千種創一歌集『砂丘律』より
悲しみの後に、かなしい、という発話 知らない町の川が映った
/千種創一『砂丘律』
知らない町の川を映すのはテレビか映画か。言葉は感情を後追いするもの。悲しみという感情を感情として認知し、さらにそれを言葉に置き換えるまでにはタイムラグが生じる。これはとてもよくわかる感覚である。
発話のほうに「かなしい」とひらがな表記が選ばれているところに、自らの感情を掬い取りかみくだいて認知しそれを言葉にするまでの過程を思う。
歌集ではこの歌のとなりに〈桜の木、風の重さにしなりつつ 言葉ではまた防げないのか〉という歌がある。ここでは言葉の有限性に対するもどかしさ、言葉をもって理解し合うことのむずかしさに対する苛立ちのようなものが吐露されている。
正しさって遠い響きだ ムニエルは切れる、フォークの銀の重さに
ムニエルに銀のフォークをさし入れたとき、そのフォークであえて切ろうとしなくてもムニエルはそのフォークの重さにたやすくほぐれてしまう。
作者にとって正しさとはそのような頼りなさ、心許なさのなかにこそある。正しさとは人がいればその数だけあるようでもあり、正しさにこたえなどない。正しさを希求することのそのあてどなさが遠さなのだ。希求すればするほどに遠くなる、そんな遠さだ。とくに中東に在住する作者であればその思いはなおさらであろう。
歌集にはこのような作者の繊細でひりひりするような感覚があふれている。その繊細な感覚を、口語を巧みに使いこなして表現する。ひとたびページをめくればそこにはまるで映画でもみるように千種創一の世界が広がっている。