塔10月号より
うたた寝のうちにひとつめもう過ぎてふたつめの湖きらきらと在る
/小川ちとせ「塔」2017年10月号
ゆったりとした韻律、「ひとつめ」「ふたつめ」のリフレイン、平仮名にひらかれたやわらかい文体、それらが相まってうたた寝からさめようとするときのぼんやりとした感じを伝えています。そして柔らかい文体のなかに「在る」というきっぱりとした表記が選ばれていることが、きらきらとした湖の、存在の大きさ、確かさを思わせます。
いちめんのれんげの花か白骨か霧晴れわたり露わになるもの
/乙部真実「塔」2017年10月号
今、れんげ畑を霧が覆い隠しています。この霧が晴れたとき露わになるのはれんげの花か、あるいはもしかしたら白骨の類かもしれないと主体は想像しています。
上句が平仮名にひらかれていることで心象風景としてのれんげ畑であるような気もします。そして今は霧というヴェールに隠されているけれど、つぎにこの野を目の当たりにするときにはなにか残酷なものを目にしなければならないのではないか、といううっすらとした不吉な予感。それは白骨という喩に隠された現代社会のひずみのようなものかもしれません。
存在という不在 胸を過るのは盗られずにいるいっぽんの傘
/白水麻衣「塔」2017年10月号
だれかの忘れものの傘、置き去りにされてしかも盗られることもなくそこにあり続ける一本の傘。傘は存在しながら、その存在を無視されるかのようで、そこに作者は存在という不在をみています。「いっぽん」という表記が、ともすると「ぽつん」という言葉を呼びおこし、その存在のさびしさを際立たせます。
もしかすると主体はこの傘に誰かにとっての自分を重ねみているのかもしれません。
雨過ぎてあなたのもどりてゆく場所にまた雨が降りわたしはゐない
/澄田広枝「塔」2017年10月号
自分の町に帰りゆくひとと、それに寄り添うように移動してゆく雨。そうしてあなたも雨もわたしのもとを去り、わたしひとりが残されます。
この歌も〈存在と不在〉をつよく意識する一首です。
「藪」の字の奥に座つてゐるをみな重さは時に安らぎならむ
/越智ひとみ「塔」2017年10月号
文字のつくりに注目した歌。そして下句に作者独自の感受があり、そこには作者の実感をともなう説得力と共感性があります。
夕茜雨後にひろがりおもひのほかちかくにゐたりわたしと鴉
/千村久仁子「塔」2017年10月号
雨後にひろがる夕焼けはほんとうにうつくしいものです。そんな夕焼けに息をのみつかのま立ち尽くすわたしと、そのそばにいる一羽の鴉の姿がくっきりと目に浮かびます。そして「おもひのほか」というさりげない言葉を用いつつ、かすかに兆す孤独感を力みなく表現しています。
出会ったり出会わなかったり踏切の遮断機いつも上下に揺れて
/鈴木晴香「塔」2017年10月号
上がっているときも下がっているときも小さく揺れつづけているあの遮断機ほどのささやかなものに左右されながら、わたしたちの、〈誰か〉や〈何か〉との出会いはある、そういう出会い、あるいはすれ違いの繰り返しのなかで生きているわたしたちである、そんなふうに受けとめています。やわらかな文体でありながら心に残る一首です。
自画像に白い絵の具を足していくそのうちきっと真っ白な顔
/濱本凜「塔」2017年10月号
白はときとして不穏を呼びおこす色彩です。この自画像に重ねられてゆく白は、本来の自分を消し去ってしまうものとしてとらえられています。
そして主体のなかには、さまざまな場面でさまざまな折り合いをつけていく自分から自分らしさが失われてゆくであろうことへの、言いしれぬ葛藤があるように思われます。
手袋をくるつと引つくりかへすやうに私のゐなくなる日も来なむ
/加茂直樹「塔」2017年10月号
手袋をくるっとひっくり返すほどのたやすさで、みずからの存在と不在の分岐点もやってくるのだろう、と。それは生と死のことなのか、あるいは、みずからの携わってきたカンボジアという場所からの退去のことを指しているのか。いずれにしても、みずからの存在、不存在の差異は手袋をひっくり返すというささやかな行為、そのくらいの重みであるという認識に痛みの感情があります。
あばら骨の浮きたるダルメシアンが行くこの世の水を搬び出すごと
/福西直美「塔」2017年10月号
きっともう年老いたダルメシアンなのでしょう。此岸と彼岸のはざまにいるようなその犬が歩いてゆく姿を、まるでこの世の水を搬び出すようであるととらえて印象的です。そしてまもなく命尽きようとしている犬のめぐりにながれる静謐な時間までもが目にみえるようです。
紫陽花が目に触れるとき廃屋のビルから飛びたっていく鳥たち
/川上まなみ「塔」2017年10月号
主体の視界に紫陽花が触れたちょうどそのとき、視野の外の廃屋のビルから鳥が飛びたっていくその鳥は、実景であって心象のようでもあります。一斉に飛びたっていく鳥は主体の感情と呼応し、あるいは主体の感情を代弁しているのだろうと、主体のなかには一斉に鳥が飛びたつようにして記憶にまつわるなんらかの感情が走ったのだろうと思います。景に託しながら感情のやわらかな部分をも表現する巧さがあります。
つやめきはまたたきみたいなものだから乾きの兆しに気をつけないと
/小田桐夕「塔」2017年10月号
上句はたとえば眸のつやめきがまたたきによって取り戻されることをイメージすればよいでしょうか。ただ、つやめき=またたきではないので少し読みに迷います。けれど〈つやめき〉と〈乾き〉に対して意識的であろうとするところに主体の凛とした姿が浮かびます。(茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩を思い出します。)また、上句、下句とも読者の心をきゅと掴むフレーズであり、作者独自の文体の魅力もあります。
葛原妙子歌集『朱靈』
『葡萄木立』にひきつづき『朱靈』を読みました。
『朱靈』には『葡萄木立』以後七年間の、715首に及ぶ作品が収められています。
◆見えすぎる目は遠のいて
雁を食せばかりかりと雁のこゑ毀れる雁はきこえるものを
水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり (乾酪:チーズ)
『朱靈』を通読し漠然とながら感じたことは、『原牛』『葡萄木立』と比べて見えすぎる目の恐怖というものは遠のいて、そのまなざしはより深く、より静謐になっているということ。
一首目、自分が食することがなければ今も大空をはばたいていたかもしれない雁の、嚙み砕かれて毀れてゆく声をきいています。命をいただくということへの罪の意識、悲哀の感情が作者のなかにはつねに流れているように思います。
二首目、ヴェネツィアを旅行した際の壮大な連作のなかの一首。運河の街ヴェネツィアの水の音、その水の音にかつてペストでおびただしい死者を出したこの街の仄暗い歴史、そして今日にいたるまで流れてきた時間をみています。「恍惚として乾酪黴びたり」とはすさまじいまなざしです。
◆同じテーマを繰り返しうたう、そして深化してゆく
魚と魚觸るることなし透きとほる流水の膜魚をへだてたり
魚のぼり魚刻々と冷ゆるとき魚は寂しき薔薇の火を得る
をさなごが魚呼ぶこゑす、キリストが魚よ、と呼びし哀泣のこゑ
葛原妙子の歌集のなかには「魚」がしばしば出てきます。同じテーマを繰り返しうたうことにより、そのテーマに執着する作者の内面が顕在化してきます。
掲出の一首目は、するどい観察眼によって描き出された景でありながら、歌集のなかの一首としてみるとき、おのずと象徴的な意味あいを帯びてきます。「魚」はイエスを象徴するものであることを思わずにはいられないのです。そしてキリスト教に並々ならぬ関心を抱きながら死の間際まで帰依することのなかった作者を思うとき、この「魚と魚」とはイエスと作者自身ではなかったかと思ったりするのです。
二首目、薔薇もまた繰り返しうたわれるテーマであり、薔薇が聖母の象徴でもありうることをあわせみるとき、この一首に磔刑のイエスが透けてみえてくるような気がしています。
◆幻視とは対照的にその目からなにかが失せるということ
中國の麻のハンカチ薄ければ身につけしよりかきうせにけり
赤き花抱きよぎれる炎天下いくたびか赤き花のみとなる (抱:いだ)
ふと猫はみえずなりたり白き猫いづこにか消え 大き鈴殘る
葛原妙子というとそこにないものが見えてしまう目、というイメージが強いですが、この歌集ではそこにありつつ失せてしまうものをうたったものもまた印象に残ります。
◆見せけちあるいは否定の文体がみせるもの
晝しづかケーキの上の粉ざたう見えざほどに吹かれつつをり
眞珠秤眞珠を載せず眞珠商白亞の室を閉ぢたるところ
鹽の壺空となりゐつわが家のいづこにも鹽なき時閒過ぎをり (空:から)
上膊より缺けたる聖母みどりごを抱かず星の夜をいただかず (抱:いだ)
見せけちあるいは否定の文体の多いことも作者の特徴のひとつです。
一首目、このようにいわれてみると見えざるほどに吹かれている粉砂糖がむしろまざまざとみえてきます。
二首目では、本来真珠を載せるべき真珠秤に真珠がないということが逆に真珠の存在を心に刻みつけます。
三首目、四首目も同様に、ないものをないということにより、本来あるべきものがないことが顕在化し、読者の側でもそのものをつよく意識することになります。
また、塩というものが聖書のなかで重要な意味をものものであることも一首の奥深さを思わせます。
◆字つまり、その独特の韻律
草食はさびしきかな 窓なる月明りみるにひとしく
しばしばみられる字つまりをはじめとする破調、はじめは破調による読みにくさがあるのですが、繰り返し読むうちに次第に作者独特の韻律に馴染んでいく感覚があり、字つまりにも必要性を感じるようになるから不思議です。
掲出の歌について、作者自身、「二句に一。三句に一。四句にニ。合計一首に四字の欠字、つまり字つまりがある。ギシギシと意味ある言葉の充填でもりあがった歌の卑しさを避けて、この一首の内なる沈んだ情緒さながらに萎え、かつは明視ある歌が欲しかったからだ。五句三十一文字の歌の器は欠けた文字そのものの恩恵によってゆったりと透けてもいるのだ。」(『独宴』)といっています。
葛原妙子随筆集『孤宴』より
私のもっとも好ましい歌のあり方を述べるならば、私は歌うことで訴える相手をもたないということである。故に歌は帰するところ私の独語に過ぎない。ただ独語するためには精選したもっともてきとうなことばが選ばれなければならないのである。
こうして私は、歌とは独語の形をとるときにもっとも美しいと信じている一人である。
ところで独語という聴き手や返事を求めない歌が、たまたま他に響いていってその人を感動させることがあり得るのだが、そのような時、私は素直にその幸福をよろこぶのである。
/葛原妙子『孤宴』「白い朝顔」
一首鑑賞〈一尾の魚〉
水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき
/葛原妙子『葡萄木立』
葛原妙子の有名なこの一首は、「たちまち水のおもて合はさりき」という新しいものの見方を提示したいわゆる発見の歌として読まれることが多いように思う。河野裕子は「言葉が発見する景の新鮮さという点において、事象にたいする認識の角度の位置のとりかたにおいて、葛原妙子という歌人を思うときに先ずわたしの心に浮かんでくる歌である。」と述べている。
一方、稲葉京子は、この下句を「非常に強いひびきを持っており、いくらか不気味な拒絶のおもむきもある」という。この歌のある「雲ある夕」の中には〈池の辺にコンクリートの濡れをりき黒き魚跳ねいで黒き魚死にける〉という一首があり、冒頭の歌においても、魚はふたたび水の中に戻ることはかなわなかったのではないかと思わせるものがある。
また、魚にはキリストを象徴するものとしての一面がある。たとえば第七歌集『朱霊』にも〈をさなごが魚呼ぶこゑす、キリストが魚よ、と呼びし哀泣のこゑ〉という一首があり、作者自身そのことを意識していたのではないかとも考えられる。あるいは旧約聖書のモーゼの海割りの場面を想起する人もいるかもしれない。
このようなことを思うとき、この一首には複雑な思いが流れているように思えてくる。キリスト教に深い関心を抱きながら死の間際まで信仰に服することのなかった作者の心の葛藤、心の襞がこの一首の中にも垣間みえるような気がするのである。
塔7月号作品2より②
喋るときひとの唇ばかり見る娘は弦のように座りて
/石松佳「塔」2017年7月号
そのまなざしは、話す主体を射すくめてしまうほどまっすぐなのでしょう。「弦のように」という喩が魅力的で、繊細な感情をはりつめるようにして見つめる娘の姿が浮かんできます。
わたしはワタシからだはカラダこの春の散らない桜をすこし憎みつ
/小川ちとせ「塔」2017年7月号
わたしという存在の、精神と肉体。上句の言い切るような文体は、たとえば体の不調によって心まで元気を奪われてしまうことへの抵抗のようにみえます。とらわれず潔く生きようと心に刻むそんなとき、何日もぐずぐずと散らずにいる桜はことさらに主体の目には往生際の悪いものとして映るのでしょう。
がんばってそんなに写真を撮らないで ことしの桜忘れてもいい
/小松岬「塔」2017年7月号
話し言葉が生きた一首です。実際に発語した言葉というよりも心の中の声のような気がします。そこには今日の桜を忘れてしまうかもしれない未来のことを案じることなく、今というときに心も体もゆだねる潔さがあります。
ろうそくの光は影を生むことも少年の日に気付けり今も
/大橋春人「塔」2017年7月号
それは多感な少年時代に気づいたことのひとつ、そして今、主体はあらためてろうそくの光が生む影のことを思うのでしょう。それはもしかしたらろうそくの光や影に象徴される、より大きななにかについて、であるのかもしれません。「気付けり今も」と詰め込まれたような結句に切迫したせつなさがあります。
もの割るる音してのちに上がるべき悲鳴を聞かず春のゆふぐれ
髙野岬「塔」2017年7月号
どこかでガラスのようなものの割れる音がして、当然そのあとに悲鳴が聞こえるだろうと思ったら声は聞こえてこなかった、そのことをいぶかしむとともにかすかに気味悪さを感じているのでしょう。春のゆうぐれという設定も、なにか不可思議なことが起こってもおかしくはない、そんな空気感を生みだすことに役立っています。
さびしさはマクドナルドの百円のコーヒーに買う小さな居場所
/福西直美「塔」2017年7月号
この一首、百円だからさびしいのですよね。街のどこにも自分の居場所があるようには思えずに、コーヒーを飲むという口実のもとに百円をだしてささやかな居場所を得るのです。都会的な抒情のある一首です。
塔7月号作品2より
何げなくドアを開けたら満開といふくらがりのさくらさくら
/福田恭子「塔」2017年7月号
昼間にも気がつかぬままに、何げなくドアをあけたらくらがりのなかに桜が満開だったという、どことなく不思議でどことなく不穏な感じのする一首です。おそらく実景でありつつ、「そのとき」に至るまで気づくことのないなにかを暗示するようでもあります。
にはとりの卵に模様なきことを思へばしづかなる冬銀河
/千葉優作「塔」2017年7月号
鶏卵に模様がないということにあらためて思いをいたすとき、発想は静まりかえった冬の銀河に飛躍してゆく、うつくしい一首。冬銀河というつよい体言止めも効果的で、読者は冬の銀河に放りだされたような感覚に誘われます。
赤白の鉄塔どこにもあるものを目印にしてまよひしは春
/松原あけみ「塔」2017年7月号
赤白の鉄塔という具体を用いながら、たのみにしていたものを見失い、心もとなくさまよう感じが巧みに表現されています。そしてその心もとなさは春という季節そのもののイメージにもつながっています。
感覚で道を歩いて行くような ような感覚であなたといます
/駒井早貴「塔」2017年7月号
上句と下句のリフレインによりリズムを生みだしつつ、上句が下句の「感覚」の喩になっています。感覚という言葉には、正解はわからないけれど本能にしたがって、というような感じがあります。正解はわからないけれど、少なくとも今、主体はみずからの本能を信じているのだろうという前向きな印象にあかるさがあります。
動かない耳は帽子の下にしまって日差しの中を歩き続けた
/吉田恭大「塔」2017年7月号
耳という器官は封じてしまって、五感のうちの限られた感覚だけをはりつめて昼の日盛りを歩いている、そんな様子を想像します。そして、そうせずにはいられないという緊張感と、はてしのない時間のなかの徒労感のようなものを感じます。
猫しろくをりてほうほう過ぎゆける日月のなかの亡きひといもうと
/千村久仁子「塔」2017年7月号
亡くされた妹さんへの想いに、時間が前に進んでゆかないような感覚があるのでしょう。けれど時間は誰にとってもひとしい速度で過ぎゆくもの。そういう時間というものをどこか人ごとのように眺めている主体がいます。猫が「しろくをり」という描写、「ほうほう」というオノマトペがぼんやりとしている間に過ぎてゆく時間のありようを見事にとらえています。
塔7月号月集・作品1より
つぎつぎに羽ばたくごとき音のして梅雨の駅から人は去りゆく
/吉川宏志「塔」2017年7月号
梅雨の日の駅、人々が雨脚をたしかめ手元に傘をひらき駅を出てゆくほんのつかの間、雨、いやですね、とでもいうような気持ちのなかに互いに心をかすかにかよわす一瞬があります。そしてそののちそれぞれの目的地に向かって人々は雨の中へと歩きだします。そのとき傘をひろげる音が鳥の羽ばたくような音に聞こえるのでしょう。この一首ではそうしてつぎつぎ出てゆく人の背をうしろから見送っているような感じがあり、かすかなさびしさが漂います。
ものごとをまげてのがれんとせしのちのかたむき 城がかたむく
/真中朋久「塔」2017年7月号
真中さんの歌の中でも、平仮名を多用した歌は思惟的な印象があります。この歌にもその本質を抉りだすような奥深さを思います。
守るとはやわらかな悪 藻川にはきのうとちがう水が流れて
/江戸雪「塔」2017年7月号
「守る」ということはときに変化を拒むことでもあります。たとえば子どもの成長の過程で、子どもを守るためという言葉のもとに子ども自身の冒険やそこからの成長を妨げてしまうことがあります。「やわらかな悪」とはそのような思いから表出した言葉でしょうか。同じようでいて昨日とはちがう水の流れてゆく川は、主体に変化を思わせるのでしょう。川を見つめつつ、みずからに言い聞かせる姿が目に浮かびます。
目が覚めるそのすこしまへの記憶を汲むやうにコップを手につかみたり
/小田桐夕「塔」2017年7月号・新樹集
目を覚ましたものの、いまだ夢とうつつのあわいにいるような感覚のなか、目が覚める前の記憶に思いを馳せているのでしょう。「記憶を汲むように」という喩には、コップを手にとるといううつつの行為をとおして自分自身をうつつに立たせ、うつつの側からひとつひとつ記憶をたぐりよせようとする感じに実感があります。二句三句の字余りにどこかまどろこしさがありますが、それが夢とうつつを行き来するときのまのあり様を思わせるようでもあります。
満開のみじかき春を大方のいのちはいのちとうまく避け合う
/朝井さとる「塔」2017年7月号
「大方の」という言葉のうしろに、そうではない、そうすることができない生きづらさのなかにいる主体のいたみがみえるような一首です。狂うほど桜の咲き盛る季節であればなおのこと。
人間も見えない花粉のようなもの飛ばして春は疲れる季節
/三浦こうこ「塔」2017年7月号
「見えない花粉のようなもの」とはひと恋しさのようなもの、さびしさのようなものといえば近いでしょうか。杉の花粉が一斉に飛ぶ映像を思うとき、春という季節のあかるさの中に潜むどうしようもない焦燥感のようなものがたちこめてきます。
サイレントレターくらいの気配にてあなたが打ってくれる相槌
/白水麻衣「塔」2017年7月号
表記はされても発音されることはないサイレントレター、それはあってないようなもの、けれど確実に存在するものでもあります。相手が打ってくれる相槌はそのサイレントレターくらいの気配だといいます。あるようなないような相槌でありつつ、その相槌を主体は心地よくあたたかいものとして受けとめているのでしょう。魅力的な喩です。
ゆっくりとスピード落としてよぎりゆく寝物語の里といふ集落
/福井まゆみ「塔」2017年7月号
寝物語に語られる集落は「里」と呼ばれて、そのノスタルジックな響きやありさまを聞きながらうっとりと感じいる主体なのでしょう。
あまがさきというときの口の開き方をこの春の淡き先触れと思う
/小川和恵「塔」2017年7月号
「あまがさき」と声に出してみるとき、それがほぼあ音から成っていることに気づきます。相手がその言葉を発するときの口もとに目をとめて、あるいは自分で発語して、その甘やかなあかるさを感じているのでしょう。ひとつの言葉に春の先触れを感じるところに作者の感性があります。