかり
仰向けに寝るさみしさよ覚めたままひとはこの世を出る舟にのる 

みめぐりの自然、地球への親さとあたたかいまなざしにあふれる歌が多いなかで、人間の(あるいは作者の)根元的なさみしさやかなしみを垣間見るような歌が心に残る。
一首目、独特の感覚の歌である。ねむりから覚めてうつしみの自分に戻るとき、いま口にするひとくちの水が光ってそのよすがになるだろうという。ねむるときこの世とはちがう何処かへでてゆく感覚があるのだろう。七首目も同様である。
二首目、貫乳とは釉薬をかけた陶器を焼いたときにできる罅のこと。自分の胸にはそのような罅が無数にあるという痛みがある。
三首目、作者自身のなかにある家族にも告げえぬ夢と絶望を思う。
四首目、うつくしくかなしみのある歌。
五首目、洞をもつコントラバスの音に深みがあることを、同じように暗き洞をもつ人間という存在として見つめる。そのまなざしにはかすかな屈折がある。
六首目、馬のたてがみは風にひるがえり風にもてあそばれるものであるけれど、撫でながら自分にひきよせながらいくという。運命にあらがうのではなく、柔軟に立ち向かうことこそつよさであるという作者の矜持がみえるようである。
七首目、「ソマリアの水汲み女のさびしさ」というモチーフにより日盛りの眩暈の感覚というものの手触りが立ちあがる。
 
◆痛みの感受

いつしんに桜貝ひろふ幼子よこれはだれかの記憶のかけら
樫の実がみな黄水晶であつたなら寂しさにひとはほろびるだらう(黄水晶:シトリン)
息継ぎをせざる雲雀ののみどより空へと溢れつづけるひかり(溢:こぼ) 

一首目、だれかの記憶のかけらとして、いま浜辺に落ちている桜貝には喪失感がただよう。
二首目、樫の実がみな黄水晶であったらとは不思議な仮定であるが、黄水晶という無生物である鉱物のひやりとした存在感が印象的である。
三首目、揚げ雲雀のことであろうか。のみどより溢れつづけるひかりがせつない。 
 
◆育ちゆくわが子をみつめる

子を抱きて夕映えの富士指させばみどりごはわが指先を見る
風呂場より踊り出でたる幼子は光ほのかなあしあとを生む
コイビトと子はしりとりをつむぎたりふいに窓より緑あふれて
ジャンプ傘ぴよんとひろげて子は雨の向かうの世へと行つてしまひぬ

歌集のなかでわが子を詠んだ歌はとても多い。生まれてから思春期に入るまでの成長の証しとして日々みせるさまざまな顔を丁寧にとらえてゆく。
 
◆そこにはいないきみへの相聞

ゆるるこゑ、きみのあしおと、かぜのおと 電話に耳をおしあてて聴く
ポケットにしまへずにいるきみからのメールを今日の篝火とする
夫より借りし自転車こぎながら五センチ高き秋風を吸ふ 

子どもの歌がたくさんあるのに比べて夫の歌は圧倒的に少ない。また、子どもの歌には見て触れてたしかな手触りがあるのだが、夫の歌はたとえば電話、メール、自転車というアイテムを通して間接的にその存在を感じる、という詠みぶりが印象的である。
 
◆目に映る社会、見えぬだれかへの祈り

すわり雛立ち雛うかべながれゆく夜の車窓を川とおもへり
方舟に乗せてもらへぬ幼らの悲鳴のやうな朝焼けを浴ぶ
まなうらに闇を満たせりまた明日の光のなかにめざめるために
穿たれし胸はオカリナ悲しめるとほくのだれかを抱くかぜを生む

一首目、夜の電車の窓に乗りあわせた人々が映る様子をいうのであろう。その人々がまるで流し雛のように夜の車窓を流れてゆく。せつない光景である。
二首目、三首目は被災地で詠まれた一連である。「方舟に乗せてもらへぬ幼らの叫びのやうな」とは痛切で、作者の被災地への心情が朝焼けをそのように見せたのだろう。
三首目、まなうらとは自分のまなうらでありみずからが明日の光のなかにめざめることができるようまなうらに闇を満たすのであるが、ここでは同時に他者の明日にも光があるようにという祈りを感じとることができる。
四首目、穿たれた胸とはみずからの胸であろうか。キリストをも想起させる。そして遠くのだれかを癒したいという祈りがそこにはある。祈りを言葉にすることにより、言霊のちからを得ようとしているようにさえ感じられる歌である。