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欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。〈西窓の欅の右へと日没の場所の移りて春が近づく〉

江戸雪歌集『昼の夢の終わり』

江戸雪さんの第六歌集『昼の夢の終わり』について以前一首鑑賞でも取りあげたけれど、まだまだ書きたいことがあるのであらためて、、、。

この歌集で印象的なのは、表現の過剰さやことばへの負荷がなく、細やかな感情の襞を平明なことばで丁寧に掬いあげているということ。たとえ負の感情であっても抑制のきいたことばが選ばれときに大阪弁がまじり、ふうわりとやさしい。だからなのだろう、何度でも読み返したくなってしまう。
 

想像する遠景それは水門であなたの後ろすがたもありぬ
昼すぎの村雨の後ふいに射すひかりよそこにうつしみ立たす
いちはやく秋だと気づき手術台のような坂道ひとりでくだる
とどかない場所あることをさびしんで掌はくりかえし首筋あらう

一首目、すこし不思議な時空を感じる歌。これは現在なのか、それとも過去か未来か。そしてその場所を作者は知っているのか、いないのか。いずれにしてもあなたの立つその場所に作者はいない。その後ろすがたのみえる遠景を想像するだけである。
二首目、昼すぎの村雨の後、雲の切れ間から射すひかりはまばゆいばかりにかがやいていただろう。そのなかに自分の存在を確かめるようにうつしみを立たす。
三首目、歌集ではこのあと作者は手術をうけることになる。もう夏ではない季節にくだる「手術台のような坂道」。手術台にのぼるとき自分はひとりきりなのだと、そして人間の生の根元的なさびしさにまで思いをはせる作者をおもう。
四首目、くりかえし首筋あらうというしずかな行為。それがさびしい感情の痛みを一層きわだたせる。
いずれの歌も一読しずかな景が立ちあがり、さびしさやかなしみの余韻がある。
 

溢さない涙が首に溜まりゆき皐月水無月ドクダミが咲く
ひきだしが引き出されたまま水仙の一筆箋に陽がさしている
若さとはざらつく樹皮のようだったその思惟のなか沈丁花におう
ふたりして触れしそののち忘れえずひとり見にゆくハンカチの花 

植物が詠みこまれている歌より。

一首目、まるで涙をこらえることとドクダミが咲くことに因果関係があるかのような、こらえた涙がドクダミの花にかわるような不思議な感覚を呼び起こす。
二首目、誰が引き出したひきだしなのだろう。引き出されたままどのくらいの時間が経過しているのだろう。そこだけ時間の流れが止まっているかのような静謐さがある。
三首目、匂いと記憶は深く結びついているものである。沈丁花の甘い匂いが遠い日の若くひりひりとした自分を思い出させるのだろう。
四首目、韻律のよさゆえか、はじめて読んだときからすぐに覚えてしまった歌である。(ハンカチの花とはミズキ科の落葉高木のハンカチノキだと思っていたが、今回調べてみたらハンカチの花とハンカチノキとは違う植物で、ハンカチの花とはアカネ科の常緑低木だそうである。)
 

さびしさを掴んでそして突き放す安治川に陽がつよく射すとき
栴檀木橋うつくしそれゆえに渡ることなく時は過ぎたり栴檀木橋:せんだんのきばし)
大阪はわたしの街で肋骨のようにいくつも橋が架かって
淀川をわたってもどって夕風は葦のにおいのわが声となる

歌集には作者の生活のなかに息づく大阪の街を流れる川が繰り返し登場する。魅力的な固有名詞のもつ力とあいまってそこに描き出される世界はあたたかくあじわい深い。
四首目、淀川の上を吹く夕風を胸一杯に吸いこんだのであろうか。発せられる声はその川の葦の匂いをまとっている。淀川が作者にとってかけがえのない大切な存在であることをおもえばこのとき作者の心はきっと満ちたりていたことだろう。
 
このほかにも取りあげたい歌はまだまだあるが、
最後に好きな歌を。

うしなった時間のなかにたちどまり花びらながれてきたらまたゆく
白雲がとてもまぶしい春の日にあなたと椅子を組み立ててゆく