一首鑑賞〈青いながぐつ〉
雪の中とりのこされた靴がある子どものための青いながぐつ
/安田茜「default 」
雪のなかにとりのこされた青い長靴は、たとえば雪をみればうれしくてあとさきも考えず飛び出していった幼さそのもののように、あるいはそんな子を案じつつ見守る親心ように、なつかしく、うつくしく、そこにある。けれど、おそらく主体は長靴に触れることはない。ただみつめるだけである。触れることが躊躇われるのだと、そんな気がする。
真っ白な雪のなかにぽつんとある青い長靴が放つ存在感、長靴にそそがれるまなざしの透明感、そしてそのまなざしが感じているであろう喪失感。そうしたものが、徹底的にそぎ落とされた文体のなかにきわだっている。
葛原妙子歌集『葡萄木立』より
水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき
水面にぐぐっと接近した、的確にして無駄のない景の把握。そしてそれにより、魚が跳ねた、というだけにとどまらない雰囲気が醸しだされる。
「この歌は、ことばが発見する景の新鮮さという点において、事象にたいする認識の角度の位置のとりかたにおいて、葛原妙子という歌人を思うときに先ずわたしの心に浮かんでくる歌である。」と、全歌集の栞の中で河野裕子は述べている。
たれかいま眸を洗へる 夜の更に をとめごの黑き眸流れたり
幻視の歌人と呼ばれる作者ゆえ、眸や見ることをモチーフにした歌がたくさんある中で、「流失」というタイトルの一連の最後に置かれ、印象的な歌である。ひとつ前には〈水栓をひらきて流失をたのしめるうつくしき水勢深夜に響く〉があり、その流れの中にあるのだろうと思われる。みずからの手を水の流れに浸しつつ、誰かの、おとめごの、眸を思うのだろう。怖くてうつくしい一首である。
硝子戸に鍵かけてゐるふとむなし月の夜の硝子に鍵かけること
しらじらとかがやく月なのだろう。それは、硝子戸に鍵をかけたからといってそれが隔てにはならない、心をつかまえにきて離さない、それほどにうつくしい月。そのうつくしさの前に、主体は無抵抗である。
飮食ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し(飮食:おんじき)
〈晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて〉と同じ一連にある歌である。
晩夏のひかりもかげりをみせる夕方に、ただ空壜として置かれている壜を見ている。それは人間の日々の営みがそこにあったこと、そしてその飲食はもはや過去のものであることの証しである。主体は生そのものの痛ましさの象徴として見ているのだろうか。あるいは空壜に時間そのものをみているのだろうか。まなざしは透徹している。
天秤の目盛のかげにわがみたり死をよそほへるうつくしき秋を
天秤へとしずかに秋の日射しがさしているのだろう。天秤の目盛の影が落ちている。主体はそこに、ほかでもない秋という季節のどこか耽美的なうつくしさを見い出す。医師の妻である作者にとって天秤とは身近なものだったのかもしれないけれど、天秤の目盛という具体の選びかたがよく、だからこそ醸しだされる雰囲気がある。
葛原妙子歌集『原牛』より
あやまちて切りしロザリオ轉がりし玉のひとつひとつ皆薔薇
ロザリオの糸が切れて手元から転がっていくいくつもの珠が、薔薇の花へと姿を変える、そのさまが美しく目に浮かぶ。ロザリオは聖母マリアへの祈りの場面で身につけるものであり、薔薇は聖母マリアの象徴であるが、そのロザリオを「あやまちて切りし」ことにあまり意味をもたせなくてもよいのかもしれない。四句が六音になっていて、その欠落感が一首に緊張感をもたらし、まるで変容への前触れのようである。
ひとひらの手紙を封じをはりしが水とパンあるゆふぐれありき
なぜだろう、この歌が心に残る。手紙を書くというしずかな行為、ゆうぐれという時間、水とパンというキリスト教を思わせるもの、それらが〈清貧〉という言葉を思わせる。
築城はあなさびし もえ上る焰のかたちをえらびぬ
幻視の歌人と呼ばれる作者には、城というものが根源的に抱える滅びの宿命が見えてしまうのだろう。幻視とはないものがあるように見える、ということにとどまらず、ものごとの本質を暴力的に掴みとることでもあるのだと思う。
一首は三句欠落ととらえればよいのだろうか、全体として破調である。これほどの破調が必要であるのか、とは思う。けれど、少なくともこの一首においては、口に出して読んだときに不思議と違和感がなく、言葉の選択という意味においても、これ以上でもこれ以下でもなく、この形なのだろうと思う。ちなみに、私が読むときには、三句欠落というよりも〈築城はあなさびし、、もえ上る焰のかたちをえらびぬ、、、〉のように読んでしまうのだけれど。
噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々たりきらめける冬の浪費よ(凛々:りり)
「冬の浪費」がいいなあと思う。「冬の浪費」こそ噴水の本質であり、公園の噴水、とりわけ冬の噴水に心惹かれてしまうのは、それが「冬の浪費」であるからなのだろう。
片眸を閉づるときしもさびしきわれの鼻梁はわれに見えくる(眸:まみ)
眸を(この場合は片眸を)つむったときにはじめて見えてくるものがある。
ここでいうさびしさは、普段は見えないものが見えてしまったときにはっと兆す感情、そして自分が自分であることの、えもいわれぬさびしさ、という感じだろうか。「われの鼻梁は」「われに見えくる」という「われ」のリフレインにより、鼻梁をつきつけられるような心理的効果がうまれている。
塔2月号永田淳選歌欄評に
縁うすきグラスをひとつ拭きあげてさびしさは指さきからくるもの
/中田明子「塔」2016年12月号
グラスを拭いているときは、指先に意識が向かう。文字を書いているときや毛糸を編んでいるときもそうだ。作者の「さびしさは指さきからくるもの」という見解に妙に納得したのは、私だけではないだろう。
(評:杉田奈穂さん)
ありがとうございました。
塔2月号若葉集より
泣いている理由は言わず人型を満たせるように子の育ちゆく
/八木佐織「塔」2017年2月号
思春期の子だろう。感情の襞をどんどん増やしつつ、けれど言葉数の少なくなるこの時期の子どもというのはまさしくこんな感じなのだろう。巧みな比喩だと思う。
たけなわのときを経てみな終わりゆく木犀かおる祭りの宵も
/紫野春「塔」2017年2月号
上句は箴言的な感じもするが、それが木犀のかおる季節の祭りの賑わいが終わってゆく夜のさみしさであるところがいいなと思う。木犀のかおりというところに読者の嗅覚も働き、祭りの匂い、祭りが終わったあとの匂いをも連想させ、さみしさが手触りをもつ。
ムーン・リバー どんな名前で呼ばれてもわたしのこととすぐに分かった
/稲本友香「塔」2017年2月号
不思議な雰囲気をまとう。「ムーン・リバー」とだけある初句、映画の、あの曲を聴いているのだろうか。それとも文字どおり月のひかりが川面に映ってひとすじの道のようになるその情景のことを言っているのだろうか。いずれにしても情感のあるその雰囲気のなかで、主体は自分が呼ばれたことを感じとる。名を呼ぶそのひとと主体の想いの往還をも想像させ、余韻の残る一首。
しろがねの匙のくぼみにひつそりと古き木枠の窓しづみをり
/岡部かずみ「塔」2017年2月号
銀色の匙のくぼみの部分に窓の木枠が映っているその景を描写しつつ、 そこに静謐な時間が流れていることをも思わせる。「ひっそりと」はだめ押しになっているかも。
塔2月号作品2より②
夢のなかの金魚はレプリカわれら姉妹幼く餌をちらしてゐたり
/千村久仁子「塔」2017年2月号
亡くなられた妹さんをたびたび詠まれる作者。この歌も妹を思う心が見せた夢だったのだろう。夢であるということ、まして金魚がレプリカであることに言いようのないさびしさがにじむ。
大空より鳥籠のごときを被さるる一と月ありぬ脱出できず
/松原あけみ「塔」2017年2月号
八方ふさがりのような心持ちにじっと過ごしたひと月のこと、その閉塞感を喩える上句が魅力的。その景を想像するとうつくしくも暴力的である。
笑顔には魔除けの意味があるという埴輪の中のひそやかな闇
/高松紗都子「塔」2017年2月号
魔除けの意味をもたせて笑顔に作られた埴輪。そこには笑顔に作ることを求められた、それなりの理由があったはずであり、それは言ってみれば埴輪が内在的に抱える闇でもあるのだろう。そう言われてみると一見単純な埴輪の表情がとても複雑なものに思えてくる。
微睡みを知るように咲く花もあり、ジョルジュ・ルオーと意味もなく言う
/石松佳「塔」2017年2月号
明確に意味をとることはできないけれど、惹かれている。「微睡みを知るように咲く」のだという花のどこか気だるげな、どこか官能的なイメージ。そしてジョルジュ・ルオーと「意味もなく」言う、その感じ。両者は一見無関係に思われるけれど、もしかしたらどこかでゆるやかに結びついているのではないかと思える、その微妙な感じ。
にくむべき相手のいない冬である映画館にていねむりすれば
/安田茜「塔」2017年2月号
映画館でいねむりをするというのは、ある意味贅沢な時間の使い方である。そういう時間を過ごしてあらためて自分の心を見つめてみると、自分の心を乱すものは他人ではないのだと気づく。そうして主体の意識はより研ぎ澄まされつつ、自己へと向かっていくのかもしれない。
我を抱く人ゐなければ眼を閉ぢて世界に抱きとらるるを待つ(抱き:いだき)
/加茂直樹「塔」2017年2月号
さみしさの感じ方(なんて単純な言い方でよいのかとは思うけれど)、その対処の仕方の、スケールの大きさがいいなと思う。わたしもそんなふうに眼を閉じてみよう、と。
塔2月号作品2より
夫の引く線うつくしく交わればすべて機械は線から生まれる
/吉田典「塔」2017年2月号
設計図に描かれる線だろう。精密に描かれた設計図は、それ自体ひとつの芸術作品のようである。それが夫の手になるものであれば、それはなお一層うつくしく感じるのだろう。
否定から一番遠いものとしてホットミルクを両手に包む
/佐原亜子「塔」2017年2月号
ひとに否定される、あるいは自身が何かを否定してしまう、そのことに主体の心は痛んでいる。否定するという行為からみずからの心を匿うために、温かいミルクを両手に包み、心を立て直そうとするのだろう。
秋の陽をふかく吸うたび胸ぬちの影絵のきつねが目を覚ます
/小田桐夕「塔」2017年2月号
秋の陽のそのあたたかさを胸いっぱいに吸いこむとき、自分の中のなにかが目覚めるような気配がする。そのなにかを「影絵のきつね」といったところにやわらかい感性を思う。結句は五音からなり、二字分の空白がある。その二字分の空白に、はっきりと目が覚める前の、夢とうつつのあわいのあのふわふわとした時間の感触を思う。
水槽を影で包めばひらひらと呼び覚まされて金魚がうごく
/竹田伊波礼「塔」2017年2月号
水槽を包むように覆う自身の影と金魚が呼応した瞬間。景の描写に徹していながらその描写に詩情があり、一首全体が醸しだす雰囲気がある。
選ぶことに理由はあると沖の火に告げにゆく目の永久のきんいろ
/藤原明美「塔」2017年2月号
具体的なことはわからないけれど、みずからの選択する生を高らかに肯うかのようであり、意志の力を感じる。読みに迷いながらも心に残る一首。