中津昌子歌集『むかれなかった林檎のために』
影かもしれぬわたしよりのびこの影は日傘ゆたかにひろげて歩く
歌集にしばしばみられるのは、わたしという境界が曖昧に溶けだすような感覚である。
この歌においても、そもそも影かもしれないわたしからのびる影、というどこか自分を俯瞰しているようなまなざしがある。ここで日傘をゆたかにひろげて歩くのは影であり、そこには屈折がある。
ほかにこんな歌もある。
濡れたままひかりににじむ白木槿 きのうの声はきょうのごとしよ
赤い靴が傘をはみ出し前へ出る濡れながら出るわたしの靴が
一首目、この声とは誰のものだろう。そこには不思議な時間の往還がある。
二首目、作者は病をへて、また人の死をへてみずからの心が体に置いていかれるような感覚があるのだろう。たとえどんな心境にあってもかわらずに歩みをすすめる赤い靴がせつない。
自身の病や母を詠んだ一連は内容の切実さにかかわらず短歌という詩形の魅力を失わない。
階段はいきなり終わりむらさきに暮れ落ちようとする空に出る
はるさめがきらめくすじをひくまひる 長生きをせよと母に言わせる
この秋を眠ってばかりいる母よ ぶどう洗えばぶどうが濡れる
眠って眠って産道を下りてゆくように母は眠りぬま昼をふかく
一首目、いつまでもつづくものだと思っていたものの予期せぬ断絶。この歌の前には〈肉体はこんな風に他人なのかむらさき色の線がひかれて〉という歌がある。病気の発覚とその治療は、それまであたり前のように自分のものであったはずの自分の身体も人生も一変させてしまう。
二首目、景のうつくしい描写、そのなかで本来ならば娘が母にいうはずの言葉を母にいわせてしまうせつなさがいつまでも読者の心に糸をひく。
三首目、ぶどうを洗えば滴したたるぶどうがそこにはあるのに、母のなかにながれる時間は止まったようである。
四首目、「産道を下りてゆくように」という表現は一瞬意表をつくが、そののちたしかにそんな感じであるのかもしれないとうなずいてしまう
そこへゆけばかならず会えるという冬のそこは小さな庭なのだけれど
思い出せない町を小さく収めたる写真のなかにのびる尖塔
いずれも、どこか不思議な歌である。ノスタルジックな憧憬であるようにも思う。そしてそこはかとなく喪失感がただよう。
雨の音にめざめるあかつき アリョーシャを読みまちがえていたかもしれぬ
どきりとする歌である。アリョーシャは『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャであろう。彼をどのように読み、どのように読みまちがえていたというのか。いずれにしても他者をすべて理解することなどもとよりできるはずもなく、自分にみえているものはそのほんの一部分であるということをあらためて思わされる。
心に残る歌はまだまだあるのだが、この歌集は次の印象的な一首で締めくくられる。
蝶番はるかに鳴らし降りてくる夏か緑の穂がゆれている(降:お)