欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

永井陽子歌集『ふしぎな楽器』より

人去りて闇に遊ばす十指より彌勒は垂らす泥のごときを

仏像に造詣のふかい作者。彌勒といえば、貴い存在としてみることが多いけれど、作者は人のいなくなった闇のなかで十指より泥を垂らす姿を想像します。では、「泥」の意味するものとは、、、。彌勒という存在に、貴さだけでなく、人間的なものを感受し、彌勒が内側に湛える苦悩のようなものに思いを馳せているのだろうと思いつつ、もっと官能的な何かであるような気もしています。

 

たれをも許ししかも許さぬ中庸や東洋のぎんいろのゆふぐれ

中庸という言葉が、本来の意味からは少し位相を変えて使われつつ、「しかも許さぬ」という部分により重みがあるように感じられます。

〈あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ〉にはじまる本歌集のⅠ章は歴史上の事柄を主題にするものが多く、この一首においても「東洋」とは大陸からみた日本、それも現在からかなり時代を遡った時代の日本であるように思われます。「ぎんいろのゆうぐれ」のもつ不思議な雰囲気にはうっとりとするようなうつくしさがあります。

 

高麗人は装ひをとき韻を解きほのかにひとをおもひそめにき

「高麗」とは、高麗王朝のことでしょうか。「装ひをとき韻を解き」という匂いたつような表現は、どのような高麗人を思い描いて呼びおこされた言葉なのでしょう。「韻を解き」には、言葉ではない、もっとプリミティブなものを感じているようななまめかしさがあり、とてもドラマティックなものを思わせます。

 

月の光を気管支に溜めねむりゐるただやはらかな楽器のやうに

「気管支」という具体が生きていて、管楽器のような楽器を思い浮かべます。作者はつねづね人体を楽器のように感じていたようです。その楽器が次に音を奏でるときまでゆたかに月の光を溜めているというふくよかなイメージ。「月の光」「ねむり」「やはらかな」というやわらかい言葉を重ね、みずからの身体を「やはらかな楽器」とイメージすることは、細やかで繊細な作者の心に、束の間、安息をもたらすものであったのかもしれません。

 

月光にさへこんなにも軋むこの家には何本の釘が打つてあるのだらう

釘、というアイテムも、たとえば〈あま白く春の大路に光りゐる釘もとほき世の神にやあらむ〉などにもみるように度々現れます。月光は、釘は、作者にとってどんな象徴的意味をもつのであったのか。「月光にさへこんなにもに軋む」のは、この家でありながら、それを感受する作者自身の繊細さでもあるのでしょう。

 

塔9月号より

根こそぎになりて倒れてゆくときにみづならの樹は川を渡りぬ

小林幸子 P5

地崩れで倒れてしまったミズナラの樹。すこやかに根をはり立っているときには、たとえ望んでもけして渡ることかなわなかった川を、根こそぎになって、もうどうしようもない姿になって倒れていくそのときになって、はじめて渡ることとなったのだという作者の着眼がせつなく響きます。「なりて」「倒れて」という「て」のかさなりがここではゆったりとした韻律を生み、ミズナラが倒れてゆく姿がゆっくり、スローモーションのように映像としてみえてきます。

 

ぬれた言葉ぬれた真実ぬぎすてよさもなくば鹿はもうもどらない

/江戸雪 P6

上句を正確に読み解くのは難しいですが、「ぬぎすて」るという言葉から、濡れ衣という言葉なども思い浮かびます。浮名や噂、世の中に溢れる根拠のない不確かなこと、そういうものを疑いもなく受容することへの嫌悪のような感じ。「ぬぎすてよさもなくば」のとてもつよい口調も印象的。「鹿」とは、原初的なうつくしさのようなイメージでしょうか。全体的に抽象性の高い表現がなされながらも、作者のつよくたしかなメッセージが胸に迫ります。

 

アスファルトは色の集まりあの猫が落とした影を私がひろふ

/穂積みづほ p29

アスファルトに瓶リサイクルのカレットが利用されていると、きらきら光を返し七色に光る、上句はそういうことを言っているのかなと思いつつ、下句を読むと、ちょっとちがう気がしてきます。アスファルトとは、その道をゆきかう数知れぬ人や生き物が影を落としていくところ。そのそれぞれの影の色の集まり。そんな風にも感じられてきます。下句の「猫が落とした影」という表現も不思議な感じを残します。

 

くるぶしは六月の雨に濡れながらわたしのための言葉など要らず

/大森静佳 P42

わたしのための言葉、それはたとえばみずからを慰撫するための言葉、という感じ。そのために言葉を使うのではない、ということでしょうか。大森さんの、他者の魂に呼びかけるような歌、時空を越えていく歌、そういうものを思い起させます。みずからにとどまるような言葉ではなく、もっと大きく、もっと深いなにかを希求する、この歌は、そのためにみずからに課す言葉のようにも思われます。

 

日の暮れの早くなる日々遅くなる日々を生きおり 鍵ぶらさげて

/宮地しもん p46

季節により日の暮れの時刻が刻々と変わってゆく、その移り変わりを、淡々と言葉で捉えて、それにもかかわらず得も言われぬ味わいがあります。そしてそのなかで、毎日朝になれば家から出て、夜には家に帰る、そんな変わらぬ日常を送る姿を、「鍵ぶらさげて」の言葉だけで伝えています。つつましやかな、けれどたしかな生がそこにあります。

 

葦原にことばはなびく ほんたうはこちらに向けてしまひたかつた

/小田桐夕 P115

なびくことばは、作者の逡巡する心でもあるのでしょう。本当は、強引にでも伝えたいことがあるのにもかかわらず、相手を思い、相手の思いを最大限に尊重したいと思えばこそ、自分の気持ちをありのままに伝えることも躊躇われてしまう、そんな逡巡。その、相手を思えばこそ言葉を躊躇ってしまうどうにもならないもどかしさ、やるせなさ、声には出せない心の声が、下句の平仮名にひらかれた口語旧仮名の文体にのっています。

 

ぼんやりなきうりの私さう言へばあなたは熟瓜(ほぞち)あねといもうと

/千村久仁子 P119

「ぼんやりなきうりの私」というフレーズにまず驚き、そして掴まれてしまう。作者の言葉のゆたかさにはいつも驚かされます。亡くなられた妹さんをながく詠い継ぐ作者ですが、この一首もなんともせつなく、あたたかい一首です。
この一首の前には、〈籠にゐるきうりのわたしここちよき風うけ何のはならひもなし〉という一首も置かれていて、こちらは、みずからが籠の胡瓜になってしまったような、存在が溶け合うような不思議な感覚があります。そして、あるがままであること。あるがままに、他者や自然を受容する落ち着きと深みがあります。

 

窓ひとつ息をしてをり青つたのしづかに暮れきつてしまふまで

/福田恭子 p121

暮れてゆく部屋の窓、おそらく主体はその部屋にひとりいて、じっと窓をみているのでしょう。「暮れきつてしまふまで」には、それなりの時間の経過が感じられます。この暮れどきという時間の、どこまでもしずかでありながら、けれど感情をゆすぶられるような独特の感触。暮れきってしまうまでじっと窓の息づきをみている姿は、かすかに怖さもあり、窓と主体のまなざしが溶け合って、窓と主体が一体となってしずかに息づいている、そんな雰囲気があります。

 

つり合ってしまえば遊べぬシーソーのむこうの端にだれか座った

/落合優子 p146

シーソーは両端に座るものの重量がちがうこと、つり合わぬことが大事。そうであることは承知の上で、なおこの一首には得も言われぬさびしさが漂います。シーソーのむこう端にだれかが座ることにより、主体の座る側がぐん、と持ち上げられる様子は、まるで主体がこの世界に投げ出されるかのような感触があります。「だれか座った」というそっけない言いぶりは、相手がだれであるかにかかわりなく、他者と自分、という立ち位置を冷めたまなざしでみているような感じがあります。
一連には癌を患い抗がん剤治療をする様子が描かれ、それゆえにこの一首には、病に選ばれてしまった自分、というやるせなさも滲むように感じられます。

 

〈木〉のならぶ文字は淋しいさしのべてふれたき枝に枝の触れえず

/福西直美 p198

〈淋〉という文字は木がならんでいる。一本であるときよりも、ならんだときにこそ、さびしさはさびしさとして顕在化する。相手があって、その相手に触れたい、届きたいと願うときに、さびしさというのは生まれるものであり、一人より、二人いるときにこそさびしいというのは、人間の本質的な感情であるのだろうなと思っています。

 

 

塔8月号より

くるしさをくるしさで堰きとめたって孔雀の首には虹色がある

/大森静佳 p59

孔雀のほそくながい首、あるいはその首から搾りだされるような、あの悲しげな鳴き声のイメージと相まって、くるしさをくるしさで堰きとめるということ、その作者の苦しさを、体感として伝えます。その一方で、上句のあとには省略があり、上句と下句では転換があります。くるしさをくるしさで堰きとめたってどうにもならないよ、孔雀の首には虹色があるのだ、と言い聞かせ、奮い立たせるように。

 

あれは鳥それは木これは花 パパは君に何にも教へられない

/益田克行 P71

鳥も木も花も、指さしながら教えているのに「何にも教へられない」という作者。そこには、往々にして人はものの名を知っているだけでその存在を知ったような気になってしまうけれど、存在とはそんな簡単なものではない、という、存在に対する慎ましい態度があるように思われ、その慎ましさが一首の深みになっています。

 

無傷って言うときひとつめの傷ができる気がする ぼくは無傷です

/田村穂隆 p71

無傷、という言葉を使いつつ、同時にその言葉に傷ついていくような、言葉に対する繊細さ。そして、それでもなお奮い立たせるようにいう、結句の「ぼくは無傷です」が痛々しく響きます。

 

月を見るように遠くに目をやれど六畳一間に〈遠く〉はあらず

/福西直美 p88

「月をみるように」というのはそれ自体比喩的で、希望とか憧れとかそういうものの象徴なのだろうと思います。けれど、六畳一間には紛れようもない現実そのものがあって、〈遠く〉などそこにはないのだ、と。生活に根差した感情を詠いつつ、一首全体に詩情があります。

 

ミモザ いつか運命の人じゃない人と死ぬまでの日々が眩暈のようだ

/川上まなみ p89

いつか運命の人に出会いたい、そう願いつつ、運命の人に出会うことなんてそうそうあることであるはずもなく、人は妥協や諦めを重ねて生きていく。けれど運命の人と出会うことをすっかり諦めてしまうこともできず、わずかな希望を抱きつつ日々を生きればその日々は迂遠そのもの。そのはるけさを思うとき、感情はわさわさと揺らめくのでしょう。
ミモザ」と木の名を掲げ、その下に続く文体は、まるで作者がミモザの木を見上げ、ミモザの木の下に立ち尽くしているかのような映像を呼びおこし、わずかな風にも揺れやまぬミモザと、作者のいう「眩暈」がおり重なっていくようです。

 

わが胸に器があればこの雨を受けとめそして静かに割れる

/石松佳 p90

それはきっと音のないしずかな雨、あるいは雨のような感情なのでしょう。その雨をひとつの陶器の器のように、身じろぎもせず受けとめる作者。受けとめて受けとめて、そして最後にはその雨もろともに割れてゆくのだ、と。けれど、それはけして受けとめきれなくなって割れるのではない。その雨を全霊で受けとめ、割れて、破片となってなお、その雨と混じりあい、運命を共にするのだという覚悟のようなものであるように思われます。結句の「静かに割れる」の衝撃に、心がふるえました。

 

青嵐の先触れのごとき風がわが髪をあやつる午後の回廊

/山川仁帆 p99

まだつよく吹くわけではないけれど、すこし生ぬるいような、そしてどこか予兆めいた風の手触りのようなものを感じます。「あやつる」という擬人化がここでは活きていて、その風になされるがままに、その風に全身をゆだね、全身でその風を感じている主体の姿が目に浮かびます。

 

風に海のかをりがまじつてゐることをわたしはうつかり忘れてゐたな

/小田桐夕 p107

風っていろいろなところを吹いてくるものだから、風の中には、海のかおりだって混じっている。けれどそれはかすかなものだから、うっかりすると忘れてしまって、あらためて気づくこともない。そしてそういうことって、風にかぎらずあることだなあ…と思わされます。風のことを詠いつつ、それは象徴性を帯び、旧かなと独特の口語が妙にしっくりと心に沁みてくる、そんな一首です。

 

剃刀を幾度も添はすほんたうの顎を鏡に映し出すまで

/小林貴文 p109

剃刀の鋭利な鋭さと、鏡のなかに映し出される、ありのままの自分に対峙する感情の鋭さ。漢字の多用された文体のなかで旧かなの「ほんたうの」が浮き彫りになり、本当を突きつけられるような気持ちになります。

 

泉よりもどつて来たるまなざしでかなしき事をいふいもうとは

/福田恭子 p113

「泉よりもどつて来たる」が実際なのか、比喩なのかはさだかではありませんが、この「泉」には象徴的な響きがあります。水が映しだすものになにかを知らされたかのような、あるいは、泉でなんらかの思索にふけってきたかのような、そんな雰囲気です。泉に行く前までとはちがう、かなしいまでのつよさを携えて、妹は泉から戻ってきたのでしょう。

 

割れたのと同じ皿買い足すつもり今年の桜足早に過ぎ

/森尾みづな p183

桜が散りゆく下句の景は、今年の桜は今年一度かぎりであることを思わせて、そう思いながら上句にもう一度戻るとき、「同じ皿」の「同じ」という言葉が痛切な響きをもってきます。作者は割れてしまった皿と同じものなどもうこの世に存在しないことを承知の上で、その事実に抗うように、同じ種類の皿を買い足すのです。

 

 

第8回塔短歌会賞受賞作「灰色の花」より

第8回塔短歌会賞受賞作、白水ま衣さんの「灰色の花」。
画家二コラ・ド・スタールを連作の主題に置き、彼の絵、そして彼の内面にまでふかく迫りながら、同時にスタールに惹かれる作者自身のなかに息づく心理、自身の哲学のようなものまでもが表現された、とても読み応えのある一連でした。
白水さんの作品には、詩的な感受性のなかにも、骨太なものがあることをつねづね感じていましたが、今回の作品でもあらためて彼女の思惟のふかさを感じました。
一般的には、みずからの内面にある思惟や思索の部分を詠もうとすると、一首が観念的になってしまったり、言いたいことばかりが先立ってしまったりしてしまいがちですが、白水さんの作品のなかではそういうことがない。そこに、場面や景が立ちあがり、実感としての手触りがあるのです。

 

燃やしたのではない燃えていたのだと蝋燭の火を消しながら告ぐ

人為的な要因によらずそこに存在するもの、どうしようもなくそこに〈在る〉もの、必然…そのようなものへの意識。それは、連作の最初に詠われる〈偶然〉と相反するようでいながら、その混沌こそが真実であるかのよう。火を消しながら告ぐのは、スタールであるかのようであり、作者であるかのようであり、イメージの膨らみがあります。また、〈燃やしたの/ではない燃えて/いたのだと〉という韻律が、〈ではない〉〈いたのだ〉という語を印象づけ、思いが確固たるものであることを印象づけます。

 

スタールが描きたる海の混沌は容赦がなくて君と似ている

この一首から、私はスタールの画集のなかの〈海景〉という一枚を思い浮かべました。その海は一見、灰色に塗りこめられているようでありながら、じっと眺めていると、その独特の構図、灰色の濃淡、筆致…そこには海という世界の深淵が描かれています。そしてこの絵のページには〈彼が見るとき、無限が見えてくる。見る瞬間、彼は無限を感じ取り、彼の身振りは、そこに「触れる」ことなのだ。〉というアンヌ・ド・スタールの言葉が添えられています。一首を読んで画集のこのページを思い浮かべたのは、この言葉を記憶していたせいであったかもしれません。作者が見るとき、〈君〉という存在もまた、そのような無限性を思わせる存在なのだろうことを思いつつ。

 

反対をしてはくれないさみしさは波の音にも似て心地よい

生きるということは、その折々をみずからで判断していくしかない、孤独な営為。そのことを作者はよくわかっている。そして、その人がもし反対をしてくれる人であったなら、その反対に自分をゆだねることができるかもしれないけれど、そうはしない人であることもよくわかっている。そこに一抹のさみしさはありつつ、それは、その人もまた、孤独を受けとめて生きている人であればこそ。そう思うとき、その人への思いを深くする作者であり、その思いこそが波の音にも似た心地よさにつながるのでしょう。結句が〈心地よい〉であることが、孤独を感じつつもそれを受け容れ、なお凛とある作者を思わせ、清々しさすらあります。それは〈土足ではこちらに入ってこない君の靴下今日もあったかそうだ〉の一首にも感じられます。

 

嘘という真実 把手と手のような関係を手の立場から説く
真実という嘘 コップの影の端にコップは立っているしかなくて

手という存在ありきの把手という存在、コップとその影との関係、そういうものに対して、既成概念にとらわれることなく、丁寧にみつめる思慮深さ。作者のなかにはつねに〈存在〉そのものに対する思惟があるのだと思っています。

 

抽象でも具象でもありうるのだとスタールが描くパン、その光

サルバドール・ダリの言葉に、「最も写実的な絵画が最もシュールな作品であることは永遠のパラドクスである。」というものがあります。スタールの絵をみていると、同じように、具象を突きつめた先に抽象が、抽象を突きつめた先に具象があることを思わされます。前掲の〈嘘という真実〉〈真実という嘘〉の歌と同様、一見相反する概念の、その先にある深みを思わされる一首です。そして結句の〈その光〉、それは、絵に描かれた光であると同時に、作者の中に渦巻く思惟に、スタールの絵がひとつの道筋を指し示してくれたこと、そのあかるさであるのかも知れません。

 

すれ違う犬と目が合う一瞬の、えくぼのような時間が好きだ

スタールの絵に眼差しを深め、思惟を深めながら、一方で、時間を〈えくぼ〉として捉えるという、感覚の生き生きとした、あたたかな歌が混ざってくる、その多面性に、一連の魅力があります。犬と目が合う一瞬に対する、ほっこりとするような手ざわりがあります。

 

部屋に絵を飾るとくるしくなるのなら絵になってしまえばいい、わたしが

この歌の前には〈夕近き額縁店に掛けられて鏡は何かを映してしまう〉〈鏡だと思って君の顔を見ればなぜに微笑む君であろうか〉という鏡をモチーフにした二首が並びます。そこにあるかぎり、なにかを映さずにはいられない鏡という存在。近しい〈君〉という存在もまた、自分自身を映しだす鏡であること。そして、画家の思惟の果ての姿としてそこにある絵もまた、そこに自分自身の内面を重ねみてしまうという意味において、鏡ともいうべき存在なのかもしれません。
スタールを連作のモチーフとして、彼の絵に、あるいは彼の内面にふかく触れながら歌を重ねてきて、ここにきて、スタールと作者が重なりあうかのような、スタールの苦しさと作者の苦しさが混然一体となるかのような激しさに息をのみます。
それゆえに、連作の最後に置かれた〈宛先は最後に記す 振り返ったら死ぬような気がする雪の夜を〉という一首のなかに色濃く匂う〈死〉のイメージが、スタールの自死という事実をはらみつつ、ひえびえと心に迫るのです。

 

塔7月号より

さざなみが君の水面を覆いゆく銀色の笛を深く沈めて

/松村正直 p6

君が内面に深く沈めるのだという「銀の笛」が印象的。銀という色、笛という存在の硬質な感じが、そのひとの内面の、核のようなものを思わせます。そしてそれは深く沈めて、たやすく誰かに触れさせることのないもの。たやすく触れることはできないけれど、作者はその存在をたしかに感じています。

 

罵りの語はさらに語を呼びながらとどまりがたく馬をかなしむ

/河野美砂子 P11

感情の昂ぶりのなかで罵りの言葉を発するとき、罵りの言葉はあらたな罵りの言葉を引きだしてとめどもないことになる、ということがあります。ここでは、「罵」という漢字には馬が含まれていることに目をとめて、そこからイメージを膨らませ、一旦駈けだしたら容易には止まらない馬の姿を思い描いています。その馬の姿を、感情の昂ぶりからはすこし距離を置く体温の低いまなざしで、昂ぶりのとめどなさと重ねみています。

 

口笛を吹いても心減らざれば息ふかく窓より口笛を吹く

/花山周子 p15

上句は「減らざれば」といいながら、口笛ではない何かによってはすり減っていってしまう、心という存在のありようを際立たせます。心は擦り減ってしまうものであるけれど口笛を吹くことでは減らない、だから口笛を吹くのだというせつなさ。家の窓辺で、誰に聞かせるでもなくただひとりで息ふかく吹く口笛は、まるで自分自身を解放するための祈りのようでもあります。

 

どこまでも歩いてゆけそうな靴をはきどこまでも歩くさびしさ

/白水ま衣 p29

歩きつづける、という行為は、主体のなかに、思惟や思索、あるいは物思いがはてしなく続けられている状況のようにも思われます。どこまでも歩いてゆけそうな靴をはくということは、とどまらせるきっかけになることがない、ということ。どこまで、ということのないはてしなさのなかに沈みこんでいくようなさびしさがあります。

 

逢ひたいと思ふほどではないけれどセロリのやうな雨が降ってる

/佐近田榮懿子 p41

「セロリのやうな」という比喩の、一義的には意味をとりにくい比喩でありながら、雰囲気や感情のありどころが匂い立つようなところがとても魅力的。上句と下句のつき方も、理が通ってしまっていたり、因果関係になってしまっていたりすることがなく、それが一首にひろがりを与えています。

 

先までおほきなたれかの眼のなかのわたしであつた雪を踏みつつ

/千村久仁子 p144 (先:さつき)

人知の及ばぬなにか大いなる存在のまなざしなのでしょう。雪の積もる昼の町、であるように思いますが、そのなかに立ち、そうしたものの気配を感じる、という崇高な雰囲気を湛えた一首です。

 

硝子越し眼がひろう夕闇の花びら雪の地に触れる音

/山川仁帆 p192  (眼:まなこ)

花びら雪、とは花びらのような形をした大片の雪。その花びら雪が地に触れる音、それは聞き分けることなどできないほどにかすかな音。その音を、「眼」でひろうのだというのがこの一首の眼目。硝子越しに花びら雪のふる様子をじっと眺めていると、花びら雪が地に触れる音までみえるようだと言うのです。そこにはとても静謐な時間が感じられます。

 

病院のましろな壁がまなうらに浮かぶ 批判に舵切るときは

/紫野春 p204

少なからぬ逡巡ののちに、それでもやはり批判の意を表明する、という方に心を決める、という場面。するべきか、するべきでないか迷いつつ、批判することにより壊れたり、失われたりしてしまうかもしれないことにも思いをいたす、その心の痛みが、どこか殺風景な病院の白い壁をみせるのでしょう。批判する、ということは、する側の自分自身をも傷つける行為であることをあらためて思うと同時に、それでも、と決意する主体の意思を感じる一首です。

 

美しい顔の火傷を見られぬよう 天女が織った布が夜です。

/菅野紫 p206

神話やものがたりの一場面のような雰囲気。美しいものが外部世界により傷つけられることへの痛み、それを束の間やさしく包みこむ闇という存在が、美しい見立てによって象徴的に詠われています。

 

水鳥がページをめくっているような春ですどうかまだ行かないで

/椛沢知世 p208

水鳥が産卵をして雛がかえり、その雛が巣立っていくまでというのは、命がけの生の営みがそこでおこなわれているにもかかわらず、忙しないわたしたちの生活のなかで眺めていると、あっという間のことのようにも感じられます。産卵から巣立ちまでをひとつのストーリーとすると、上句の比喩には、水鳥のその営みが、春という季節のページをめくっていくような、春という季節の足早な感じを、水鳥の生の営みと重ね合わせてみているような実感があります。

 

 

塔6月号より

さようならはここにとどまるために言う ハクモクレンの立ち尽くす道

/江戸雪 P5 

「さようなら」は、離れゆくひとに向かっていう言葉であると同時に、自分はここにとどまるのだということをみずからに再認識させ、覚悟させるための言葉、言葉をこのようにとらえ直すことにより一瞬にして言葉の彫りが深くなることに驚きます。ハクモクレンの木は立ち尽くすというイメージのある木。そこには作者のありようも投影されています。

 

わたしにも春という窓開きゐて名前で呼ばるることの寂しさ

松木乃り P17

きっといま作者はなんらかの苦しさのなかにいるのでしょう。一連のなかの一首として読むとき、心にひっかかっているのは、施設にいる父のことであるようです。「春という窓」という把握がよく、季節は確実にめぐって、どんな人の目の前にもどんな状況のなかにも春という季節の窓は開かれているのだ、という認識がせつなく響きます。

 

ここはまるで生み落とされた町のよう身を公園の日だまりに寄す

/澤端節子  P41

上句の比喩に白昼夢のような不思議さがあり、なつかしいような、生温かいような、得も言われぬ感触を伝えます。もともとこの町のことは知っていて、そうでありながら今あらためてさえざえとしたまなざしでこの町を見渡しているような感じがあります。

 

またたく間におたまじゃくしが流れ込む水田にのこす我の足跡

/清水良郎  P50

季節がくれば田にはゆたかに水が張られ、おたまじゃくしだって流れ込み、足跡はあとかたもなくなくなってしまう。そう知りつつも、いま水のない田にみずからの足跡を残す作者。それはおおきな歴史的時間のなかに飲みこまれいずれ忘れられてしまうであろう人間の、それでも懸命に生きている証を残そうとする姿を呼び起こすようでもあります。

 

零れたる葉は踏みながら生きてゐれば死者の傍へに花を置きたり

/永山凌平 P66

「零れたる葉は」の「は」が印象的に使われています。いま死者に手向けようとしている花から落ちた葉なのでしょう。その葉にはかまうことなく踏みつけてしまう。上句は、生きていればなにかを傷つけずにはいられない残酷さを言いあてるかのようです。

 

水の色は花器のみどりに移りしが奔放にして指を逃るる

/山川仁帆  P66

水の色は透明にしてかがやくようなひかりを帯び、花器のみどりに映っている。けれど、その色にふれようと手を伸ばせば手に翳ってしまうのでしょう。「移る」「逃るる」というまるで意思があるかのような語句の選択がいきいきとして、水の特性をするどく捉えています。韻律もうつくしく一読忘れがたい一首。

 

水のないところに水の音がしてクリスマスローズしずかに芽吹く

/福西直美 P95

クリスマスローズの芽吹きの気配に、そこにはない「水」を感受しているところに魅力があります。ただ、上句が十分にしずかな雰囲気を表現しているので、結句の「しずかに」はだめ押しになっている気もします。

 

遠いビルの屋上にほそく並びゐし黒点がふいにばらばらと浮く

/岡部かずみ P112

ビルの屋上に並んでいたのはおそらく鴉だったのだろうと思いますが、鴉という言葉を出さずに描写しきったところがみどころでもあります。「ばらばらと浮く」という結句も、非常に無機質な感じで、まるで黒いかたまりがゲシュタルト崩壊していくような不気味ささえ感じます。

 

いまごろは羊になりてゐないかと鍵をおとししひとを思ふも

/千村久仁子 P135

上句が得も言われぬ不思議な感覚です。「鍵」というのがポイントで、鍵というたいせつなものを落とすことによって、まるで異次元の鍵をあけてしまうかのよう。

 

吸っていた蜜の名前をおしえあう ツツジサルビア 会えてよかった

/小松岬 P151

花の蜜を吸うという行為は、どこか少女性を帯びて、しかも密やかな雰囲気があります。自分がかつて吸っていた蜜の名前を相手に告げることは、相手に心を許しているということの証左なのでしょう。「サルビア」と「会えて」の音のつらなりもかろやかで、一首の世界観にマッチしています。

 

 

塔5月号より

冬をしまふ器のあらば幾たびも数ふる夕べ雪となりたり

/溝川清久 p17

「冬をしまふ器」とは不思議な表現です。冬の日の翳りを抱え込むような、深い器などを思い浮かべます。そんな器があるならばその器を何度も数えるのだといって、静謐な雰囲気があります。そうして、降りだす雪。主体の心と雪に因果関係はないけれど、どこかで呼応しあっているようにも思われます。

 

声はつねに過去からの声 風の日のあなたが水仙を撮っている

/大森静佳 P64

声とは、声にする人がいてはじめて存在するもの。その意味で、耳に届くとき声はつねに過去からのものであるといえるのかもしれません。
風の日にひとり水仙を撮っているひとは、このとききっと声を発してはいない。上句で声について言い触れながら、対照的に下句の光景の無音が印象的です。風の音のほかに聞こえない景色のなかで、主体はいま目の前にいるその人の声を、心に呼び起こしているように思われます。

 

桟橋より見る雨の乗馬クラブには帽子のごとくしずかなる馬

/白水ま衣 p65

映画のワンシーンのようなうつくしい光景です。「帽子のごとく」という比喩が詩的で、目に映るもののしずけさを効果的に物語っています。「帽子のごとく」という言葉が選ばれたことにより、馬のみえるその光景が、一読忘れがたい抒情を帯びるようです。

 

背を向けて無口な庭師のやうに立つもういく日も陽ざしは薄い

/澄田広枝 p71

具体的な状況はわからないけれど、だれかとの関係性のことをいっているのでしょう。「無口な庭師のやうに」が印象的な比喩で、その姿は心象のようでもあります。また、下句にもかすかな翳りが感じられ、主体のなかになにかしらの屈折した思いがあることを感じさせます。

 

レシートに「リード楽器」と印字されどこかとほくで擦れあふ葉先

/岡部かずみ p82

レシートに印字された言葉から意識がどこか遠くの葉擦れに飛ぶ、といううつくしさ。 「レシートに」「リード楽器」というラ行の音、「印字され」「擦れ」とレの音が重ねられることにより、一首に透明感がうまれているように思います。

 

ああきっと雲をちぎれば一輪のラナンキュラスと等しい重さ

/小松岬 p93

ラナンキュラス一輪の重みと、ちぎった雲の重みを比較する発想がユニークでありながら、「ああきっと」という初句には雲という手に届かない存在への希求があるようにも感じられ、かすかにせつなくもあります。ラナンキュラス一輪の重みとは、はたして重いのか、重くないのか。重くないものの、手のなかに忘れがたく残る重みのようなものを感じます。

 

時かけて空を降り来る雪だから何か思ひ出せさうで見てゐる

/髙野岬 p112

とてもとても軽い、舞うような雪を思い浮かべます。空から落ちてくるまでの雪の時間、その時間はけして短いものではないのだと思っているのでしょう。その時間は、主体がこれまで生きてきた時間の一部が組みこまれているような、はるかな時間を内包するようなイメージです。

 

他動詞のぬらすといふことゆびさきは椿の雪をそうつとはらふ

/千村久仁子 p128

何かをぬらさずにはおかない雪というものに思いをはせ、「ぬらす」という動詞が他動詞であることに言い触れて、なにかをそのままにはしておかない、行為が不可避的におよんでしまうことのかなしさに対する思いがしずかに伝わってきます。

 

鹿のつのに触れてゐたのはそれぞれに隠しごとをもちよつたひとたち

/小田桐夕 p131

隠しごとというのは、なにか悪巧みのようなものではなく、口に出すことなく抱えているもののことなのではないかと思います。だれにも言えない苦しさを持ち寄って、ただ、鹿の角に触れている複数のひと。どこか不思議で、どこか濃密な空気が漂っています。

 

組んだ手に額を載せてひつたりと鰐のくつろぎ、十一匹の鰐

/松原あけみ p139

組んだ手に額を載せるみずからの姿を、鰐であると見立てているのだと思います。どうして十一匹なのかという部分は読み切れませんでしたが、鰐ののっそりした動きを思うからでしょうか、ゆるやかな時間さえ感じられるようです。

 

降りつづく冷たきものが青銅の肌に積もりて「考える人」

/山川仁帆 p169

西洋美術館の前庭の「考える人」の像を思い浮かべます。雨、あるいは雪が降りつづき、ブロンズの肌の上を濡らしてゆく。その光景を描写しているのみでありながら、描写に徹することにより、その光景がなにかを啓示しているようでもあり、読後に余韻がうまれています。