塔4月号作品1より
とりあへず、と前置きすること多くなるあなたと暮らし始めた冬は
/田中律子「塔」2017年4月号
ふたりで暮らしはじめたことによりあらたに必要となるもの、そのひとつひとつに十分ではないけれどさしあたって困らないように対処していくのだろう。いずれもっとよりよいものにしましょうね、などと言いながら。ふたつの暮らしをひとつにするために、ときに歩み寄りときになにかを諦めながら。
ラテン語で「鳥」という名をもつバーのよくみがかれた開かない小窓
/白水麻衣「塔」2017年4月号
よくみがかれた窓は空を映すだろう。けれどそれは開かない小窓。「鳥」という名をもつこのバーがまるで鳥籠のように思えてくる。大空を自由に羽ばたきたいと願いつつ、不自由を抱えながら地上に生きるひとたちがそれぞれの傷みを持ち寄りやってくる、バーという仄暗く小さな空間はそんな場所なのかもしれない。
寒かったまだ弱かったこのぼくに火を熾す術を教えてくれた
/荻原伸「塔」2017年4月号
一連の作品を読むと「教えてくれた」ひとはお祖父さん。「火」は実際の火のようにも象徴的な火のようにも思える。まだか弱い存在であった「ぼく」にとって、祖父とは生きていくうえでみずからの芯となるようなことを教えてくれたひとだったのだろう。そして祖父の存在そのものが今も主体の心の奥底に灯火のようにともっているのだろう。一首にはあたたかな思いがあふれている。
秋よりも記憶の浅い祖母の老い わたしは祖母をとりこぼしそう
「おばあちゃんはどうせ判ってないんやし」わたしの口が母の背にいう
/永田愛「塔」2017年4月号
一首目、祖母の老いを「秋よりも記憶の浅い」という感覚的な把握により表現して心に残る。二首目、「わたしが」ではなく「わたしの口が」そう言うのである。「わたしの口」からでたその言葉にはっとし、傷ついているのはほかでもない「わたし」自身であるだろう。祖母を「とりこぼしそう」になりつつあらがう作者である。
塔4月号月集より
白梅は見にゆかぬまま 読まざりしページのように日々の過ぎゆく
/吉川宏志「塔」2017年4月号
読まなかったページとは、気にしつつ、その存在を意識しつつ、それでもなんらかの理由により読まなかった、読めなかったページであり、気にかけつつ見に行かなかった白梅はまさにそんな存在のひとつである。ひとは沢山の可能性、選択肢のなかからひとつを選んで生きてゆくしかないが、そこから零れたものはときとして選んだものよりも大きな存在感を放つものかもしれない。
死を悼むは因縁浅きひとばかりさざなみのまぶしくて目を閉づ
/真中朋久「塔」2017年4月号
人間関係の、ときとしてほろ苦い一面を見抜くまなざしは透徹している。そして目の前にひろがるさざなみのまぶしさに「目を閉づ」行為は、同時にそのほろ苦さをみずからの奥深くへ受容するかのようである。
ダム堤にクリスマスツリー点されて水底の村明滅なせり
/小林幸子「塔」2017年4月号
ダム湖の水面にクリスマスツリーの灯りが映るのを見つめつつ、主体が見つめているものはかつてその湖底に沈められる運命をたどった村である。目に見えないものを見つめるまなざしはせつないまでにしずかである。
追ふ雪が追はれる雪になりて降る幾千の黙窓に満ちたり(黙:もだ)
/澤村斉美「塔」2017年4月号
地上へとさきに降りゆく雪を追うようにして降る雪は、さらにあとから降りくる雪に追われる存在となる。自明のことでありながら普遍的な意味のひろがりを思わせる上句である。ひとつとしてその原理をくつがえすことなく窓一面降りつづく雪は粛々としてどこまでもしずかである。
人と呼びあなたと呼びぬ風景を漉きかえす指に触れたるときは
/山下泉「塔」2017年4月号
一首鑑賞〈青いながぐつ〉
雪の中とりのこされた靴がある子どものための青いながぐつ
/安田茜「default 」
雪のなかにとりのこされた青い長靴は、たとえば雪をみればうれしくてあとさきも考えず飛び出していった幼さそのもののように、あるいはそんな子を案じつつ見守る親心ように、なつかしく、うつくしく、そこにある。けれど、おそらく主体は長靴に触れることはない。ただみつめるだけである。触れることが躊躇われるのだと、そんな気がする。
真っ白な雪のなかにぽつんとある青い長靴が放つ存在感、長靴にそそがれるまなざしの透明感、そしてそのまなざしが感じているであろう喪失感。そうしたものが、徹底的にそぎ落とされた文体のなかにきわだっている。
葛原妙子歌集『葡萄木立』より
水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき
水面にぐぐっと接近した、的確にして無駄のない景の把握。そしてそれにより、魚が跳ねた、というだけにとどまらない雰囲気が醸しだされる。
「この歌は、ことばが発見する景の新鮮さという点において、事象にたいする認識の角度の位置のとりかたにおいて、葛原妙子という歌人を思うときに先ずわたしの心に浮かんでくる歌である。」と、全歌集の栞の中で河野裕子は述べている。
たれかいま眸を洗へる 夜の更に をとめごの黑き眸流れたり
幻視の歌人と呼ばれる作者ゆえ、眸や見ることをモチーフにした歌がたくさんある中で、「流失」というタイトルの一連の最後に置かれ、印象的な歌である。ひとつ前には〈水栓をひらきて流失をたのしめるうつくしき水勢深夜に響く〉があり、その流れの中にあるのだろうと思われる。みずからの手を水の流れに浸しつつ、誰かの、おとめごの、眸を思うのだろう。怖くてうつくしい一首である。
硝子戸に鍵かけてゐるふとむなし月の夜の硝子に鍵かけること
しらじらとかがやく月なのだろう。それは、硝子戸に鍵をかけたからといってそれが隔てにはならない、心をつかまえにきて離さない、それほどにうつくしい月。そのうつくしさの前に、主体は無抵抗である。
飮食ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し(飮食:おんじき)
〈晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて〉と同じ一連にある歌である。
晩夏のひかりもかげりをみせる夕方に、ただ空壜として置かれている壜を見ている。それは人間の日々の営みがそこにあったこと、そしてその飲食はもはや過去のものであることの証しである。主体は生そのものの痛ましさの象徴として見ているのだろうか。あるいは空壜に時間そのものをみているのだろうか。まなざしは透徹している。
天秤の目盛のかげにわがみたり死をよそほへるうつくしき秋を
天秤へとしずかに秋の日射しがさしているのだろう。天秤の目盛の影が落ちている。主体はそこに、ほかでもない秋という季節のどこか耽美的なうつくしさを見い出す。医師の妻である作者にとって天秤とは身近なものだったのかもしれないけれど、天秤の目盛という具体の選びかたがよく、だからこそ醸しだされる雰囲気がある。
葛原妙子歌集『原牛』より
あやまちて切りしロザリオ轉がりし玉のひとつひとつ皆薔薇
ロザリオの糸が切れて手元から転がっていくいくつもの珠が、薔薇の花へと姿を変える、そのさまが美しく目に浮かぶ。ロザリオは聖母マリアへの祈りの場面で身につけるものであり、薔薇は聖母マリアの象徴であるが、そのロザリオを「あやまちて切りし」ことにあまり意味をもたせなくてもよいのかもしれない。四句が六音になっていて、その欠落感が一首に緊張感をもたらし、まるで変容への前触れのようである。
ひとひらの手紙を封じをはりしが水とパンあるゆふぐれありき
なぜだろう、この歌が心に残る。手紙を書くというしずかな行為、ゆうぐれという時間、水とパンというキリスト教を思わせるもの、それらが〈清貧〉という言葉を思わせる。
築城はあなさびし もえ上る焰のかたちをえらびぬ
幻視の歌人と呼ばれる作者には、城というものが根源的に抱える滅びの宿命が見えてしまうのだろう。幻視とはないものがあるように見える、ということにとどまらず、ものごとの本質を暴力的に掴みとることでもあるのだと思う。
一首は三句欠落ととらえればよいのだろうか、全体として破調である。これほどの破調が必要であるのか、とは思う。けれど、少なくともこの一首においては、口に出して読んだときに不思議と違和感がなく、言葉の選択という意味においても、これ以上でもこれ以下でもなく、この形なのだろうと思う。ちなみに、私が読むときには、三句欠落というよりも〈築城はあなさびし、、もえ上る焰のかたちをえらびぬ、、、〉のように読んでしまうのだけれど。
噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々たりきらめける冬の浪費よ(凛々:りり)
「冬の浪費」がいいなあと思う。「冬の浪費」こそ噴水の本質であり、公園の噴水、とりわけ冬の噴水に心惹かれてしまうのは、それが「冬の浪費」であるからなのだろう。
片眸を閉づるときしもさびしきわれの鼻梁はわれに見えくる(眸:まみ)
眸を(この場合は片眸を)つむったときにはじめて見えてくるものがある。
ここでいうさびしさは、普段は見えないものが見えてしまったときにはっと兆す感情、そして自分が自分であることの、えもいわれぬさびしさ、という感じだろうか。「われの鼻梁は」「われに見えくる」という「われ」のリフレインにより、鼻梁をつきつけられるような心理的効果がうまれている。
塔2月号永田淳選歌欄評に
縁うすきグラスをひとつ拭きあげてさびしさは指さきからくるもの
/中田明子「塔」2016年12月号
グラスを拭いているときは、指先に意識が向かう。文字を書いているときや毛糸を編んでいるときもそうだ。作者の「さびしさは指さきからくるもの」という見解に妙に納得したのは、私だけではないだろう。
(評:杉田奈穂さん)
ありがとうございました。
塔2月号若葉集より
泣いている理由は言わず人型を満たせるように子の育ちゆく
/八木佐織「塔」2017年2月号
思春期の子だろう。感情の襞をどんどん増やしつつ、けれど言葉数の少なくなるこの時期の子どもというのはまさしくこんな感じなのだろう。巧みな比喩だと思う。
たけなわのときを経てみな終わりゆく木犀かおる祭りの宵も
/紫野春「塔」2017年2月号
上句は箴言的な感じもするが、それが木犀のかおる季節の祭りの賑わいが終わってゆく夜のさみしさであるところがいいなと思う。木犀のかおりというところに読者の嗅覚も働き、祭りの匂い、祭りが終わったあとの匂いをも連想させ、さみしさが手触りをもつ。
ムーン・リバー どんな名前で呼ばれてもわたしのこととすぐに分かった
/稲本友香「塔」2017年2月号
不思議な雰囲気をまとう。「ムーン・リバー」とだけある初句、映画の、あの曲を聴いているのだろうか。それとも文字どおり月のひかりが川面に映ってひとすじの道のようになるその情景のことを言っているのだろうか。いずれにしても情感のあるその雰囲気のなかで、主体は自分が呼ばれたことを感じとる。名を呼ぶそのひとと主体の想いの往還をも想像させ、余韻の残る一首。
しろがねの匙のくぼみにひつそりと古き木枠の窓しづみをり
/岡部かずみ「塔」2017年2月号
銀色の匙のくぼみの部分に窓の木枠が映っているその景を描写しつつ、 そこに静謐な時間が流れていることをも思わせる。「ひっそりと」はだめ押しになっているかも。