欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

一首鑑賞〈ナツツバキ〉

ナツツバキ遅れてごめんと駈けよれば約束なんかしてないと言う

/小川ちとせ『箱庭の空』

ちょうどこの時期、白くうつくしい花を咲かせる夏椿。夏椿は別名を沙羅ともいい、朝ひらき夕方には落花してしまうその儚さでも知られている。

この歌の主体にはそんな夏椿の儚さに対する心寄せがある。けれどその儚さを惜しもうと惜しむまいと、花はただひたすらにその生を全うするだけである。その着眼にとりたてて新しさはないかもしれない。けれど、夏椿と言葉をかわすというかたちで一首を成立させたところにおもしろさがある。下句の「約束なんかしてない」という言い捨てるような台詞は、夏椿の凛とした潔さをかろやかにあらわしている。ひとが生きるということはこの夏椿のように潔くいられる場面ばかりではないけれど、だからこそ主体にはそんな潔さに対する憧れの感情があるのだろう。 

 

塔5月号作品2より

呼び方を変える過程で消えてゆくものはなんだろう呼ぶ声がする

/紫野春「塔」2017年5月号 

 

この膝をあふれてしまいそうなほど猫のからだのゆるんでおりぬ

/田村穂隆「塔」2017年5月号

 

うつすらと眠ると言ひしわが乙女わたしの耳に言葉とねむる

/千村久仁子「塔」2017年5月号

 

満月とわたしは位置を変えながらそれでも近づくことは無かった

月もいつか花火のように消えてゆくそのいつかまで川は流れる

/鈴木晴香「塔」2017年5月号 

 

その場では笑ってしまうわたくしの夜更けに捏ねている鬼瓦

/吉田恭大「塔」2017年5月号 

 

春の海青いひかりを手放して魚群の血液重たくさせる

/池田行謙「塔」2017年5月号

 

つたへても伝へても雪 耳もとにとどいたらすぐ消ゆるさだめは

/小田桐夕「塔」2017年5月号

 

塔5月号作品1より

細部を詠めという声つよく押しのけて逢おうよ春のひかりの橋に

/大森静佳「塔」2017年5月号 

詠むために細部に目を向けることを今はあえて拒み、もっと感情のままに本能のままにあろうとする、高らかな宣言のような一首である。その心にあるのは、短歌に対するあり方のことであるかもしれないし、また、詠むためにあるうちなるまなざしを拒まずにはいられないほどの、そういう状況にあるということなのかもしれない。

 

月と一緒 心も欠けていくことをいっしょに暮していけばわかるよ

/上澄眠 「塔」2017年5月号

望んで家族になった人であっても、一緒に暮らしていけばいろいろなことがある。心を消耗していくことだってある。そのせつなさをすこしずつ欠けていく月と重ねて印象的。そしてこの一首のよさは月であればまた満ちていくこともあるということ。

 

この街のひかりは濃くて少しずつ話す速度がゆっくりになる

/白水麻衣「塔」2017年5月号

街に降りそそぐひかりの濃さが自分や相手にあたえるものを話す速度のなかにとらえる、という感覚的でありながら惹かれる一首である。

 

ちいさな亀に大きな影のあることもふいに哀しき冬の入り口

/橋本恵美「塔」2017年5月号

陽の傾きや季節によって影は大きくもなり小さくもなるものだが、そのことをちいさな亀に見いだしてどこか暗示的に哀しみをとらえている。それは「冬の入り口」という季節のなかに立つ主体自身のかなしみの投影であるかもしれない。

 

塔5月号月集より

子の口のなにがさびしいゾウの耳キリンの角を交互に噛んで

/澤村斉美「塔」2017年5月号

小さなわが子がぬいぐるみのゾウの耳、キリンの角を噛んでいる。おそらく母に見られているという意識はなくただその行為を繰り返している。その姿を外側から見ているときに主体のなかに兆すどうしようもないさびしさ。「子の口のなにがさびしい」と言いながらそこにあるさびしさは主体のさびしさそのものでもあるのだ。

 

西窓がひどくあかるいあるはずの飛行機雲も見分けられない

永田紅「塔」2017年5月号

実景でありながら心象のようでもある。あかるさのなかに、あかるさゆえに見失うもの、その心理的遠さ。「ひどく」には傷みの感情がうつしだされている。

 

ランドセルは煮ちゃったらだめだよ、と夢のなかわれは母に言いおり

目覚めても目覚めても風がたゆたいて照り翳りする部屋の内側

/花山周子「塔」2017年5月号

一首目、ランドセルを煮るなんて突拍子もない行為のようにも思われるが、今回の一連のなかの一首として読むとき、この一首はもっと切迫したなにかを思わせる。遠からぬ日に小学校という社会に出るわが子を待ち構える未来へのえも言われぬ不安感に、煮沸消毒のような意味においてランドセルを煮ることを深層の部分でむしろうっすらと希求していたりするのでは、などと思ったりする。

二首目、そこは自分の部屋なのだけれど、現在そして未来がぼんやりとして、それは、はてしない時間の流れのひとところにぽつんと取り残されたようなとらえどころのないさびしさ。

 

一月にとじこめられている感情、山の高さに雪は降りつつ

/山下泉「塔」2017年5月号

 「山の高さに雪は降りつつ」に窓辺に立ち山の稜線を、そしてそこに降る雪をじっとみつめているまなざしがみえてくる。その山の稜線までの距離はなにかからの遠さでもあり、どこにも逃がすことのできない感情との対比が印象的。

 

塔4月号若葉集より

口元のマフラーを少し湿らせて昨日のわたしを追い越してゆく

/魚谷真梨子「塔」2017年4月号 

ふかぶかと巻いたマフラーを吐く息に湿らせながら、主体はなにかを考えている。あるいはなにかを決意しようとている。そうして昨日の自分を乗り越え、昨日の自分よりも一歩先にいこうとする。日付があらたまることで昨日のわたしを追い越せるのではない。そこに意志があるから追い越せるのだ。

 

赤や黄のあぶらゑのぐに汚れつつ画架古りゆきぬ重なりながら

/岡部かずみ「塔」2017年4月号

「あぶらゑのぐ」という旧かな表記は「油絵具」とはまたちがった味わいで、絵の具を使ったひとびとのなまなましい指をも思わせる。画架に焦点をあてつつ、一首からはこれまでここで絵を描いたであろうひとびとの息遣いや、つみ重ねられてきた時間の厚みがみえてくる。

 

感情は水分を多く含むため気圧の変化で溢れだします

/紫野春「塔」2017年4月号

感情は人間そのもの。人間の体の6割を構成する水は感情を構成するものでもある、といえるだろうか。そういえば情にもろいことをウェットという。

 

塔4月号作品2より

ひとの眼はおほきな光しか見ない 刃はしづかに夜に研ぐべし

/小田桐夕「塔」2017年4月号 

ぞくりとするような凄みがある。刃をしずかに研ぐ姿に、他人に左右されないつよさと揺るがない自負からなる作者を垣間見るようである。みずからを磨き、やがては「おほきな光」になろうとする意志もそこにはあるのかもしれない。

 

手に持ったパンが腕より長いこと抱きしめてはくれないのだパンは

/鈴木晴香「塔」2017年4月号

バゲットを抱えている。太さといい長さといい、ひとの腕のようだ。そう思ったときにふいにさびしさがこみあげてきたのだろう。下の句の昂ぶりがせつない。

 

うみたての卵をひとつエプロンのポケットの中に忘れてしまう

/高原さやか「塔」2017年4月号

うみたての卵、あるいはうみたての卵のように小さく、あたたかく、壊れやすいなにかを、とりあえず、としまったまま忘れてしまう。一首のなかには、日常生活のなかで何気なくとりこぼしていってしまうささやかなものへの哀惜がある。

 

思い出すときにあなたとその奥に降るぼたん雪、いつまでも冬

/川上まなみ「塔」2017年4月号

春はすぐそこにみえつつ降るぼたん雪。ふたりの時間はきっと、このぼたん雪の記憶の冬に永遠に留まりつづけるのだろう。

 

都会的抒情はたとえば屋上であらたな階段に出会うこと

水差しが傾くような礼をしてしずかなるバスに乗りゆくきみは

/石松佳「塔」2017年4月号

一首目、都会的抒情が作者のなかでまだ見ぬ屋上の階段のイメージにつながっていく。屋上や階段という場所をひとつのイメージとして読者にさしだすことにより、そこにさわやかな風が吹くようであり、またドラマを想像させる。

二首目、上句の喩がはかなくもきよらかでうつくしい。そしてそれゆえにそこはかとないせつなさがただよう。 

 

塔4月号作品1より

とりあへず、と前置きすること多くなるあなたと暮らし始めた冬は

田中律子「塔」2017年4月号 

ふたりで暮らしはじめたことによりあらたに必要となるもの、そのひとつひとつに十分ではないけれどさしあたって困らないように対処していくのだろう。いずれもっとよりよいものにしましょうね、などと言いながら。ふたつの暮らしをひとつにするために、ときに歩み寄りときになにかを諦めながら。

 

ラテン語で「鳥」という名をもつバーのよくみがかれた開かない小窓

/白水麻衣「塔」2017年4月号 

よくみがかれた窓は空を映すだろう。けれどそれは開かない小窓。「鳥」という名をもつこのバーがまるで鳥籠のように思えてくる。大空を自由に羽ばたきたいと願いつつ、不自由を抱えながら地上に生きるひとたちがそれぞれの傷みを持ち寄りやってくる、バーという仄暗く小さな空間はそんな場所なのかもしれない。

 

寒かったまだ弱かったこのぼくに火を熾す術を教えてくれた

/荻原伸「塔」2017年4月号

一連の作品を読むと「教えてくれた」ひとはお祖父さん。「火」は実際の火のようにも象徴的な火のようにも思える。まだか弱い存在であった「ぼく」にとって、祖父とは生きていくうえでみずからの芯となるようなことを教えてくれたひとだったのだろう。そして祖父の存在そのものが今も主体の心の奥底に灯火のようにともっているのだろう。一首にはあたたかな思いがあふれている。

 

秋よりも記憶の浅い祖母の老い わたしは祖母をとりこぼしそう

「おばあちゃんはどうせ判ってないんやし」わたしの口が母の背にいう

/永田愛「塔」2017年4月号

一首目、祖母の老いを「秋よりも記憶の浅い」という感覚的な把握により表現して心に残る。二首目、「わたしが」ではなく「わたしの口が」そう言うのである。「わたしの口」からでたその言葉にはっとし、傷ついているのはほかでもない「わたし」自身であるだろう。祖母を「とりこぼしそう」になりつつあらがう作者である。