欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

松村正直歌集『風のおとうと』

今日は松村正直さんの第四歌集『風のおとうと』を読む会に参加します。

いま、わたしのなかにあるものをここにまとめておきます。

読む会でみなさまの読みに出会えること、そしてそれによってこの歌集への思いをさらに深められるであろうことを楽しみにしています。

 

踏み入ること、踏み入らぬこと

投げ入れる人間あれば見えねども空井戸の底に石は増えゆく

よってたかってみなでこわしておきながら春のひかりがまぶしいと言う

向きをかえて五条通りを西へゆく誰もあなたを見なかったのか

この歌集を読み進めていくなかで印象的だったのは、意外にも象徴性を帯びた詠みぶりが多いということであり、そこには作者自身の琴線そのもののような切実さが滲んでいます。このような詠みぶりを選択することにより、表現することのむずかしい部分にあえて挑んでいるような印象を受けます。

一首目、二首目にみえてくるのは、無自覚のうちになにかを傷つけていくものへの静かな憤り。ものごとを意識的にフラットに、色づけをせずにみようとする主体にとって、そこに無自覚であるということはそれ自体暴力性を帯びてみえるのでしょう。そしてその感情は、三首目のように作為に対してだけでなく、無作為に対しても向けられ、気づかないこと、見過ごしてしまうことに対する痛切な叫びのように響きます。

 

語られることの真実性

烏瓜の揺れしずかなり死ののちに語られることはみな物語

本当か嘘かはひとが決めること紙にインクはあおくにじんで

一首目、人は誰かの真実を語ることなどできはしない、真実はそのひとのなかにのみあるのだと。烏瓜のしずかな揺れを見つめつつそう思いいたる主体のなかにあるのは、人と人とが完全にはわかりあうことのないことへの一抹のさびしさ、でしょうか。

二首目は、一見すると一首目の感慨とは相反するようにも思われます。けれど、人の語ることがたとえ自分の真実でなかったとしても、この世界に生きて生かされていく以上、甘んじてそれをそのままに受容するのだという、主体の諦念にも覚悟にも似た思いがそこにはあるようにも思われるのです。

 

人との、ものとの距離のとり方

もっとも愛した者がもっとも裏切るとおもう食事を終える間際に

その先は入ってならぬところにて見えない線の上にたたずむ

感情に任せてひとを傷つける、あるいは遠い夏の海鳴り

彎曲するプラットホームの先に立つ横顔ふいに見えてうつむく

橋をゆく人には橋の見えざるを河原に立ちて見上げていたり

一首目、人に深入りするということは、深く傷つくことであるという思い、人にかかわる、ということはそれだけの覚悟がなければならないのだという思いが滲みます。一方、二首目、三首目、自分が傷つくことと同様に、あるいはそれ以上に、人を傷つけてしまうことに対して敏感である主体。ひとを傷つけることにまつわる記憶は、遠い夏の海鳴りのように、折々主体のなかに去来するものなのでしょう。

四首目、「彎曲する」という描写がとてもよく、うつくしく景のたつ一首であり、また、そのプラットホームの先に立つ誰かと主体のその距離感は、歌集を通じてみえてくる主体の他人との距離のとり方を象徴するようです。

五首目、橋をゆく人のまなざしにみずからのまなざしを重ね、橋をゆく人の目には渡ってゆく橋の姿はみえないのだということに思いを馳せながら、すこし離れたところから橋と人を見ている。橋が見えないまま橋をゆく人とは、ときに主体自身であるという思いもあるのかもしれません。

 

馴染まないものを、馴染まないままに

風景にやがてなじんでゆくまでを永遠にガラス張りの市庁舎

傘を持たぬ若者ひとり流れより遅れつつすすむ橋の時間を

鉄橋を渡れば見えてくる町の偶然だけがいつも正しい

一首目、まわりの風景にどこかしっくりとはまらないままの、ガラス張りの市庁舎は、けれどみずからの姿を変えることはできない。そのまま、あるがままにみずからがなじんでゆくまでをじっと待つばかり。それはこの世の中にどこか違和を感じつつ、それでもあるがままのみずからを保って生きてゆく主体のさびしさと響きあうようです。

二首目、橋の時間とはせわしない現実からすこしずれるような、現実とはすこし異なる時間の流れのあり方なのでしょう。そのなかを傘を持たず、流れからすこし遅れてひとり歩いてゆく若者をみるまなざしに、主体の心寄せが感じられます。あるいはこの若者は主体そのものであるようにもみえてきます。

三首目、予期しないことに溢れる生において、「偶然だけがいつも正しい」というのは、前掲の歌の「本当か嘘かはひとが決めること」と同様に、抗わないことにひとつの価値を置く、というあり方そのものにもつながっているように思います。

 

言葉によって把握する世界

人形をあきなう店が地下にあると知りてよりここに階段がある

しばらくは動かずにいる地下鉄があなたを通り抜けてゆくまで

午前中に仕事終えたる豆腐屋が水とひかりを片付けており

夏の午後を眺めておれば永遠にねじれの位置にある橋と川 

一首目、それまではかかわりもなく、気に留めることもなく、素通りしていた地下への階段。人形を商うその店があると知ったそのときから、その階段はささやかなりともなんらかの意味と色をもって主体の生にかかわってくるようになります。現実に「ある」ということと、自分にとって「ある」ということの違いへの気づきがそこにはあります。

二首目は、地下鉄であなたの住む街を通過する場面でしょうか。あなたというひとの存在は、あなたを思う主体にとってはその街の存在そのものと重なって、そこを地下鉄で通りすぎるとき、まるであなたを通り抜けてゆくような気持ちになる、ということなのでしょう。

三首目は「水とひかり」という把握がうつくしく、四首目の「ねじれの位置」という把握には、深い洞察眼と、永遠に変わらぬ関係へのそこはかとない哀しみが漂います。

 

 

齋藤史歌集『ひたくれなゐ』より

ひきつづき、齋藤史歌集『ひたくれなゐ』の五首選を。

『ひたくれなゐ』は史67歳の刊行。『魚歌』より36年を経ています。

 

テーブルの均衡を信じ居らざればグラスの水の夜をきらめく 

水がきらめくのは水がかすかに揺れたからなのでしょうか。平行なテーブルの上では揺れることはない、はず…。けれどみめぐりには、そうであろうと思い込んでいることのいかに多いことでしょう。きらめく水は、テーブルの均衡を信じない、常識と思われていることを鵜呑みにしない、という作者に呼応するかのようです。

 

どこに置きても位置のふさはぬ壺ひとつ水なみなみと充たす日の暮 

どこに置いてもしっくりとこないその壺には、作者自身の姿が投影されています。どこにいても心の底からやすらぐことのない生きづらさ。それは拭い去ることのできない重く暗い過去の記憶からけして心解き放たれることのない生きづらさでもあるのでしょう。けれど、だからこそ、壺になみなみと水を充たす、そこにみずからの生に対する矜持がみえます。

 

花らんぷ我家にありしことなきに 若かりし母が日ごとともしき

存在しない花ランプを、母がともしてくれたという、つじつまの合わない内容でありながら、懐かしくせつなく、なんとも言えない感情を呼びおこされます。「花らんぷ」という表記も独特の雰囲気を醸しだしています。

理の通った歌が多くみられるこの歌集のなかで、『魚歌』の前半を思わせる、不思議な雰囲気と魅力のある一首です。

 

山繭のみどりの色の褪せ易き知りてより少年は蒐めむとしき

(蒐:あつ)

山繭の、うつくしいみどりの色それ自体ではなく、その色が褪せ易いものである、というところに魅了される少年。その〈色の褪せ易さ〉は、多感で傷つきやすい〈少年〉という存在そのものと呼応し、はかなく、うつくしいものとして互いに響きあっています。

そしてその背後には、そのような少年の嗜好を甘やかにせつなくみつめる作者まなざしもおのずと色濃くみえてきます。

 

ねむりの中にひとすぢあをきかなしみの水脈ありそこに降る夜のゆき

(水脈:みを)

ねむりの中のうすやみにぽうっと浮かびあがるその水脈は、心の底にいつも抱き続けているかなしみなのでしょう。そこにしずかに降りつづく雪は、遠い記憶を呼びおこしつつ、かなしみをそのきよらかさのうちに浄化し癒すもののようでもあり、よりひえびえと深めていくもののようでもあります。平仮名の多いやわらかな表記も歳月を経たかなしみの有りようをあらわすかのようです。

あるいは、二・二六事件に結びつける解釈を避けるならばこのかなしみは、人が生まれながらに抱かずにはいられない生のかなしみ、未分化のかなしみ、ともいえるのかもしれません。

 

 

齋藤史歌集『魚歌』より

過日、齋藤史歌集『魚歌』を読む会をしました。

齋藤史の歌への言葉にはしづらいさまざまな思いはありつつ、

備忘録として、会のために用意した私の五首選を。

ちなみにこのときは不識書院の『齋藤史歌集』を読んでおり、そこからは随分多くの歌が抜けていることにあとで気づきました。

これから完本を読んでみたいと思っています。

 

アクロバティクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き

「アクロバティクの踊り子」というモダンでうつくしいモチーフ、「白い蛭になる夢」という不思議さ、それらがあいまって一首全体が白昼夢のような白色のイメージに包まれています。

夢とは、水の中でみる幻覚でしょうか、それとも踊り子の心にきざす願望でしょうか。一首にはうつくしさのなかにそこはかとない痛みをともなう翳りがあります。

ちなみに、「白」という色は『魚歌』のなか、とりわけその前半おいて頻繁に用いられ、その翳りを内包したような明るさが印象的です。

 

夜毎に月きらびやかにありしかば唄をうたひてやがて忘れぬ

(夜毎:よるごと)

連作「スケルツオ」のなかの一首。

うつくしい月、その月に照らされながら華やぐひととき、ロマンティックな雰囲気を感じつつ、初句から四句までをすうっと読んできて、結句の展開に息をのみます。「やがて忘れぬ」には、「忘れゆく」などとは異なり、言い切るような、思いを断ち切るような強い響きがあります。そしてそこに、「やがて忘れぬ」と言いながら、けして忘れることのない作者の悲傷をみる思いがしています。

 

定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花

こちらも連作「スケルツオ」より。

父・劉の赴任にともない各地を転々とした作者であるゆえの「定住の家をもたねば」であり、戦争へと傾いていく時代の不穏を根底に感じながらのそれでもあるのでしょう。けれど、それだけにとどまらず、私は(あるいは、私の精神は)何ものにも縛られることはない、という作者の若々しくも高らかな宣言であるようにも思われます。

「シシリイの薔薇やマジョルカの花」は具体的なものではなく、憧れや華やかさというイメージを読者に手渡してくれます。そしてそれが華やかであればあるほど、どこか危うさをはらんだもののようにも思われます。

「スケルツオ」は昭和10年、二・二六事件の前年の作品。忘れがたい連作です。

 

たふれたるけものの骨の朽ちる夜も呼吸づまるばかり花散りつづく

(呼吸:いき) 

朽ちてゆくけものの骨は想像のなかに見えているのでしょう。二・二六事件への思いをかさねみてしまう一首です。

どれだけ時を費やしてもけして忘れることのできない記憶のうえに、しらじらと桜のはなびらが降り積もってゆく。そこには胸苦しくなるほどの静謐な時間が流れています。

 

いつぱいの温きお茶に銭を置き雨の巷に出でてゆくべき

(温:あたたか) 

喫茶店で一杯のお茶を飲み終わり、さあ街に出ていこうという場面です。

ここで喫茶店というあたたかく居心地のよい場所と雨の降る街とは、一枚の壁を隔てて内と外の関係にあります。結句の「べき」が意志的で、外ではどんなことが待ち受けているかわからないけれど、主体はあたたかなものに満たされて、たしかな意志をもち、たしかな足取りで踏み出していく、一首にはそういう強さと明るさがあります。 

 

 

塔12月号より

幾万のねむりは我を過ぎゆきて いま過ぎたのは白舟のよう

吉川宏志「塔」2017年12月号 

すうっと誘われるように午睡していたのでしょうか。あるいは一瞬意識が遠のくほどの眠気だったのかもしれません。それを自分を過っていく白舟に喩えてとてもうつくしい。そして上句の幾万のねむりという表現も、みずからの過去のみならず生命の悠久の歴史にまでイメージが広がるような、そんなふくらみをもっています。

 

生活の細部が灯る 玄関に一筋のぼる蚊遣りの煙に

/永田淳「塔」2017年12月号

蚊遣りの煙がうっすらとくゆる光景は、ささやかながらそれ自体が生活というものの温もりや貴さの象徴のようです。 「灯る」のは、場面でありながらほっと心が緩む感覚を呼びおこされた主体の心情でもあるのでしょう。言葉を尽くすよりこの歌のやわらかさをそのまま受けとりたい一首です。

 

いつのまに鉄橋がほどかれてゆく雨ねむりつつ聞いてゐるあめ

/河野美砂子「塔」2017年12月号

上句は夢のなかの光景でしょうか、とても不思議で幻想的です。そしてこれは雨を形容しています。しずかでやわらかい雨を想像します。また、下句の雨とあめのリフレインがこの雨の雰囲気を醸しだします。下句を何度も唱えるうちに、ほどかれてゆく鉄橋とみずからが同化してゆくような、すべてがほどかれてゆくような、不思議な感覚へとみちびかれる一首です。 

 

消えかかる刹那の花火の白き骨また次の骨 いつかわが骨

/北神照美「塔」2017年12月号 

しろめく花火が夜空に散っていくのを花火の骨ととらえてはっとします。そしてその骨をみつめているうちに、夜空と主体の身体が一体化していくような感覚へといざなわれていき、花火の骨は、一字あけの空白ののち、わが骨となります。

花火のうつくしさ、儚さをみつめながら、本能的に命にまで思いが及んでしまったような切なさがあります。

 

絵のなかのをみなの踊りさびしさを躱しゐるやう百年ずっと

/千村久仁子「塔」2017年12月号

「さびしさを躱しゐるやう」に心を掴まれました。絵のなかの女性を詠いながら、それをじっとみつめている主体のさびしさにまで読者の思いが及ぶところにしみじみと惹かれます。

 

あのひとの失くした部分にちょうどいいオシロイバナのたねをください

/小川ちとせ「塔」2017年12月号

傷ついたひとを癒すために、自分にはなすすべのないことを知っている主体はただじっと、相手をみまもっているのでしょう。平仮名にひらかれた柔らかさのなかに、心情をそのままのせていくような口語体の文体がせつなく心に残ります。祈るようにオシロイバナの種を乞う主体は、オシロイバナの、ささやかでありながら生命力にあふれるそんな力をそのひとに注ぎ込みたいと願うのかもしれません。

 

短編をひとつ読み終え吐く息の、ここへ帰ってくるための息

/川上まなみ「塔」2017年12月号 

短編を読んでいるとき、それも夢中になって読んでいるときというのは、自分がその世界に入りこんでここではないどこかに飛んでしまう。そして一気に読み終えふーっと息をつき、はじめてわれに返る。その息を、ここに帰ってくるための息なのだと、浮遊していた自分をこの世界にとりもどすための息なのだととらえて魅力的です。

 

金魚だけが大きくなっていくような静かな夜がおりて来ている

/矢澤麻子「塔」2017年12月号

夜が深まっていくと、人の気配や物音が途絶え、反対に、部屋のなかにあるそのほかのものが存在感を増してくる、そんな感覚を金魚に焦点をあてて巧みにとらえています。

 

思ふより風はとほくへ吹き抜けて川には川の性別がある

/石松佳「塔」2017年12月号

こんな風に意識したことはなかったけれど、ああ、ほんとうにそうだなあ…。

そういえばフランス語ではそれぞれの川によって女性名詞であったり男性名詞であったりしますよね。それは大西洋に流れ込むか、地中海に流れ込むかにより区別されているようですが、ここではそういう決まりのことを言っているのではない。風の通りかたや、暮れていきかたなど、その川が醸しだす雰囲気のことをいっているのでしょう。

上の句もとてもうつくしく、まるでその川に吹く風を読者みずからの肌で感じるようなみずみずしい実感があります。

 

笑ひごゑつるぼの花をそよがせて風となく虫となく揺れてゐる

/福田恭子「塔」2017年12月号

ゆったりとした韻律、一首にかかる言葉の負荷はきわめて少なく、それがここに描きだされる情景と響きあっています。主体はその笑い声からは隔たったところにいるような気がします。どこまでもやさしい言葉が選びとられながら、一首に言いしれぬさびしさが漂っています。

 

水準器の中を気泡は昇りつつ君が説きたる文学の価値

/永山凌平「塔」2017年12月号

君が説く文学の価値を聞きながら、いま目の前にある水準器が導く平行のようにはひとつの答えが出るものではないその価値について、深く思いをいたす主体なのでしょう。君の語る内容には触れられていませんが、水準器との取り合わせの妙により、巧みにそれを描きだしてひろがりがあります。

 

繭のなかにうもれるやうな夜のことあるとしりつつ触れないでゐる

/小田桐夕「塔」2017年12月号

「うもれる」という語彙が「こもる」などとも異なるニュアンスをもち、そういう夜を過ごすひとの得もいわれぬ胸苦しさを伝えます。主体はそういう夜があることを知りつつ、あえてそのことに触れないという選択をしています。主体にとっては、触れないことが相手を尊ぶことであり、そのことによりもしかしたら主体は相手を想うがゆえの苦しさにうもれることになるのかもしれません。

 

 

塔11月号より

みづうみをめくりつつゆく漕ぐたびに水のなかより水あらはれて

/梶原さい子「塔」2017年11月号 

手漕ぎボートでゆく湖の、その水に主体のまなざしはあります。オールで漕ぐその動作はたしかに水面をめくるよう。水そのものに肉迫して描写する下句にもリアルな実感があり、水というものの怖ささえ感じます。

 

城門に草笛きかせる人も居り過ぎゆく耳にようやく届く
/山下泉「塔」2017年11月号  

城門を通り過ぎるときに視野のかたすみにその存在をみとめたのでしょう。いま、耳だけでその草笛のかすかな音色を、そして草笛を吹くそのひとを感じています。おだやかなその場所の空気感までもが伝わってきます。

 

夢のような、ときみが言うたび喉元に白さるすべり暗く噴きだす

/大森静佳「塔」2017年11月号

「夢のような」ときみがいうたびに、主体はどうしようもなく胸苦しい、そんな感情をかきたてられる、そのように受けとりました。それは「夢のような」という言葉の、はかなさや届かなさに対する感情でしょうか。下句の喩が難しいながらとても魅力的です。

 

帽子のように遠いひとだとおもうとき脱いではならぬ帽子だ、これは

/白水ま衣「塔」2017年11月号

こちらも喩の魅力的な歌。そして下句の感情の吐露が激しく、切実です。

「帽子のように遠い」というのは、いまは自分とともにあるひとであるけれど、いつかふっと離れていってしまうかもしれない存在、そしていつでも誰かの帽子ともなりうる存在、というほどの意味でしょうか。近くにいながら感じる遠さとは、相手の存在が大きければ大きいほど生まれる感情であると思っています。

 

差してない人と三人すれちがい四人目が来て我はたたみぬ

相原かろ「塔」2017年11月号 

一首の中に傘という語彙は出てこないにもかかわらず、鮮明にその光景が目に浮かぶ、そこに巧さとおもしろさがあります。そしてそのなかに主体の感情のうごきもあざやかに描きだされています。

 

キッチンに食器をあらふまるき背の生きるとはときに獣めきたる(獣:けもの)

/久保茂樹「塔」2017年11月号

食器をあらうその背中は、みられていることを意識していない、無防備な背中でしょう。そして食器を洗うという行為は、日々粛々とおこわれる、生きていくための行為です。それをみつめる主体は、生きることの言いしれぬさびしさのようなものを感じているのでしょう。主体の眼差しにみずからの眼差しを重ねみるとき、食器をあらうその背中がなんともせつなくみえてきます。

 

自画像のための鏡が教室のそこここに陽をはね返しをり

/川田果弧「塔」2017年11月号 

自画像のための鏡、とあるので美術室のような場所を想像します。まだ誰もいないしずかな美術室で、陽のひかりが鏡に乱反射している、ただそれだけ。ただそれだけでありながらこの歌にはなんともいえない雰囲気があります。

 

いはぬこと多きひとならむ まなざしのなかの木洩れ日をそのままに見る

/小田桐夕「塔」2017年11月号

いま目の前にいるそのひとは、寡黙でありながら思慮深さを感じさせるひとなのでしょう。そしてそのひとの眸に映る木洩れ日をじっとみつめる主体は、そのひとが言葉にしない部分までもを感じとりたい、と思っているのでしょう。結句が意志的で、ひたむきです。主体もまた、このひとと似たところがあるのではないかと思っています。

 

かなしいと笑ってしまう人もいるからからからと外れるチェーン

/山名聡美「塔」2017年11月号

第四句のはじめの「から」は理由の「から」のようでありながらチェーンが外れる「からから」という音に傾れこんでいきます。かなしいと笑ってしまう、そのさびしさにからからからというチェーンの空回る音が拍車をかけます。

 

壊れゆくものと暮らしてゆく日々を水をインコにやるように過ごす

/大橋春人「塔」201711月号

考えてみると、私たちのめぐりにあるものは、ものであれ人と人との関係であれ、おしなべて時間のなかで壊れゆく宿命やほころびゆく可能性を負っています。主体はその事実に抗うことができないことも、みずからにできることはインコに水をやるようなほんのささやかなことだけであることも知っています。けれどささやかながら日々を慈しむそうした行為が、一方ではそうした宿命や可能性への抗いになっているのかもしれません。

 

船の上の食堂のやうだ生活は 夏には夏の港を炎やして

/石松佳「塔」2017年11月号 

この歌は、生活を「船の上の食堂」に喩えて目をひきます。船の上の食堂とは、一応は満たされているけれど、どこか心もとなく、どこかもの足りなさを感じる、そんな日々の感触でしょうか。

一転、下句には烈しさがあります。夏の港を炎やすという行為は、みずからの退路を断っていくこと。選んだ道をゆくことはほかにあったはずの可能性を棄ててゆくことであり、そのことへの痛みの感情があるのかもしれません。

そして意味とは別に、映像としてのうつくしさも心に残る一首です。

 

 

塔10月号より

うたた寝のうちにひとつめもう過ぎてふたつめの湖きらきらと在る

/小川ちとせ「塔」2017年10月号 

ゆったりとした韻律、「ひとつめ」「ふたつめ」のリフレイン、平仮名にひらかれたやわらかい文体、それらが相まってうたた寝からさめようとするときのぼんやりとした感じを伝えています。そして柔らかい文体のなかに「在る」というきっぱりとした表記が選ばれていることが、きらきらとした湖の、存在の大きさ、確かさを思わせます。

 

いちめんのれんげの花か白骨か霧晴れわたり露わになるもの

/乙部真実「塔」2017年10月号 

今、れんげ畑を霧が覆い隠しています。この霧が晴れたとき露わになるのはれんげの花か、あるいはもしかしたら白骨の類かもしれないと主体は想像しています。

上句が平仮名にひらかれていることで心象風景としてのれんげ畑であるような気もします。そして今は霧というヴェールに隠されているけれど、つぎにこの野を目の当たりにするときにはなにか残酷なものを目にしなければならないのではないか、といううっすらとした不吉な予感。それは白骨という喩に隠された現代社会のひずみのようなものかもしれません。

 

存在という不在 胸を過るのは盗られずにいるいっぽんの傘

/白水麻衣「塔」2017年10月号

だれかの忘れものの傘、置き去りにされてしかも盗られることもなくそこにあり続ける一本の傘。傘は存在しながら、その存在を無視されるかのようで、そこに作者は存在という不在をみています。「いっぽん」という表記が、ともすると「ぽつん」という言葉を呼びおこし、その存在のさびしさを際立たせます。

もしかすると主体はこの傘に誰かにとっての自分を重ねみているのかもしれません。

 

雨過ぎてあなたのもどりてゆく場所にまた雨が降りわたしはゐない

/澄田広枝「塔」2017年10月号

自分の町に帰りゆくひとと、それに寄り添うように移動してゆく雨。そうしてあなたも雨もわたしのもとを去り、わたしひとりが残されます。

この歌も〈存在と不在〉をつよく意識する一首です。

 

「藪」の字の奥に座つてゐるをみな重さは時に安らぎならむ

/越智ひとみ「塔」2017年10月号

文字のつくりに注目した歌。そして下句に作者独自の感受があり、そこには作者の実感をともなう説得力と共感性があります。

 

夕茜雨後にひろがりおもひのほかちかくにゐたりわたしと鴉

/千村久仁子「塔」2017年10月号

雨後にひろがる夕焼けはほんとうにうつくしいものです。そんな夕焼けに息をのみつかのま立ち尽くすわたしと、そのそばにいる一羽の鴉の姿がくっきりと目に浮かびます。そして「おもひのほか」というさりげない言葉を用いつつ、かすかに兆す孤独感を力みなく表現しています。

 

出会ったり出会わなかったり踏切の遮断機いつも上下に揺れて

/鈴木晴香「塔」2017年10月号

上がっているときも下がっているときも小さく揺れつづけているあの遮断機ほどのささやかなものに左右されながら、わたしたちの、〈誰か〉や〈何か〉との出会いはある、そういう出会い、あるいはすれ違いの繰り返しのなかで生きているわたしたちである、そんなふうに受けとめています。やわらかな文体でありながら心に残る一首です。

 

自画像に白い絵の具を足していくそのうちきっと真っ白な顔

/濱本凜「塔」2017年10月号

白はときとして不穏を呼びおこす色彩です。この自画像に重ねられてゆく白は、本来の自分を消し去ってしまうものとしてとらえられています。

そして主体のなかには、さまざまな場面でさまざまな折り合いをつけていく自分から自分らしさが失われてゆくであろうことへの、言いしれぬ葛藤があるように思われます。

 

手袋をくるつと引つくりかへすやうに私のゐなくなる日も来なむ

/加茂直樹「塔」2017年10月号

手袋をくるっとひっくり返すほどのたやすさで、みずからの存在と不在の分岐点もやってくるのだろう、と。それは生と死のことなのか、あるいは、みずからの携わってきたカンボジアという場所からの退去のことを指しているのか。いずれにしても、みずからの存在、不存在の差異は手袋をひっくり返すというささやかな行為、そのくらいの重みであるという認識に痛みの感情があります。

 

あばら骨の浮きたるダルメシアンが行くこの世の水を搬び出すごと

/福西直美「塔」2017年10月号

きっともう年老いたダルメシアンなのでしょう。此岸と彼岸のはざまにいるようなその犬が歩いてゆく姿を、まるでこの世の水を搬び出すようであるととらえて印象的です。そしてまもなく命尽きようとしている犬のめぐりにながれる静謐な時間までもが目にみえるようです。

 

紫陽花が目に触れるとき廃屋のビルから飛びたっていく鳥たち

/川上まなみ「塔」2017年10月号

主体の視界に紫陽花が触れたちょうどそのとき、視野の外の廃屋のビルから鳥が飛びたっていくその鳥は、実景であって心象のようでもあります。一斉に飛びたっていく鳥は主体の感情と呼応し、あるいは主体の感情を代弁しているのだろうと、主体のなかには一斉に鳥が飛びたつようにして記憶にまつわるなんらかの感情が走ったのだろうと思います。景に託しながら感情のやわらかな部分をも表現する巧さがあります。

 

つやめきはまたたきみたいなものだから乾きの兆しに気をつけないと

/小田桐夕「塔」2017年10月号 

上句はたとえば眸のつやめきがまたたきによって取り戻されることをイメージすればよいでしょうか。ただ、つやめき=またたきではないので少し読みに迷います。けれど〈つやめき〉と〈乾き〉に対して意識的であろうとするところに主体の凛とした姿が浮かびます。(茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩を思い出します。)また、上句、下句とも読者の心をきゅと掴むフレーズであり、作者独自の文体の魅力もあります。

 

 

葛原妙子歌集『朱靈』

『葡萄木立』にひきつづき『朱靈』を読みました。

『朱靈』には『葡萄木立』以後七年間の、715首に及ぶ作品が収められています。

 

◆見えすぎる目は遠のいて

雁を食せばかりかりと雁のこゑ毀れる雁はきこえるものを

水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり (乾酪:チーズ) 

『朱靈』を通読し漠然とながら感じたことは、『原牛』『葡萄木立』と比べて見えすぎる目の恐怖というものは遠のいて、そのまなざしはより深く、より静謐になっているということ。

一首目、自分が食することがなければ今も大空をはばたいていたかもしれない雁の、嚙み砕かれて毀れてゆく声をきいています。命をいただくということへの罪の意識、悲哀の感情が作者のなかにはつねに流れているように思います。

二首目、ヴェネツィアを旅行した際の壮大な連作のなかの一首。運河の街ヴェネツィアの水の音、その水の音にかつてペストでおびただしい死者を出したこの街の仄暗い歴史、そして今日にいたるまで流れてきた時間をみています。「恍惚として乾酪黴びたり」とはすさまじいまなざしです。

 

◆同じテーマを繰り返しうたう、そして深化してゆく

魚と魚觸るることなし透きとほる流水の膜魚をへだてたり

魚のぼり魚刻々と冷ゆるとき魚は寂しき薔薇の火を得る

をさなごが魚呼ぶこゑす、キリストが魚よ、と呼びし哀泣のこゑ

葛原妙子の歌集のなかには「魚」がしばしば出てきます。同じテーマを繰り返しうたうことにより、そのテーマに執着する作者の内面が顕在化してきます。

掲出の一首目は、するどい観察眼によって描き出された景でありながら、歌集のなかの一首としてみるとき、おのずと象徴的な意味あいを帯びてきます。「魚」はイエスを象徴するものであることを思わずにはいられないのです。そしてキリスト教に並々ならぬ関心を抱きながら死の間際まで帰依することのなかった作者を思うとき、この「魚と魚」とはイエスと作者自身ではなかったかと思ったりするのです。

二首目、薔薇もまた繰り返しうたわれるテーマであり、薔薇が聖母の象徴でもありうることをあわせみるとき、この一首に磔刑のイエスが透けてみえてくるような気がしています。

 

◆幻視とは対照的にその目からなにかが失せるということ

中國の麻のハンカチ薄ければ身につけしよりかきうせにけり

赤き花抱きよぎれる炎天下いくたびか赤き花のみとなる (抱:いだ)

ふと猫はみえずなりたり白き猫いづこにか消え 大き鈴殘る 

葛原妙子というとそこにないものが見えてしまう目、というイメージが強いですが、この歌集ではそこにありつつ失せてしまうものをうたったものもまた印象に残ります。

 

◆見せけちあるいは否定の文体がみせるもの

晝しづかケーキの上の粉ざたう見えざほどに吹かれつつをり

眞珠秤眞珠を載せず眞珠商白亞の室を閉ぢたるところ

鹽の壺空となりゐつわが家のいづこにも鹽なき時閒過ぎをり (空:から)

上膊より缺けたる聖母みどりごを抱かず星の夜をいただかず (抱:いだ)

見せけちあるいは否定の文体の多いことも作者の特徴のひとつです。

一首目、このようにいわれてみると見えざるほどに吹かれている粉砂糖がむしろまざまざとみえてきます。

二首目では、本来真珠を載せるべき真珠秤に真珠がないということが逆に真珠の存在を心に刻みつけます。

三首目、四首目も同様に、ないものをないということにより、本来あるべきものがないことが顕在化し、読者の側でもそのものをつよく意識することになります。

また、塩というものが聖書のなかで重要な意味をものものであることも一首の奥深さを思わせます。

 

◆字つまり、その独特の韻律

草食はさびしきかな 窓なる月明りみるにひとしく

しばしばみられる字つまりをはじめとする破調、はじめは破調による読みにくさがあるのですが、繰り返し読むうちに次第に作者独特の韻律に馴染んでいく感覚があり、字つまりにも必要性を感じるようになるから不思議です。

掲出の歌について、作者自身、「二句に一。三句に一。四句にニ。合計一首に四字の欠字、つまり字つまりがある。ギシギシと意味ある言葉の充填でもりあがった歌の卑しさを避けて、この一首の内なる沈んだ情緒さながらに萎え、かつは明視ある歌が欲しかったからだ。五句三十一文字の歌の器は欠けた文字そのものの恩恵によってゆったりと透けてもいるのだ。」(『独宴』)といっています。