塔2月号作品1より
ゆうぐれは機内にも来てたのしんだ?と友に聞かれるような寂しさ
/朝井さとる「塔」2017年2月号
「たのしんだ?と友に聞かれるような寂しさ」が印象的。たのしんだ?とあらためて聞かれ、ああどうだったのだろう自分は、と振りかえるときのうっすらとした不安感にも似た寂しさ。
傘を前に傾げてさすにがらあきの背を射るいく筋ものひかり(背:せな)
/白石瑞紀「塔」2017年2月号
前から降りこんでくる雨を防ごうと傘を前に傾げて行くひとの、その背中はまるで無防備。その無防備な背中が夜の街のとりどりのひかりに照らされるのを見つめているのだろう、親愛の情を抱いて。四句、五句の句跨りにかすかなゆらぎを感じさせつつ、雨とひかりの相乗効果の美しい場面である。
遠く暮す子にふれたがるてのひらに辿りゆくための窓ほどの地図
/しん子「塔」2017年2月号
ふれたいけれどふれられない、会いたいけれどなかなか会えないそのさみしさが、てのひらを地図へと向かわす。そのてのひらを受けとめるのは、窓ほどの大きさのある地図。その地図の中にてのひらを辿らせて会いにゆくのだろう。
夜の底に針山ありてひえびえと刺してゆくのは怒りとひかり
/澄田広枝「塔」2017年2月号
夜の底に見えるのは針山と主体ただひとり、あとはひえびえとした静寂があるのみ。その静寂のなか、針山に針を刺してゆく。怖さがありながらも心を掴まれる一首である。
三井修歌集『汽水域』
先日、カルチャーの仲間による『汽水域』出版のお祝い会がありました。
以下は、その際に10首選をしてお話しさせていただいた内容です。
◆若かりし頃を回顧する
井戸はまだとどめているや覗きたるまだ少年の我の素顔を(119)
若き日にヨルダン川にもとめたる聖水の壜乾き果てたり(197)
今回の第9歌集は、これまでの歌集と比べると重ねてきた齢に思いを馳せる場面が多く登場する。
一首目、これは故郷能登の、お庭の井戸だろうか。少年時代、多感な時期にことあるごとに覗きこんでいたであろう井戸の水面。誰にも言えない心のうちをそっとつぶやいしたりもしただろう。結句の「素顔を」がそんなことを思わせる。
二首目、長く中東に関わってきた作者にとって、当時この「聖水の壜」はお土産ものとして身近なものであり、そのひとつを購入し大切にしていたのだろう。その聖水もいまや「乾き果て」てしまったのだという。商社マンとしての働き盛りの時代を遠く懐かしみつつ時の流れに向けるまなざしを思う。
◆葛藤のなかを生きる
イスラムの祈りの姿見し夜の我の昂ぶり何故のもの(57)
戯れに言えりこの家に住まむとぞ その幾分かは戯れならず(97)
(戯:たわむ、家:や)
マウスなど殺めたりけむその手もて私の息子は幼な子を抱く(147)
人が生きていくうえでどうしようもなく抱えてしまう葛藤を、率直に詠んだものも目を引く。
一首目、宗教については誰しもこの感覚に共感をおぼえるだろう。中東という地で、宗教が争いの原因になっている現実を目の当たりにすることが多かったであろう作者を思えば、その切実さはなおさらである。
二首目、歌集のなかで、中東とともに欠かせないのが故郷能登、そして継ぎの母の存在である。この歌も下の句がどうにもならない現実とのはざまに作者の揺らぎを伝えてせつない。
三首目、これは実験用マウスのことだろう。医学の道にあるものとして当たり前の行いであるのだが、殺めたであろうその手で、というとき、その当たり前にぞくりとする。
◆与えられた生を全うする
地に咲きていたりしものを剪られきて十三階に香る白百合(54)
(剪:き)
翅持たぬ人間と犬地の上を拙く歩み花に近づく(179)
与えられた状況の中で、その状況に抗うことなく生きるものへとまなざしを向ける場面も多く登場する。
一首目、本当は地に咲いていたかっただろう白百合の花が、剪られてもなお十三階という場所で気高く香っている、その姿への心寄せがあるだろう。
二首目、蝶や蜂のように翅を持たない人や犬は花から花へ自由に飛び回ることはできない。それは拙い歩みである。けれどそれこそが与えられたみずからの生であり、拙い歩みは人生そのものである、と受容する作者の姿がそこにある。
◆みめぐりの事象を静謐な目でとらえる
納屋隅に架かる鉞一丁のごとき静けさ冬の夜更けて(28)
(鉞:まさかり)
古九谷の皿の中ゆく赤き雉三百年経てまだ皿を出ず(36)
境内の池の表は静かにて水占の紙一枚浮かぶ(193)
(水占:みなうら)
一首目、冬の夜の静けさを納屋の隅の鉞の佇まいに例えて巧み。
二首目、まるで雉が皿から出てくるのが前提のような言いぶりがおもしろい。作者の想像力がこのような表現を生みだすのだろう。
三首目、景そのものも静謐であるが、無駄のないゆったりとした韻律もまた静謐である。
最後に、好きな歌を。
早春の空に閃く命あり いとけなきものを鳥と呼びつつ(68)
塔1月号作品1より
赤色の物が机上に増えていく今年の秋は歩いてばかりで
/白水麻衣「塔」2017年1月号
赤色の物...たとえば色づいた葉や木の実、あるいは...。 行く先々で手に入れたものが机の上に並べられているのだろう。歌の雰囲気はどこかさびしげで、あてどなく歩く日もあっただろうと思ってしまう。けれど机の上のその赤い何かはそのような日さえも大切な一日として刻んでゆくのだろう。
あかるいかくらいかと言へばくらい方 雨が好きだしゆふぐれも好き
/澄田広枝「塔」2017年1月号
世の中一般に、暗いより明るい方がいいという既成概念のようなものがあるのを感じることがある。そして雨が好きで夕暮れが好きだといえば暗い方にに結びつけられやすいのだろう、ということも。それでも、雨が好きだし夕暮れも好きだと、作者はやわらかな口調で高らかに宣言する。そこには雨や夕暮れ、そしてそれを好ましく思う自分に対する肯定感があり、健やかな明るさがある。
悲しみと悲しさほどの差異持ちて二人微温の腕を寄せ合う
/小川和恵 「塔」2017年1月号
悲しみと悲しさの差異、そこにどれほどの差異があるだろう。どれほどの差異もないのかもしれない。しかし悲しみは「うちひしがれる」「沈む」などの語彙へとつづき、悲しさは「わけあう」などの語彙につづくだろうか、などと考えているとその差異は案外大きいもののようにも思えてくる。隣りにいてまして体温を寄せ合っても、ひとりはひとり。そのひとりとひとりが互いに寄り添おうとすることでしか距離は縮まらない。
塔1月号月集より
しなくてもいい結婚をして人は濡れてゆく草夜半の雨に
/澤村斉美「塔」2017年1月号
人生にはいくつも分かれ道があって、その都度ひとつの道を選びとっていく。そうして選んだ道はけして楽しいことばかりではない。けれど酸いも甘いもすべてを引き受けて人は生きてゆくのだ。夜半の雨を一身にうけて濡れてゆく草の姿に、そのかなしみが託されている。
陸と海をそこに置きつつ秋の日の硯はくろぐろしづまりてをり
/梶原さい子「塔」2017年1月号
硯の形状は言われてみればたしかに陸と海。墨を擦ると陸はしっとりと濡れて、海はその黒を深める。硯のもつ独特な存在感を見事にとらえた一首。そして「くろぐろとしづまりてをり」という把握がむしろその息遣いさえも感じさせ、この一首は硯にとどまらないひろがりをもつ。
おやすみってもう秋だからおやすみって合歓の赤い花にささやく
/藤田千鶴「塔」2017年1月号
合歓は夏の花であるにもかかわらず、思いのほかながく咲き続けているのを見かけることがある。秋になっても咲いている花をみるとなぜだろう、どこか痛々しい。そんな心情を童話のようなやわらかくあたたかな詠いぶりで表現している。
塔12月号選歌後記に
塔12月号選歌後記にとりあげていただきました。
小雨降る坂に尾灯のあかあかとのぼり詰めたるのちを消えたり
/中田明子「塔」2016年12月号
人を見送っているのだろうか。印象的なシーンを過不足なく歌う。結句の「を」が微妙な味わいを出しながらいい働きをしている。
(評・永田淳さん)
ありがとうございました。
塔12月号作品2より③
秋の日はおのづと人は向ひ合ひどこかでグラス触れる音する
/福田恭子「塔」2016年12月号
秋になると感じてしまう人恋しさ。「どこかで」という言葉により自分の感情から距離を置いたかたちであるが、それがかえって秋という季節のものがなしさを際立たせている。
近しいと感じる人がいない夜のスカイツリーは青き燈台
/山川仁帆「塔」2016年12月号
無性にさびしさを感じる夜、自分がこの世界をさまよう一艘のちいさな小舟になったような気がする。そんなときにはいつも見慣れているはずのスカイツリーの、孤高ともいうべき雰囲気にあらためて近しさを感じる。みずからのゆくてを照らし、よりどころとなる「燈台」のような存在に思えるのだろう。
塔12月号作品2より②
いつまでの暑さであらう贄のごとき影をわたしは街路へおとす
/千村久仁子「塔」2016年12月号
日射しを遮るものはなにもない日盛りの道にたったひとりで立っている。日傘をさすこともなくつよい日射しに灼かれるままに。「贄のごとき」という喩にそんな白昼に主体がつのらせているであろう孤独を思う。
雨垂れの朝に目覚めて身体よりぬけたるものの気配さびしむ
/濱松哲朗「塔」2016年12月号
昨夜、昂りを抱えたまま眠ったのに雨垂れの音を聞きつつ目覚めてみれば、時間と雨とが昂りを冷ましてしまったのだろう、自分がすこし落ち着いていることに気づく。それはちょっとさびしい。雨の朝のアンニュイな雰囲気をとらえて巧み。
驟雨とはやさしき雨とおもいたり ひとは集いてバス停に待つ
/小林貴文「塔」2016年12月号
たしかに、それが「驟雨」であったからこそ、「ひとは集いて」という感覚になるのだろう。早く早く、この屋根の下におはいりなさい、という具合に。これが降り続いている雨であったらひとは各々の傘に雨を避けながらバス停に来るのであって、バス停の雰囲気はまったくちがっているはずである。驟雨へのささやかで温かい気づきである。
柘榴の実はじける季節に(わがままは悪)妹は未熟児だった
/川上まなみ「塔」2016年12月号
妹が生まれたとき、主体はもうききわけのある年齢で、妹のことで手いっぱいの両親にわがままをいうことは悪いことなのだとみづからに言い聞かせていたのだろう。そのときのさびしさが主体のなかに痛みとして今も生き続けている。ふだんは忘れているその痛みがつんと湧いてくるのだろう、柘榴の実がはじける頃に。