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欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。〈西窓の欅の右へと日没の場所の移りて春が近づく〉

塔2月号永田淳選歌欄評に

縁うすきグラスをひとつ拭きあげてさびしさは指さきからくるもの

/中田明子「塔」2016年12月号 

グラスを拭いているときは、指先に意識が向かう。文字を書いているときや毛糸を編んでいるときもそうだ。作者の「さびしさは指さきからくるもの」という見解に妙に納得したのは、私だけではないだろう。

(評:杉田奈穂さん)

 

ありがとうございました。

 

塔2月号若葉集より

泣いている理由は言わず人型を満たせるように子の育ちゆく

/八木佐織「塔」2017年2月号 

思春期の子だろう。感情の襞をどんどん増やしつつ、けれど言葉数の少なくなるこの時期の子どもというのはまさしくこんな感じなのだろう。巧みな比喩だと思う。

 

たけなわのときを経てみな終わりゆく木犀かおる祭りの宵も

/紫野春「塔」2017年2月号 

上句は箴言的な感じもするが、それが木犀のかおる季節の祭りの賑わいが終わってゆく夜のさみしさであるところがいいなと思う。木犀のかおりというところに読者の嗅覚も働き、祭りの匂い、祭りが終わったあとの匂いをも連想させ、さみしさが手触りをもつ。

 

ムーン・リバー どんな名前で呼ばれてもわたしのこととすぐに分かった

/稲本友香「塔」2017年2月号 

不思議な雰囲気をまとう。「ムーン・リバー」とだけある初句、映画の、あの曲を聴いているのだろうか。それとも文字どおり月のひかりが川面に映ってひとすじの道のようになるその情景のことを言っているのだろうか。いずれにしても情感のあるその雰囲気のなかで、主体は自分が呼ばれたことを感じとる。名を呼ぶそのひとと主体の想いの往還をも想像させ、余韻の残る一首。 

 

しろがねの匙のくぼみにひつそりと古き木枠の窓しづみをり

/岡部かずみ「塔」2017年2月号

銀色の匙のくぼみの部分に窓の木枠が映っているその景を描写しつつ、 そこに静謐な時間が流れていることをも思わせる。「ひっそりと」はだめ押しになっているかも。

 

塔2月号作品2より②

夢のなかの金魚はレプリカわれら姉妹幼く餌をちらしてゐたり

/千村久仁子「塔」2017年2月号 

亡くなられた妹さんをたびたび詠まれる作者。この歌も妹を思う心が見せた夢だったのだろう。夢であるということ、まして金魚がレプリカであることに言いようのないさびしさがにじむ。

 

大空より鳥籠のごときを被さるる一と月ありぬ脱出できず

/松原あけみ「塔」2017年2月号 

八方ふさがりのような心持ちにじっと過ごしたひと月のこと、その閉塞感を喩える上句が魅力的。その景を想像するとうつくしくも暴力的である。

 

笑顔には魔除けの意味があるという埴輪の中のひそやかな闇

/高松紗都子「塔」2017年2月号

魔除けの意味をもたせて笑顔に作られた埴輪。そこには笑顔に作ることを求められた、それなりの理由があったはずであり、それは言ってみれば埴輪が内在的に抱える闇でもあるのだろう。そう言われてみると一見単純な埴輪の表情がとても複雑なものに思えてくる。

 

微睡みを知るように咲く花もあり、ジョルジュ・ルオーと意味もなく言う

/石松佳「塔」2017年2月号

明確に意味をとることはできないけれど、惹かれている。「微睡みを知るように咲く」のだという花のどこか気だるげな、どこか官能的なイメージ。そしてジョルジュ・ルオーと「意味もなく」言う、その感じ。両者は一見無関係に思われるけれど、もしかしたらどこかでゆるやかに結びついているのではないかと思える、その微妙な感じ。

 

にくむべき相手のいない冬である映画館にていねむりすれば

/安田茜「塔」2017年2月号 

映画館でいねむりをするというのは、ある意味贅沢な時間の使い方である。そういう時間を過ごしてあらためて自分の心を見つめてみると、自分の心を乱すものは他人ではないのだと気づく。そうして主体の意識はより研ぎ澄まされつつ、自己へと向かっていくのかもしれない。 

 

我を抱く人ゐなければ眼を閉ぢて世界に抱きとらるるを待つ(抱き:いだき)

/加茂直樹「塔」2017年2月号

さみしさの感じ方(なんて単純な言い方でよいのかとは思うけれど)、その対処の仕方の、スケールの大きさがいいなと思う。わたしもそんなふうに眼を閉じてみよう、と。

 

塔2月号作品2より

夫の引く線うつくしく交わればすべて機械は線から生まれる

/吉田典「塔」2017年2月号 

設計図に描かれる線だろう。精密に描かれた設計図は、それ自体ひとつの芸術作品のようである。それが夫の手になるものであれば、それはなお一層うつくしく感じるのだろう。

 

否定から一番遠いものとしてホットミルクを両手に包む

/佐原亜子「塔」2017年2月号 

ひとに否定される、あるいは自身が何かを否定してしまう、そのことに主体の心は痛んでいる。否定するという行為からみずからの心を匿うために、温かいミルクを両手に包み、心を立て直そうとするのだろう。

 

秋の陽をふかく吸うたび胸ぬちの影絵のきつねが目を覚ます

/小田桐夕「塔」2017年2月号 

秋の陽のそのあたたかさを胸いっぱいに吸いこむとき、自分の中のなにかが目覚めるような気配がする。そのなにかを「影絵のきつね」といったところにやわらかい感性を思う。結句は五音からなり、二字分の空白がある。その二字分の空白に、はっきりと目が覚める前の、夢とうつつのあわいのあのふわふわとした時間の感触を思う。

 

水槽を影で包めばひらひらと呼び覚まされて金魚がうごく

/竹田伊波礼「塔」2017年2月号 

水槽を包むように覆う自身の影と金魚が呼応した瞬間。景の描写に徹していながらその描写に詩情があり、一首全体が醸しだす雰囲気がある。

 

選ぶことに理由はあると沖の火に告げにゆく目の永久のきんいろ

/藤原明美「塔」2017年2月号

具体的なことはわからないけれど、みずからの選択する生を高らかに肯うかのようであり、意志の力を感じる。読みに迷いながらも心に残る一首。

 

塔2月号作品1より

ゆうぐれは機内にも来てたのしんだ?と友に聞かれるような寂しさ

/朝井さとる「塔」2017年2月号 

「たのしんだ?と友に聞かれるような寂しさ」が印象的。たのしんだ?とあらためて聞かれ、ああどうだったのだろう自分は、と振りかえるときのうっすらとした不安感にも似た寂しさ。

 

傘を前に傾げてさすにがらあきの背を射るいく筋ものひかり(背:せな)

/白石瑞紀「塔」2017年2月号 

前から降りこんでくる雨を防ごうと傘を前に傾げて行くひとの、その背中はまるで無防備。その無防備な背中が夜の街のとりどりのひかりに照らされるのを見つめているのだろう、親愛の情を抱いて。四句、五句の句跨りにかすかなゆらぎを感じさせつつ、雨とひかりの相乗効果の美しい場面である。

 

遠く暮す子にふれたがるてのひらに辿りゆくための窓ほどの地図

/しん子「塔」2017年2月号

ふれたいけれどふれられない、会いたいけれどなかなか会えないそのさみしさが、てのひらを地図へと向かわす。そのてのひらを受けとめるのは、窓ほどの大きさのある地図。その地図の中にてのひらを辿らせて会いにゆくのだろう。

 

夜の底に針山ありてひえびえと刺してゆくのは怒りとひかり

/澄田広枝「塔」2017年2月号

夜の底に見えるのは針山と主体ただひとり、あとはひえびえとした静寂があるのみ。その静寂のなか、針山に針を刺してゆく。怖さがありながらも心を掴まれる一首である。

 

三井修歌集『汽水域』

先日、カルチャーの仲間による『汽水域』出版のお祝い会がありました。

以下は、その際に10首選をしてお話しさせていただいた内容です。

 

◆若かりし頃を回顧する

井戸はまだとどめているや覗きたるまだ少年の我の素顔を(119)

若き日にヨルダン川にもとめたる聖水の壜乾き果てたり(197)

今回の第9歌集は、これまでの歌集と比べると重ねてきた齢に思いを馳せる場面が多く登場する。

一首目、これは故郷能登の、お庭の井戸だろうか。少年時代、多感な時期にことあるごとに覗きこんでいたであろう井戸の水面。誰にも言えない心のうちをそっとつぶやいしたりもしただろう。結句の「素顔を」がそんなことを思わせる。

二首目、長く中東に関わってきた作者にとって、当時この「聖水の壜」はお土産ものとして身近なものであり、そのひとつを購入し大切にしていたのだろう。その聖水もいまや「乾き果て」てしまったのだという。商社マンとしての働き盛りの時代を遠く懐かしみつつ時の流れに向けるまなざしを思う。

 

◆葛藤のなかを生きる

イスラムの祈りの姿見し夜の我の昂ぶり何故のもの(57)

戯れに言えりこの家に住まむとぞ その幾分かは戯れならず(97)

(戯:たわむ、家:や)

マウスなど殺めたりけむその手もて私の息子は幼な子を抱く(147)

人が生きていくうえでどうしようもなく抱えてしまう葛藤を、率直に詠んだものも目を引く。

一首目、宗教については誰しもこの感覚に共感をおぼえるだろう。中東という地で、宗教が争いの原因になっている現実を目の当たりにすることが多かったであろう作者を思えば、その切実さはなおさらである。

二首目、歌集のなかで、中東とともに欠かせないのが故郷能登、そして継ぎの母の存在である。この歌も下の句がどうにもならない現実とのはざまに作者の揺らぎを伝えてせつない。

三首目、これは実験用マウスのことだろう。医学の道にあるものとして当たり前の行いであるのだが、殺めたであろうその手で、というとき、その当たり前にぞくりとする。

 

◆与えられた生を全うする

地に咲きていたりしものを剪られきて十三階に香る白百合(54)

(剪:き)

翅持たぬ人間と犬地の上を拙く歩み花に近づく(179)

与えられた状況の中で、その状況に抗うことなく生きるものへとまなざしを向ける場面も多く登場する。

一首目、本当は地に咲いていたかっただろう白百合の花が、剪られてもなお十三階という場所で気高く香っている、その姿への心寄せがあるだろう。

二首目、蝶や蜂のように翅を持たない人や犬は花から花へ自由に飛び回ることはできない。それは拙い歩みである。けれどそれこそが与えられたみずからの生であり、拙い歩みは人生そのものである、と受容する作者の姿がそこにある。

 

◆みめぐりの事象を静謐な目でとらえる

納屋隅に架かる鉞一丁のごとき静けさ冬の夜更けて(28)

(鉞:まさかり)

古九谷の皿の中ゆく赤き雉三百年経てまだ皿を出ず(36)

境内の池の表は静かにて水占の紙一枚浮かぶ(193)

(水占:みなうら) 

一首目、冬の夜の静けさを納屋の隅の鉞の佇まいに例えて巧み。 

二首目、まるで雉が皿から出てくるのが前提のような言いぶりがおもしろい。作者の想像力がこのような表現を生みだすのだろう。

三首目、景そのものも静謐であるが、無駄のないゆったりとした韻律もまた静謐である。

 

最後に、好きな歌を。

早春の空に閃く命あり いとけなきものを鳥と呼びつつ(68)

 

 

塔1月号作品1より

赤色の物が机上に増えていく今年の秋は歩いてばかりで

/白水麻衣「塔」2017年1月号 

赤色の物...たとえば色づいた葉や木の実、あるいは...。 行く先々で手に入れたものが机の上に並べられているのだろう。歌の雰囲気はどこかさびしげで、あてどなく歩く日もあっただろうと思ってしまう。けれど机の上のその赤い何かはそのような日さえも大切な一日として刻んでゆくのだろう。

 

あかるいかくらいかと言へばくらい方 雨が好きだしゆふぐれも好き

/澄田広枝「塔」2017年1月号 

世の中一般に、暗いより明るい方がいいという既成概念のようなものがあるのを感じることがある。そして雨が好きで夕暮れが好きだといえば暗い方にに結びつけられやすいのだろう、ということも。それでも、雨が好きだし夕暮れも好きだと、作者はやわらかな口調で高らかに宣言する。そこには雨や夕暮れ、そしてそれを好ましく思う自分に対する肯定感があり、健やかな明るさがある。

 

悲しみと悲しさほどの差異持ちて二人微温の腕を寄せ合う

/小川和恵 「塔」2017年1月号

悲しみと悲しさの差異、そこにどれほどの差異があるだろう。どれほどの差異もないのかもしれない。しかし悲しみは「うちひしがれる」「沈む」などの語彙へとつづき、悲しさは「わけあう」などの語彙につづくだろうか、などと考えているとその差異は案外大きいもののようにも思えてくる。隣りにいてまして体温を寄せ合っても、ひとりはひとり。そのひとりとひとりが互いに寄り添おうとすることでしか距離は縮まらない。