欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔7月号より

さざなみが君の水面を覆いゆく銀色の笛を深く沈めて

/松村正直 p6

君が内面に深く沈めるのだという「銀の笛」が印象的。銀という色、笛という存在の硬質な感じが、そのひとの内面の、核のようなものを思わせます。そしてそれは深く沈めて、たやすく誰かに触れさせることのないもの。たやすく触れることはできないけれど、作者はその存在をたしかに感じています。

 

罵りの語はさらに語を呼びながらとどまりがたく馬をかなしむ

/河野美砂子 P11

感情の昂ぶりのなかで罵りの言葉を発するとき、罵りの言葉はあらたな罵りの言葉を引きだしてとめどもないことになる、ということがあります。ここでは、「罵」という漢字には馬が含まれていることに目をとめて、そこからイメージを膨らませ、一旦駈けだしたら容易には止まらない馬の姿を思い描いています。その馬の姿を、感情の昂ぶりからはすこし距離を置く体温の低いまなざしで、昂ぶりのとめどなさと重ねみています。

 

口笛を吹いても心減らざれば息ふかく窓より口笛を吹く

/花山周子 p15

上句は「減らざれば」といいながら、口笛ではない何かによってはすり減っていってしまう、心という存在のありようを際立たせます。心は擦り減ってしまうものであるけれど口笛を吹くことでは減らない、だから口笛を吹くのだというせつなさ。家の窓辺で、誰に聞かせるでもなくただひとりで息ふかく吹く口笛は、まるで自分自身を解放するための祈りのようでもあります。

 

どこまでも歩いてゆけそうな靴をはきどこまでも歩くさびしさ

/白水ま衣 p29

歩きつづける、という行為は、主体のなかに、思惟や思索、あるいは物思いがはてしなく続けられている状況のようにも思われます。どこまでも歩いてゆけそうな靴をはくということは、とどまらせるきっかけになることがない、ということ。どこまで、ということのないはてしなさのなかに沈みこんでいくようなさびしさがあります。

 

逢ひたいと思ふほどではないけれどセロリのやうな雨が降ってる

/佐近田榮懿子 p41

「セロリのやうな」という比喩の、一義的には意味をとりにくい比喩でありながら、雰囲気や感情のありどころが匂い立つようなところがとても魅力的。上句と下句のつき方も、理が通ってしまっていたり、因果関係になってしまっていたりすることがなく、それが一首にひろがりを与えています。

 

先までおほきなたれかの眼のなかのわたしであつた雪を踏みつつ

/千村久仁子 p144 (先:さつき)

人知の及ばぬなにか大いなる存在のまなざしなのでしょう。雪の積もる昼の町、であるように思いますが、そのなかに立ち、そうしたものの気配を感じる、という崇高な雰囲気を湛えた一首です。

 

硝子越し眼がひろう夕闇の花びら雪の地に触れる音

/山川仁帆 p192  (眼:まなこ)

花びら雪、とは花びらのような形をした大片の雪。その花びら雪が地に触れる音、それは聞き分けることなどできないほどにかすかな音。その音を、「眼」でひろうのだというのがこの一首の眼目。硝子越しに花びら雪のふる様子をじっと眺めていると、花びら雪が地に触れる音までみえるようだと言うのです。そこにはとても静謐な時間が感じられます。

 

病院のましろな壁がまなうらに浮かぶ 批判に舵切るときは

/紫野春 p204

少なからぬ逡巡ののちに、それでもやはり批判の意を表明する、という方に心を決める、という場面。するべきか、するべきでないか迷いつつ、批判することにより壊れたり、失われたりしてしまうかもしれないことにも思いをいたす、その心の痛みが、どこか殺風景な病院の白い壁をみせるのでしょう。批判する、ということは、する側の自分自身をも傷つける行為であることをあらためて思うと同時に、それでも、と決意する主体の意思を感じる一首です。

 

美しい顔の火傷を見られぬよう 天女が織った布が夜です。

/菅野紫 p206

神話やものがたりの一場面のような雰囲気。美しいものが外部世界により傷つけられることへの痛み、それを束の間やさしく包みこむ闇という存在が、美しい見立てによって象徴的に詠われています。

 

水鳥がページをめくっているような春ですどうかまだ行かないで

/椛沢知世 p208

水鳥が産卵をして雛がかえり、その雛が巣立っていくまでというのは、命がけの生の営みがそこでおこなわれているにもかかわらず、忙しないわたしたちの生活のなかで眺めていると、あっという間のことのようにも感じられます。産卵から巣立ちまでをひとつのストーリーとすると、上句の比喩には、水鳥のその営みが、春という季節のページをめくっていくような、春という季節の足早な感じを、水鳥の生の営みと重ね合わせてみているような実感があります。

 

 

塔6月号より

さようならはここにとどまるために言う ハクモクレンの立ち尽くす道

/江戸雪 P5 

「さようなら」は、離れゆくひとに向かっていう言葉であると同時に、自分はここにとどまるのだということをみずからに再認識させ、覚悟させるための言葉、言葉をこのようにとらえ直すことにより一瞬にして言葉の彫りが深くなることに驚きます。ハクモクレンの木は立ち尽くすというイメージのある木。そこには作者のありようも投影されています。

 

わたしにも春という窓開きゐて名前で呼ばるることの寂しさ

松木乃り P17

きっといま作者はなんらかの苦しさのなかにいるのでしょう。一連のなかの一首として読むとき、心にひっかかっているのは、施設にいる父のことであるようです。「春という窓」という把握がよく、季節は確実にめぐって、どんな人の目の前にもどんな状況のなかにも春という季節の窓は開かれているのだ、という認識がせつなく響きます。

 

ここはまるで生み落とされた町のよう身を公園の日だまりに寄す

/澤端節子  P41

上句の比喩に白昼夢のような不思議さがあり、なつかしいような、生温かいような、得も言われぬ感触を伝えます。もともとこの町のことは知っていて、そうでありながら今あらためてさえざえとしたまなざしでこの町を見渡しているような感じがあります。

 

またたく間におたまじゃくしが流れ込む水田にのこす我の足跡

/清水良郎  P50

季節がくれば田にはゆたかに水が張られ、おたまじゃくしだって流れ込み、足跡はあとかたもなくなくなってしまう。そう知りつつも、いま水のない田にみずからの足跡を残す作者。それはおおきな歴史的時間のなかに飲みこまれいずれ忘れられてしまうであろう人間の、それでも懸命に生きている証を残そうとする姿を呼び起こすようでもあります。

 

零れたる葉は踏みながら生きてゐれば死者の傍へに花を置きたり

/永山凌平 P66

「零れたる葉は」の「は」が印象的に使われています。いま死者に手向けようとしている花から落ちた葉なのでしょう。その葉にはかまうことなく踏みつけてしまう。上句は、生きていればなにかを傷つけずにはいられない残酷さを言いあてるかのようです。

 

水の色は花器のみどりに移りしが奔放にして指を逃るる

/山川仁帆  P66

水の色は透明にしてかがやくようなひかりを帯び、花器のみどりに映っている。けれど、その色にふれようと手を伸ばせば手に翳ってしまうのでしょう。「移る」「逃るる」というまるで意思があるかのような語句の選択がいきいきとして、水の特性をするどく捉えています。韻律もうつくしく一読忘れがたい一首。

 

水のないところに水の音がしてクリスマスローズしずかに芽吹く

/福西直美 P95

クリスマスローズの芽吹きの気配に、そこにはない「水」を感受しているところに魅力があります。ただ、上句が十分にしずかな雰囲気を表現しているので、結句の「しずかに」はだめ押しになっている気もします。

 

遠いビルの屋上にほそく並びゐし黒点がふいにばらばらと浮く

/岡部かずみ P112

ビルの屋上に並んでいたのはおそらく鴉だったのだろうと思いますが、鴉という言葉を出さずに描写しきったところがみどころでもあります。「ばらばらと浮く」という結句も、非常に無機質な感じで、まるで黒いかたまりがゲシュタルト崩壊していくような不気味ささえ感じます。

 

いまごろは羊になりてゐないかと鍵をおとししひとを思ふも

/千村久仁子 P135

上句が得も言われぬ不思議な感覚です。「鍵」というのがポイントで、鍵というたいせつなものを落とすことによって、まるで異次元の鍵をあけてしまうかのよう。

 

吸っていた蜜の名前をおしえあう ツツジサルビア 会えてよかった

/小松岬 P151

花の蜜を吸うという行為は、どこか少女性を帯びて、しかも密やかな雰囲気があります。自分がかつて吸っていた蜜の名前を相手に告げることは、相手に心を許しているということの証左なのでしょう。「サルビア」と「会えて」の音のつらなりもかろやかで、一首の世界観にマッチしています。

 

 

塔5月号より

冬をしまふ器のあらば幾たびも数ふる夕べ雪となりたり

/溝川清久 p17

「冬をしまふ器」とは不思議な表現です。冬の日の翳りを抱え込むような、深い器などを思い浮かべます。そんな器があるならばその器を何度も数えるのだといって、静謐な雰囲気があります。そうして、降りだす雪。主体の心と雪に因果関係はないけれど、どこかで呼応しあっているようにも思われます。

 

声はつねに過去からの声 風の日のあなたが水仙を撮っている

/大森静佳 P64

声とは、声にする人がいてはじめて存在するもの。その意味で、耳に届くとき声はつねに過去からのものであるといえるのかもしれません。
風の日にひとり水仙を撮っているひとは、このとききっと声を発してはいない。上句で声について言い触れながら、対照的に下句の光景の無音が印象的です。風の音のほかに聞こえない景色のなかで、主体はいま目の前にいるその人の声を、心に呼び起こしているように思われます。

 

桟橋より見る雨の乗馬クラブには帽子のごとくしずかなる馬

/白水ま衣 p65

映画のワンシーンのようなうつくしい光景です。「帽子のごとく」という比喩が詩的で、目に映るもののしずけさを効果的に物語っています。「帽子のごとく」という言葉が選ばれたことにより、馬のみえるその光景が、一読忘れがたい抒情を帯びるようです。

 

背を向けて無口な庭師のやうに立つもういく日も陽ざしは薄い

/澄田広枝 p71

具体的な状況はわからないけれど、だれかとの関係性のことをいっているのでしょう。「無口な庭師のやうに」が印象的な比喩で、その姿は心象のようでもあります。また、下句にもかすかな翳りが感じられ、主体のなかになにかしらの屈折した思いがあることを感じさせます。

 

レシートに「リード楽器」と印字されどこかとほくで擦れあふ葉先

/岡部かずみ p82

レシートに印字された言葉から意識がどこか遠くの葉擦れに飛ぶ、といううつくしさ。 「レシートに」「リード楽器」というラ行の音、「印字され」「擦れ」とレの音が重ねられることにより、一首に透明感がうまれているように思います。

 

ああきっと雲をちぎれば一輪のラナンキュラスと等しい重さ

/小松岬 p93

ラナンキュラス一輪の重みと、ちぎった雲の重みを比較する発想がユニークでありながら、「ああきっと」という初句には雲という手に届かない存在への希求があるようにも感じられ、かすかにせつなくもあります。ラナンキュラス一輪の重みとは、はたして重いのか、重くないのか。重くないものの、手のなかに忘れがたく残る重みのようなものを感じます。

 

時かけて空を降り来る雪だから何か思ひ出せさうで見てゐる

/髙野岬 p112

とてもとても軽い、舞うような雪を思い浮かべます。空から落ちてくるまでの雪の時間、その時間はけして短いものではないのだと思っているのでしょう。その時間は、主体がこれまで生きてきた時間の一部が組みこまれているような、はるかな時間を内包するようなイメージです。

 

他動詞のぬらすといふことゆびさきは椿の雪をそうつとはらふ

/千村久仁子 p128

何かをぬらさずにはおかない雪というものに思いをはせ、「ぬらす」という動詞が他動詞であることに言い触れて、なにかをそのままにはしておかない、行為が不可避的におよんでしまうことのかなしさに対する思いがしずかに伝わってきます。

 

鹿のつのに触れてゐたのはそれぞれに隠しごとをもちよつたひとたち

/小田桐夕 p131

隠しごとというのは、なにか悪巧みのようなものではなく、口に出すことなく抱えているもののことなのではないかと思います。だれにも言えない苦しさを持ち寄って、ただ、鹿の角に触れている複数のひと。どこか不思議で、どこか濃密な空気が漂っています。

 

組んだ手に額を載せてひつたりと鰐のくつろぎ、十一匹の鰐

/松原あけみ p139

組んだ手に額を載せるみずからの姿を、鰐であると見立てているのだと思います。どうして十一匹なのかという部分は読み切れませんでしたが、鰐ののっそりした動きを思うからでしょうか、ゆるやかな時間さえ感じられるようです。

 

降りつづく冷たきものが青銅の肌に積もりて「考える人」

/山川仁帆 p169

西洋美術館の前庭の「考える人」の像を思い浮かべます。雨、あるいは雪が降りつづき、ブロンズの肌の上を濡らしてゆく。その光景を描写しているのみでありながら、描写に徹することにより、その光景がなにかを啓示しているようでもあり、読後に余韻がうまれています。

 

 

松村正直歌集『風のおとうと』

今日は松村正直さんの第四歌集『風のおとうと』を読む会に参加します。

いま、わたしのなかにあるものをここにまとめておきます。

読む会でみなさまの読みに出会えること、そしてそれによってこの歌集への思いをさらに深められるであろうことを楽しみにしています。

 

踏み入ること、踏み入らぬこと

投げ入れる人間あれば見えねども空井戸の底に石は増えゆく

よってたかってみなでこわしておきながら春のひかりがまぶしいと言う

向きをかえて五条通りを西へゆく誰もあなたを見なかったのか

この歌集を読み進めていくなかで印象的だったのは、意外にも象徴性を帯びた詠みぶりが多いということであり、そこには作者自身の琴線そのもののような切実さが滲んでいます。このような詠みぶりを選択することにより、表現することのむずかしい部分にあえて挑んでいるような印象を受けます。

一首目、二首目にみえてくるのは、無自覚のうちになにかを傷つけていくものへの静かな憤り。ものごとを意識的にフラットに、色づけをせずにみようとする主体にとって、そこに無自覚であるということはそれ自体暴力性を帯びてみえるのでしょう。そしてその感情は、三首目のように作為に対してだけでなく、無作為に対しても向けられ、気づかないこと、見過ごしてしまうことに対する痛切な叫びのように響きます。

 

語られることの真実性

烏瓜の揺れしずかなり死ののちに語られることはみな物語

本当か嘘かはひとが決めること紙にインクはあおくにじんで

一首目、人は誰かの真実を語ることなどできはしない、真実はそのひとのなかにのみあるのだと。烏瓜のしずかな揺れを見つめつつそう思いいたる主体のなかにあるのは、人と人とが完全にはわかりあうことのないことへの一抹のさびしさ、でしょうか。

二首目は、一見すると一首目の感慨とは相反するようにも思われます。けれど、人の語ることがたとえ自分の真実でなかったとしても、この世界に生きて生かされていく以上、甘んじてそれをそのままに受容するのだという、主体の諦念にも覚悟にも似た思いがそこにはあるようにも思われるのです。

 

人との、ものとの距離のとり方

もっとも愛した者がもっとも裏切るとおもう食事を終える間際に

その先は入ってならぬところにて見えない線の上にたたずむ

感情に任せてひとを傷つける、あるいは遠い夏の海鳴り

彎曲するプラットホームの先に立つ横顔ふいに見えてうつむく

橋をゆく人には橋の見えざるを河原に立ちて見上げていたり

一首目、人に深入りするということは、深く傷つくことであるという思い、人にかかわる、ということはそれだけの覚悟がなければならないのだという思いが滲みます。一方、二首目、三首目、自分が傷つくことと同様に、あるいはそれ以上に、人を傷つけてしまうことに対して敏感である主体。ひとを傷つけることにまつわる記憶は、遠い夏の海鳴りのように、折々主体のなかに去来するものなのでしょう。

四首目、「彎曲する」という描写がとてもよく、うつくしく景のたつ一首であり、また、そのプラットホームの先に立つ誰かと主体のその距離感は、歌集を通じてみえてくる主体の他人との距離のとり方を象徴するようです。

五首目、橋をゆく人のまなざしにみずからのまなざしを重ね、橋をゆく人の目には渡ってゆく橋の姿はみえないのだということに思いを馳せながら、すこし離れたところから橋と人を見ている。橋が見えないまま橋をゆく人とは、ときに主体自身であるという思いもあるのかもしれません。

 

馴染まないものを、馴染まないままに

風景にやがてなじんでゆくまでを永遠にガラス張りの市庁舎

傘を持たぬ若者ひとり流れより遅れつつすすむ橋の時間を

鉄橋を渡れば見えてくる町の偶然だけがいつも正しい

一首目、まわりの風景にどこかしっくりとはまらないままの、ガラス張りの市庁舎は、けれどみずからの姿を変えることはできない。そのまま、あるがままにみずからがなじんでゆくまでをじっと待つばかり。それはこの世の中にどこか違和を感じつつ、それでもあるがままのみずからを保って生きてゆく主体のさびしさと響きあうようです。

二首目、橋の時間とはせわしない現実からすこしずれるような、現実とはすこし異なる時間の流れのあり方なのでしょう。そのなかを傘を持たず、流れからすこし遅れてひとり歩いてゆく若者をみるまなざしに、主体の心寄せが感じられます。あるいはこの若者は主体そのものであるようにもみえてきます。

三首目、予期しないことに溢れる生において、「偶然だけがいつも正しい」というのは、前掲の歌の「本当か嘘かはひとが決めること」と同様に、抗わないことにひとつの価値を置く、というあり方そのものにもつながっているように思います。

 

言葉によって把握する世界

人形をあきなう店が地下にあると知りてよりここに階段がある

しばらくは動かずにいる地下鉄があなたを通り抜けてゆくまで

午前中に仕事終えたる豆腐屋が水とひかりを片付けており

夏の午後を眺めておれば永遠にねじれの位置にある橋と川 

一首目、それまではかかわりもなく、気に留めることもなく、素通りしていた地下への階段。人形を商うその店があると知ったそのときから、その階段はささやかなりともなんらかの意味と色をもって主体の生にかかわってくるようになります。現実に「ある」ということと、自分にとって「ある」ということの違いへの気づきがそこにはあります。

二首目は、地下鉄であなたの住む街を通過する場面でしょうか。あなたというひとの存在は、あなたを思う主体にとってはその街の存在そのものと重なって、そこを地下鉄で通りすぎるとき、まるであなたを通り抜けてゆくような気持ちになる、ということなのでしょう。

三首目は「水とひかり」という把握がうつくしく、四首目の「ねじれの位置」という把握には、深い洞察眼と、永遠に変わらぬ関係へのそこはかとない哀しみが漂います。

 

 

齋藤史歌集『ひたくれなゐ』より

ひきつづき、齋藤史歌集『ひたくれなゐ』の五首選を。

『ひたくれなゐ』は史67歳の刊行。『魚歌』より36年を経ています。

 

テーブルの均衡を信じ居らざればグラスの水の夜をきらめく 

水がきらめくのは水がかすかに揺れたからなのでしょうか。平行なテーブルの上では揺れることはない、はず…。けれどみめぐりには、そうであろうと思い込んでいることのいかに多いことでしょう。きらめく水は、テーブルの均衡を信じない、常識と思われていることを鵜呑みにしない、という作者に呼応するかのようです。

 

どこに置きても位置のふさはぬ壺ひとつ水なみなみと充たす日の暮 

どこに置いてもしっくりとこないその壺には、作者自身の姿が投影されています。どこにいても心の底からやすらぐことのない生きづらさ。それは拭い去ることのできない重く暗い過去の記憶からけして心解き放たれることのない生きづらさでもあるのでしょう。けれど、だからこそ、壺になみなみと水を充たす、そこにみずからの生に対する矜持がみえます。

 

花らんぷ我家にありしことなきに 若かりし母が日ごとともしき

存在しない花ランプを、母がともしてくれたという、つじつまの合わない内容でありながら、懐かしくせつなく、なんとも言えない感情を呼びおこされます。「花らんぷ」という表記も独特の雰囲気を醸しだしています。

理の通った歌が多くみられるこの歌集のなかで、『魚歌』の前半を思わせる、不思議な雰囲気と魅力のある一首です。

 

山繭のみどりの色の褪せ易き知りてより少年は蒐めむとしき

(蒐:あつ)

山繭の、うつくしいみどりの色それ自体ではなく、その色が褪せ易いものである、というところに魅了される少年。その〈色の褪せ易さ〉は、多感で傷つきやすい〈少年〉という存在そのものと呼応し、はかなく、うつくしいものとして互いに響きあっています。

そしてその背後には、そのような少年の嗜好を甘やかにせつなくみつめる作者まなざしもおのずと色濃くみえてきます。

 

ねむりの中にひとすぢあをきかなしみの水脈ありそこに降る夜のゆき

(水脈:みを)

ねむりの中のうすやみにぽうっと浮かびあがるその水脈は、心の底にいつも抱き続けているかなしみなのでしょう。そこにしずかに降りつづく雪は、遠い記憶を呼びおこしつつ、かなしみをそのきよらかさのうちに浄化し癒すもののようでもあり、よりひえびえと深めていくもののようでもあります。平仮名の多いやわらかな表記も歳月を経たかなしみの有りようをあらわすかのようです。

あるいは、二・二六事件に結びつける解釈を避けるならばこのかなしみは、人が生まれながらに抱かずにはいられない生のかなしみ、未分化のかなしみ、ともいえるのかもしれません。

 

 

齋藤史歌集『魚歌』より

過日、齋藤史歌集『魚歌』を読む会をしました。

齋藤史の歌への言葉にはしづらいさまざまな思いはありつつ、

備忘録として、会のために用意した私の五首選を。

ちなみにこのときは不識書院の『齋藤史歌集』を読んでおり、そこからは随分多くの歌が抜けていることにあとで気づきました。

これから完本を読んでみたいと思っています。

 

アクロバティクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き

「アクロバティクの踊り子」というモダンでうつくしいモチーフ、「白い蛭になる夢」という不思議さ、それらがあいまって一首全体が白昼夢のような白色のイメージに包まれています。

夢とは、水の中でみる幻覚でしょうか、それとも踊り子の心にきざす願望でしょうか。一首にはうつくしさのなかにそこはかとない痛みをともなう翳りがあります。

ちなみに、「白」という色は『魚歌』のなか、とりわけその前半おいて頻繁に用いられ、その翳りを内包したような明るさが印象的です。

 

夜毎に月きらびやかにありしかば唄をうたひてやがて忘れぬ

(夜毎:よるごと)

連作「スケルツオ」のなかの一首。

うつくしい月、その月に照らされながら華やぐひととき、ロマンティックな雰囲気を感じつつ、初句から四句までをすうっと読んできて、結句の展開に息をのみます。「やがて忘れぬ」には、「忘れゆく」などとは異なり、言い切るような、思いを断ち切るような強い響きがあります。そしてそこに、「やがて忘れぬ」と言いながら、けして忘れることのない作者の悲傷をみる思いがしています。

 

定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花

こちらも連作「スケルツオ」より。

父・劉の赴任にともない各地を転々とした作者であるゆえの「定住の家をもたねば」であり、戦争へと傾いていく時代の不穏を根底に感じながらのそれでもあるのでしょう。けれど、それだけにとどまらず、私は(あるいは、私の精神は)何ものにも縛られることはない、という作者の若々しくも高らかな宣言であるようにも思われます。

「シシリイの薔薇やマジョルカの花」は具体的なものではなく、憧れや華やかさというイメージを読者に手渡してくれます。そしてそれが華やかであればあるほど、どこか危うさをはらんだもののようにも思われます。

「スケルツオ」は昭和10年、二・二六事件の前年の作品。忘れがたい連作です。

 

たふれたるけものの骨の朽ちる夜も呼吸づまるばかり花散りつづく

(呼吸:いき) 

朽ちてゆくけものの骨は想像のなかに見えているのでしょう。二・二六事件への思いをかさねみてしまう一首です。

どれだけ時を費やしてもけして忘れることのできない記憶のうえに、しらじらと桜のはなびらが降り積もってゆく。そこには胸苦しくなるほどの静謐な時間が流れています。

 

いつぱいの温きお茶に銭を置き雨の巷に出でてゆくべき

(温:あたたか) 

喫茶店で一杯のお茶を飲み終わり、さあ街に出ていこうという場面です。

ここで喫茶店というあたたかく居心地のよい場所と雨の降る街とは、一枚の壁を隔てて内と外の関係にあります。結句の「べき」が意志的で、外ではどんなことが待ち受けているかわからないけれど、主体はあたたかなものに満たされて、たしかな意志をもち、たしかな足取りで踏み出していく、一首にはそういう強さと明るさがあります。 

 

 

塔12月号より

幾万のねむりは我を過ぎゆきて いま過ぎたのは白舟のよう

吉川宏志「塔」2017年12月号 

すうっと誘われるように午睡していたのでしょうか。あるいは一瞬意識が遠のくほどの眠気だったのかもしれません。それを自分を過っていく白舟に喩えてとてもうつくしい。そして上句の幾万のねむりという表現も、みずからの過去のみならず生命の悠久の歴史にまでイメージが広がるような、そんなふくらみをもっています。

 

生活の細部が灯る 玄関に一筋のぼる蚊遣りの煙に

/永田淳「塔」2017年12月号

蚊遣りの煙がうっすらとくゆる光景は、ささやかながらそれ自体が生活というものの温もりや貴さの象徴のようです。 「灯る」のは、場面でありながらほっと心が緩む感覚を呼びおこされた主体の心情でもあるのでしょう。言葉を尽くすよりこの歌のやわらかさをそのまま受けとりたい一首です。

 

いつのまに鉄橋がほどかれてゆく雨ねむりつつ聞いてゐるあめ

/河野美砂子「塔」2017年12月号

上句は夢のなかの光景でしょうか、とても不思議で幻想的です。そしてこれは雨を形容しています。しずかでやわらかい雨を想像します。また、下句の雨とあめのリフレインがこの雨の雰囲気を醸しだします。下句を何度も唱えるうちに、ほどかれてゆく鉄橋とみずからが同化してゆくような、すべてがほどかれてゆくような、不思議な感覚へとみちびかれる一首です。 

 

消えかかる刹那の花火の白き骨また次の骨 いつかわが骨

/北神照美「塔」2017年12月号 

しろめく花火が夜空に散っていくのを花火の骨ととらえてはっとします。そしてその骨をみつめているうちに、夜空と主体の身体が一体化していくような感覚へといざなわれていき、花火の骨は、一字あけの空白ののち、わが骨となります。

花火のうつくしさ、儚さをみつめながら、本能的に命にまで思いが及んでしまったような切なさがあります。

 

絵のなかのをみなの踊りさびしさを躱しゐるやう百年ずっと

/千村久仁子「塔」2017年12月号

「さびしさを躱しゐるやう」に心を掴まれました。絵のなかの女性を詠いながら、それをじっとみつめている主体のさびしさにまで読者の思いが及ぶところにしみじみと惹かれます。

 

あのひとの失くした部分にちょうどいいオシロイバナのたねをください

/小川ちとせ「塔」2017年12月号

傷ついたひとを癒すために、自分にはなすすべのないことを知っている主体はただじっと、相手をみまもっているのでしょう。平仮名にひらかれた柔らかさのなかに、心情をそのままのせていくような口語体の文体がせつなく心に残ります。祈るようにオシロイバナの種を乞う主体は、オシロイバナの、ささやかでありながら生命力にあふれるそんな力をそのひとに注ぎ込みたいと願うのかもしれません。

 

短編をひとつ読み終え吐く息の、ここへ帰ってくるための息

/川上まなみ「塔」2017年12月号 

短編を読んでいるとき、それも夢中になって読んでいるときというのは、自分がその世界に入りこんでここではないどこかに飛んでしまう。そして一気に読み終えふーっと息をつき、はじめてわれに返る。その息を、ここに帰ってくるための息なのだと、浮遊していた自分をこの世界にとりもどすための息なのだととらえて魅力的です。

 

金魚だけが大きくなっていくような静かな夜がおりて来ている

/矢澤麻子「塔」2017年12月号

夜が深まっていくと、人の気配や物音が途絶え、反対に、部屋のなかにあるそのほかのものが存在感を増してくる、そんな感覚を金魚に焦点をあてて巧みにとらえています。

 

思ふより風はとほくへ吹き抜けて川には川の性別がある

/石松佳「塔」2017年12月号

こんな風に意識したことはなかったけれど、ああ、ほんとうにそうだなあ…。

そういえばフランス語ではそれぞれの川によって女性名詞であったり男性名詞であったりしますよね。それは大西洋に流れ込むか、地中海に流れ込むかにより区別されているようですが、ここではそういう決まりのことを言っているのではない。風の通りかたや、暮れていきかたなど、その川が醸しだす雰囲気のことをいっているのでしょう。

上の句もとてもうつくしく、まるでその川に吹く風を読者みずからの肌で感じるようなみずみずしい実感があります。

 

笑ひごゑつるぼの花をそよがせて風となく虫となく揺れてゐる

/福田恭子「塔」2017年12月号

ゆったりとした韻律、一首にかかる言葉の負荷はきわめて少なく、それがここに描きだされる情景と響きあっています。主体はその笑い声からは隔たったところにいるような気がします。どこまでもやさしい言葉が選びとられながら、一首に言いしれぬさびしさが漂っています。

 

水準器の中を気泡は昇りつつ君が説きたる文学の価値

/永山凌平「塔」2017年12月号

君が説く文学の価値を聞きながら、いま目の前にある水準器が導く平行のようにはひとつの答えが出るものではないその価値について、深く思いをいたす主体なのでしょう。君の語る内容には触れられていませんが、水準器との取り合わせの妙により、巧みにそれを描きだしてひろがりがあります。

 

繭のなかにうもれるやうな夜のことあるとしりつつ触れないでゐる

/小田桐夕「塔」2017年12月号

「うもれる」という語彙が「こもる」などとも異なるニュアンスをもち、そういう夜を過ごすひとの得もいわれぬ胸苦しさを伝えます。主体はそういう夜があることを知りつつ、あえてそのことに触れないという選択をしています。主体にとっては、触れないことが相手を尊ぶことであり、そのことによりもしかしたら主体は相手を想うがゆえの苦しさにうもれることになるのかもしれません。