欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

一首鑑賞〈一尾の魚〉

水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき

/葛原妙子『葡萄木立』

葛原妙子の有名なこの一首は、「たちまち水のおもて合はさりき」という新しいものの見方を提示したいわゆる発見の歌として読まれることが多いように思う。河野裕子は「言葉が発見する景の新鮮さという点において、事象にたいする認識の角度の位置のとりかたにおいて、葛原妙子という歌人を思うときに先ずわたしの心に浮かんでくる歌である。」と述べている。
一方、稲葉京子は、この下句を「非常に強いひびきを持っており、いくらか不気味な拒絶のおもむきもある」という。この歌のある「雲ある夕」の中には〈池の辺にコンクリートの濡れをりき黒き魚跳ねいで黒き魚死にける〉という一首があり、冒頭の歌においても、魚はふたたび水の中に戻ることはかなわなかったのではないかと思わせるものがある。
また、魚にはキリストを象徴するものとしての一面がある。たとえば第七歌集『朱霊』にも〈をさなごが魚呼ぶこゑす、キリストが魚よ、と呼びし哀泣のこゑ〉という一首があり、作者自身そのことを意識していたのではないかとも考えられる。あるいは旧約聖書のモーゼの海割りの場面を想起する人もいるかもしれない。
このようなことを思うとき、この一首には複雑な思いが流れているように思えてくる。キリスト教に深い関心を抱きながら死の間際まで信仰に服することのなかった作者の心の葛藤、心の襞がこの一首の中にも垣間みえるような気がするのである。

 

塔7月号作品2より②

喋るときひとの唇ばかり見る娘は弦のように座りて

/石松佳「塔」2017年7月号 

そのまなざしは、話す主体を射すくめてしまうほどまっすぐなのでしょう。「弦のように」という喩が魅力的で、繊細な感情をはりつめるようにして見つめる娘の姿が浮かんできます。

 

わたしはワタシからだはカラダこの春の散らない桜をすこし憎みつ

/小川ちとせ「塔」2017年7月号 

わたしという存在の、精神と肉体。上句の言い切るような文体は、たとえば体の不調によって心まで元気を奪われてしまうことへの抵抗のようにみえます。とらわれず潔く生きようと心に刻むそんなとき、何日もぐずぐずと散らずにいる桜はことさらに主体の目には往生際の悪いものとして映るのでしょう。

 

がんばってそんなに写真を撮らないで ことしの桜忘れてもいい

/小松岬「塔」2017年7月号

話し言葉が生きた一首です。実際に発語した言葉というよりも心の中の声のような気がします。そこには今日の桜を忘れてしまうかもしれない未来のことを案じることなく、今というときに心も体もゆだねる潔さがあります。

 

ろうそくの光は影を生むことも少年の日に気付けり今も

/大橋春人「塔」2017年7月号

それは多感な少年時代に気づいたことのひとつ、そして今、主体はあらためてろうそくの光が生む影のことを思うのでしょう。それはもしかしたらろうそくの光や影に象徴される、より大きななにかについて、であるのかもしれません。「気付けり今も」と詰め込まれたような結句に切迫したせつなさがあります。

  

もの割るる音してのちに上がるべき悲鳴を聞かず春のゆふぐれ

髙野岬「塔」2017年7月号

どこかでガラスのようなものの割れる音がして、当然そのあとに悲鳴が聞こえるだろうと思ったら声は聞こえてこなかった、そのことをいぶかしむとともにかすかに気味悪さを感じているのでしょう。春のゆうぐれという設定も、なにか不可思議なことが起こってもおかしくはない、そんな空気感を生みだすことに役立っています。

 

さびしさはマクドナルドの百円のコーヒーに買う小さな居場所

/福西直美「塔」2017年7月号 

この一首、百円だからさびしいのですよね。街のどこにも自分の居場所があるようには思えずに、コーヒーを飲むという口実のもとに百円をだしてささやかな居場所を得るのです。都会的な抒情のある一首です。 

 

 

塔7月号作品2より

何げなくドアを開けたら満開といふくらがりのさくらさくら

/福田恭子「塔」2017年7月号 

昼間にも気がつかぬままに、何げなくドアをあけたらくらがりのなかに桜が満開だったという、どことなく不思議でどことなく不穏な感じのする一首です。おそらく実景でありつつ、「そのとき」に至るまで気づくことのないなにかを暗示するようでもあります。 

 

にはとりの卵に模様なきことを思へばしづかなる冬銀河

/千葉優作「塔」2017年7月号

鶏卵に模様がないということにあらためて思いをいたすとき、発想は静まりかえった冬の銀河に飛躍してゆく、うつくしい一首。冬銀河というつよい体言止めも効果的で、読者は冬の銀河に放りだされたような感覚に誘われます。

 

赤白の鉄塔どこにもあるものを目印にしてまよひしは春

/松原あけみ「塔」2017年7月号

赤白の鉄塔という具体を用いながら、たのみにしていたものを見失い、心もとなくさまよう感じが巧みに表現されています。そしてその心もとなさは春という季節そのもののイメージにもつながっています。

 

感覚で道を歩いて行くような ような感覚であなたといます

/駒井早貴「塔」2017年7月号

上句と下句のリフレインによりリズムを生みだしつつ、上句が下句の「感覚」の喩になっています。感覚という言葉には、正解はわからないけれど本能にしたがって、というような感じがあります。正解はわからないけれど、少なくとも今、主体はみずからの本能を信じているのだろうという前向きな印象にあかるさがあります。

 

動かない耳は帽子の下にしまって日差しの中を歩き続けた

/吉田恭大「塔」2017年7月号

耳という器官は封じてしまって、五感のうちの限られた感覚だけをはりつめて昼の日盛りを歩いている、そんな様子を想像します。そして、そうせずにはいられないという緊張感と、はてしのない時間のなかの徒労感のようなものを感じます。

 

猫しろくをりてほうほう過ぎゆける日月のなかの亡きひといもうと

/千村久仁子「塔」2017年7月号 

亡くされた妹さんへの想いに、時間が前に進んでゆかないような感覚があるのでしょう。けれど時間は誰にとってもひとしい速度で過ぎゆくもの。そういう時間というものをどこか人ごとのように眺めている主体がいます。猫が「しろくをり」という描写、「ほうほう」というオノマトペがぼんやりとしている間に過ぎてゆく時間のありようを見事にとらえています。

 

 

塔7月号月集・作品1より

つぎつぎに羽ばたくごとき音のして梅雨の駅から人は去りゆく

吉川宏志「塔」2017年7月号

梅雨の日の駅、人々が雨脚をたしかめ手元に傘をひらき駅を出てゆくほんのつかの間、雨、いやですね、とでもいうような気持ちのなかに互いに心をかすかにかよわす一瞬があります。そしてそののちそれぞれの目的地に向かって人々は雨の中へと歩きだします。そのとき傘をひろげる音が鳥の羽ばたくような音に聞こえるのでしょう。この一首ではそうしてつぎつぎ出てゆく人の背をうしろから見送っているような感じがあり、かすかなさびしさが漂います。

 

ものごとをまげてのがれんとせしのちのかたむき 城がかたむく

/真中朋久「塔」2017年7月号

真中さんの歌の中でも、平仮名を多用した歌は思惟的な印象があります。この歌にもその本質を抉りだすような奥深さを思います。

 

守るとはやわらかな悪 藻川にはきのうとちがう水が流れて

/江戸雪「塔」2017年7月号 

「守る」ということはときに変化を拒むことでもあります。たとえば子どもの成長の過程で、子どもを守るためという言葉のもとに子ども自身の冒険やそこからの成長を妨げてしまうことがあります。「やわらかな悪」とはそのような思いから表出した言葉でしょうか。同じようでいて昨日とはちがう水の流れてゆく川は、主体に変化を思わせるのでしょう。川を見つめつつ、みずからに言い聞かせる姿が目に浮かびます。

 

目が覚めるそのすこしまへの記憶を汲むやうにコップを手につかみたり

/小田桐夕「塔」2017年7月号・新樹集 

目を覚ましたものの、いまだ夢とうつつのあわいにいるような感覚のなか、目が覚める前の記憶に思いを馳せているのでしょう。「記憶を汲むように」という喩には、コップを手にとるといううつつの行為をとおして自分自身をうつつに立たせ、うつつの側からひとつひとつ記憶をたぐりよせようとする感じに実感があります。二句三句の字余りにどこかまどろこしさがありますが、それが夢とうつつを行き来するときのまのあり様を思わせるようでもあります。

 

満開のみじかき春を大方のいのちはいのちとうまく避け合う

/朝井さとる「塔」2017年7月号

「大方の」という言葉のうしろに、そうではない、そうすることができない生きづらさのなかにいる主体のいたみがみえるような一首です。狂うほど桜の咲き盛る季節であればなおのこと。

 

人間も見えない花粉のようなもの飛ばして春は疲れる季節

/三浦こうこ「塔」2017年7月号

「見えない花粉のようなもの」とはひと恋しさのようなもの、さびしさのようなものといえば近いでしょうか。杉の花粉が一斉に飛ぶ映像を思うとき、春という季節のあかるさの中に潜むどうしようもない焦燥感のようなものがたちこめてきます。

 

サイレントレターくらいの気配にてあなたが打ってくれる相槌

/白水麻衣「塔」2017年7月号

表記はされても発音されることはないサイレントレター、それはあってないようなもの、けれど確実に存在するものでもあります。相手が打ってくれる相槌はそのサイレントレターくらいの気配だといいます。あるようなないような相槌でありつつ、その相槌を主体は心地よくあたたかいものとして受けとめているのでしょう。魅力的な喩です。

 

ゆっくりとスピード落としてよぎりゆく寝物語の里といふ集落

/福井まゆみ「塔」2017年7月号

寝物語に語られる集落は「里」と呼ばれて、そのノスタルジックな響きやありさまを聞きながらうっとりと感じいる主体なのでしょう。 

 

あまがさきというときの口の開き方をこの春の淡き先触れと思う

/小川和恵「塔」2017年7月号

「あまがさき」と声に出してみるとき、それがほぼあ音から成っていることに気づきます。相手がその言葉を発するときの口もとに目をとめて、あるいは自分で発語して、その甘やかなあかるさを感じているのでしょう。ひとつの言葉に春の先触れを感じるところに作者の感性があります。 

 

 

葛原妙子歌集『葡萄木立』

このところ葛原妙子歌集『葡萄木立』を読んでいました。次第に葛原妙子の世界に夢中になっていくのを感じながら読みました。(旧字は代用しています)

 

◆二つのものの生の相似を掴む比喩

あゆみきて戸口に鈍き海見えし猫は月光のやうにとどまる

飲食ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し(飲食:おんじき)

月あらぬ山の夜の青さながらにふかしぎなる魚を切りしのちのごとし

一瞬のわれを見いづる父なく母なく子なく銀の如きを

一首目、これは飼い猫、うつくしい白猫でしょうか。その猫が戸口に歩み寄り鈍色の海をじっと見ている、しずかでうつくしい光景です。そこはかとないさびしさも感じられます。「月光のやうに」という比喩、作者はじっと海をみつめる猫のまなざしに、しらじらと海を照らす月の孤高のうつくしさをみてとったのでしょう。

二首目、飲食をかさねることにより増えてゆく空壜、その空壜をみつめる作者の心には飲食をかさねること、それなくしてはありえない生そのものへのいたみの感情があり、その感情が作者に遠き泪をみせるのでしょう。作者の文章に「空壜の林立ばかりの山家に独居。かくして立つ者、立って動かぬ者のみを「存在」と思いつめて暮らした秋であった。」という一節があります。

三首目、月のない山の夜の青、青とありますからまったくの闇夜ではない。うっすらとものの影が感じられるくらいの青い夜は、うつくしくもあり、けれどそこにはなにものかがひそんでいるかもしれない、そんなおそろしさもあります。その感覚はふかしぎな魚の、体のなかを切りひらいてみることと似ているというのです。妖しくも奥深いイメージのひろがりがあります。

四首目、人は誰しも誰かに理解されることを望みつつすっかり理解されることはない。それを当然と思いつつ、当然と言い聞かせつつ、人はぬぐい切れないさびしさを感じるものです。得も言われぬその感情がここでは「銀」という一文字に閉じ込められています。「銀」と表現されてみるとそれ以外にふさわしい言葉はないと思われるほど説得力があります。

 

◆内在する不安、そのほの暗さ

黒き水なにゆゑぞつよくゆれしかばみなそこに白銀の太陽ゆれたり

月蝕をみたりと思ふ みごもれる農婦つぶらなる葡萄を摘むに

青蟲はそらのもとにも青ければ澄むそらのもと焼きころすべし

絹よりうすくみどりごねむりみどりごのかたへに暗き窓あきてをり

一首目、「雲ある夕」という一連の中の一首です。水の面が風かなにかで揺れたことにより、水底に映っていた太陽も揺れたということなのですが、平仮名を多用した文体、「黒き水」「白銀の太陽」という色彩の効果によりぞくっとするような不穏なイメージがひろがります。ひとつ前の〈水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき〉にもこの魚は水のおもてに拒絶され、水中に戻ることがかなわなかったのだというひややかさがあります。

二首目、歌集には葡萄や胎児、嬰児、眸というテーマが多くでてきます。葡萄は作者にとって人間の宿命の、また忍苦の象徴であり、生存そのものの中に含まれる妖、つまり不気味なものの象徴でもあります。この一首において作者は、葡萄の粒と、農婦のお腹の中の胎児(あるいは胎児の眸)というふたつのものを月蝕のように重ね見たのだろうと思います。葡萄と重なる胎児は、作者にとって月蝕のときの月が暗赤色にみえるようにうっすらと不気味なものとしてみえているのでしょう。

三首目、空の青さにも怯むことないまばゆいばかりの青虫の青をみたときに、言葉には言い尽くせない畏れのような感情が湧きおこり、それが「焼きころすべし」というつよい言葉となって表出したのでしょう。残酷でありながら痛切な叫びのように響きます。

四首目、ねむりを絹の透きとおるようなうすさと比した修辞がうつくしい、みどりごが午睡をしている場面です。にもかかわらず作者の目に映るものはそのかたえに暗くひらいている窓。みどりごの行く先を暗示するようなそこはかとないほの暗さがあります。そしてこのほの暗さは単にこのみどりごに対してというにとどまらず、なべて人間という存在に対して作者が抱くほの暗さなのでしょう。

 

◆破調、三句欠落の要請 

晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて

この一首は三句欠落とされています。破調による読みにくさはあるのですが、この一首の場合、三句欠落によりそこにうまれた空白がなんともいえない空気感を醸しだしています。稲葉京子は「晩夏光がおとろえて、さびしく静かな夕ぐれ方の限りなく深い無韻感を、この欠落した第三句が大きく拡げているのである。」といっています。

作者の三句欠落の代表的な歌としてほかに〈黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ〉や〈築城はあなさびし もえ上る焰のかたちをえらびぬ〉(いずれも『原牛』)があります。このふたつも三句欠落への不可避の要請がある歌のように感じています。

 

◆「美しい」という修辞

いまわれはうつくしきところをよぎるべし星の斑のある鰈を下げて(斑:ふ)

美しき把手ひとつつけよ扉にしづか夜死者のため生者のため(把手:のぶ)

美しき信濃の秋なりし いくさ敗れ黒きかうもり差して行きしは

作者はつねづね「短歌は美しくあらねばならぬ、もっと美しく、更に美しく。」といっていたといいます。作者にとっての「美しさ」とは何であるか、その答えに近づくために、「美しい」という修辞の用いられた歌をとりあげてみます。

一首目、上句の平仮名表記が印象的であり、平仮名であることによりそれがあたかも幻であるかのような感覚にさせられます。「うつくしきところ」とはどこなのか。それはほんの一瞬あるかないかのところ、あるいは作者からは遠い存在の場所のような気がします。

二首目、しずかな夜のひととき、作者にとってそれは死者と生者がゆきかう時間なのでしょう。扉はその境界線。死者と生者がゆきかう幻の扉の把手はなにより清浄で美しいものでなければならない。生と死がつねに隣りあわせのものであり、いつ入れ変わってもなんの不思議もないのだという思いがながれています。

三首目、戦時中、作者は三人の子を連れて信濃疎開しています。そのときの辛さは作者の中にながく影を落とします。「黒きかうもり」はその象徴であり、戦時中の日本の現実と作者の心の翳り、それと対照的なものとして信濃の秋の美しさがあります。その美しさは祈りのようでもあります。

 

◆「手」というモチーフ

一人の医師の左手 左手はしりえざるふかきやまひを触知す(一人:いちにん)

怖しき母子相姦のまぼろしはきりすとを抱く悲傷の手より(悲傷:ピエタ

ガラスケース透くさながらの夜となり銀貨をかぞへゐしはわれなり

歌集には「片手」の章をはじめ、手というモチーフが多くでてきます。

一首目、夫である外科医の手でしょう。人間というふかしぎの中のさらに奥の知りえざる病に触れにいく医師の左手を、畏れつつみつめるまなざしがあります。

二首目、作者は見え過ぎてしまう人、見てはならないものまで見てしまう人と評されることが多く、この一首はそのような作者の目をつよく感じます。見てはいけないものの見えはじめる端緒としてマリアの手に、作者は目をとめているのです。

三首目、「ガラスケース透くさながらの」といううつくしい夜に、わたしは銀貨を数えている。この一首に手という言葉は出てきませんが、「片手」という章の中に置かれていることとも相まって、銀貨を数える手が浮かびあがってくるような一首です。

 

◆葡萄のあらわすもの 

うすらなる空気の中に実りゐる葡萄の重さはかりがたしも 

 作者は歌集のあとがきで次のように書いています。「イスラエルびとの切りとつたエシコルの谷の葡萄の大きさ重さは、ふと人間の宿命の、また忍苦の重さとも思はれるが、ときを選ばず葡萄の大きな玉がみえるとき、私にはまた別の思ひがある。それは生存そのもののなかに累々含まれる妖、つまり不気味なものとの対面を意味する。」

これをふまえこの一首を読むとき、初読のときとは比べものにならない奥深さをもって心に迫ってきます。

 

 

一首鑑賞〈アップルパイ〉

歩きつつアップルパイを食べているpost-truthの時代の中で

/廣野翔一「浚渫」 

一読してなにより印象的なのは、たたみかけるように重ねられる「あ」音のあかるさである。このあかるさは単純なあかるさではない。どこか作りものめいた雰囲気がある。なぜだろう、アップルパイを食べている主体は無表情、無感情なのではないか...と思えてくる。あるいはpost-truthという時代の内包する不安からあえて目を背ける消極的意思があるようにも思えてくる。意識的に重ねられたであろう「あ」音がとても効いている。歩きながらアップルパイを食べるという行為のもつあかるさとともに、音のあかるさゆえに、その裏に隠された時代への不安感がたちのぼってくるのである。

 

塔5月号作品一首評より

いつまでをここにとどまるわたしだろう風が芒を逆立てて、秋

/中田明子「塔」2017年3月号 

 秋が深まると芒の穂は逆立てたように膨らみ、いっそう白くなる。いつの間にか春も、そして夏も通り過ぎて、今はもう秋。風が冷たい。それなのに私はまだこんなところに留まっている。こんなことをしていていいのだろうか。ふとした焦りが胸うちをよぎる。

もっと素晴らしい世界への憧れ、そして不安を、ひらがなだけでうたった上句と、一転して風景に心象を託す下句に詠いあげて若々しい。短歌が短詩と言われる所以をこの一首に読みとった。

(評:林都紀恵さん)

 

ありがとうございました。