塔1月号月集より
しなくてもいい結婚をして人は濡れてゆく草夜半の雨に
/澤村斉美「塔」2017年1月号
人生にはいくつも分かれ道があって、その都度ひとつの道を選びとっていく。そうして選んだ道はけして楽しいことばかりではない。けれど酸いも甘いもすべてを引き受けて人は生きてゆくのだ。夜半の雨を一身にうけて濡れてゆく草の姿に、そのかなしみが託されている。
陸と海をそこに置きつつ秋の日の硯はくろぐろしづまりてをり
/梶原さい子「塔」2017年1月号
硯の形状は言われてみればたしかに陸と海。墨を擦ると陸はしっとりと濡れて、海はその黒を深める。硯のもつ独特な存在感を見事にとらえた一首。そして「くろぐろとしづまりてをり」という把握がむしろその息遣いさえも感じさせ、この一首は硯にとどまらないひろがりをもつ。
おやすみってもう秋だからおやすみって合歓の赤い花にささやく
/藤田千鶴「塔」2017年1月号
合歓は夏の花であるにもかかわらず、思いのほかながく咲き続けているのを見かけることがある。秋になっても咲いている花をみるとなぜだろう、どこか痛々しい。そんな心情を童話のようなやわらかくあたたかな詠いぶりで表現している。
塔12月号選歌後記に
塔12月号選歌後記にとりあげていただきました。
小雨降る坂に尾灯のあかあかとのぼり詰めたるのちを消えたり
/中田明子「塔」2016年12月号
人を見送っているのだろうか。印象的なシーンを過不足なく歌う。結句の「を」が微妙な味わいを出しながらいい働きをしている。
(評・永田淳さん)
ありがとうございました。
塔12月号作品2より③
秋の日はおのづと人は向ひ合ひどこかでグラス触れる音する
/福田恭子「塔」2016年12月号
秋になると感じてしまう人恋しさ。「どこかで」という言葉により自分の感情から距離を置いたかたちであるが、それがかえって秋という季節のものがなしさを際立たせている。
近しいと感じる人がいない夜のスカイツリーは青き燈台
/山川仁帆「塔」2016年12月号
無性にさびしさを感じる夜、自分がこの世界をさまよう一艘のちいさな小舟になったような気がする。そんなときにはいつも見慣れているはずのスカイツリーの、孤高ともいうべき雰囲気にあらためて近しさを感じる。みずからのゆくてを照らし、よりどころとなる「燈台」のような存在に思えるのだろう。
塔12月号作品2より②
いつまでの暑さであらう贄のごとき影をわたしは街路へおとす
/千村久仁子「塔」2016年12月号
日射しを遮るものはなにもない日盛りの道にたったひとりで立っている。日傘をさすこともなくつよい日射しに灼かれるままに。「贄のごとき」という喩にそんな白昼に主体がつのらせているであろう孤独を思う。
雨垂れの朝に目覚めて身体よりぬけたるものの気配さびしむ
/濱松哲朗「塔」2016年12月号
昨夜、昂りを抱えたまま眠ったのに雨垂れの音を聞きつつ目覚めてみれば、時間と雨とが昂りを冷ましてしまったのだろう、自分がすこし落ち着いていることに気づく。それはちょっとさびしい。雨の朝のアンニュイな雰囲気をとらえて巧み。
驟雨とはやさしき雨とおもいたり ひとは集いてバス停に待つ
/小林貴文「塔」2016年12月号
たしかに、それが「驟雨」であったからこそ、「ひとは集いて」という感覚になるのだろう。早く早く、この屋根の下におはいりなさい、という具合に。これが降り続いている雨であったらひとは各々の傘に雨を避けながらバス停に来るのであって、バス停の雰囲気はまったくちがっているはずである。驟雨へのささやかで温かい気づきである。
柘榴の実はじける季節に(わがままは悪)妹は未熟児だった
/川上まなみ「塔」2016年12月号
妹が生まれたとき、主体はもうききわけのある年齢で、妹のことで手いっぱいの両親にわがままをいうことは悪いことなのだとみづからに言い聞かせていたのだろう。そのときのさびしさが主体のなかに痛みとして今も生き続けている。ふだんは忘れているその痛みがつんと湧いてくるのだろう、柘榴の実がはじける頃に。
塔12月号作品2より
夏だけに流れる川があることを告げてふしぎを君と分けあう
/高松紗都子「塔」2016年12月号
「ふしぎを君と分けあう」というフレーズ、そしてその不思議がたとえ知らないままでもさしさわりのないような、そういう類いの不思議であることがこの一首のやわらかさとなっている。まるで少年と少女がささやかな秘密を分けあうように。でも、夏だけに流れる川ってどこにあるんだろう。
はちみつの垂るる速度のなめらかさ こんなふうにゆるしたらよかつた
/小田桐夕「塔」2016年12月号
蜂蜜のとろうりとゆっくり垂れていくあの感じ、お皿あるいはトーストの上に落ちるときもあくまでもソフトランディング。一方で人を赦せるようになるまでにはさまざまな葛藤があるもの。赦し方がわからずそのまま関係が絶たれてしまうことだってある。たしかに蜂蜜の垂れる速度の「なめらかさ」とは対極かも。
サンダルを提げて裸足で帰りたり海だねほったらかしの海だね
/小川ちとせ「塔」2016年12月号
「ほったらかしの海」.......!海の雄大さや日暮れて帰るときの言いようのないものがなしさを、生き生きとした口語で言いあてている。文語の文体のなかに口語の会話口調を挿入しているが、この場合はそれが口語をより生き生きとさせている。
さりげない永遠ひとつ手に入れて横断歩道のまえでわかれる
/田村龍平「塔」2016年12月号
具体的なことはわからないけれどこの一首のなかには明るさがある。なにかしらの確かさを確信して相手と別れ自分の道を歩きはじめる、その明るさがいいなと思う。
偶数のいちじく選ぶ奇数でもよかったんだとレジにて気づく
/谷口美生「塔」2016年12月号
なにかを買うときには偶数買うことが習慣として染みついている。けれど家族のうちの誰かが家を巣立っていったということだろうか、今は奇数でよいことにあとになって気づく。淡々とした語り口であるのが一層せつない。
塔12月号作品1より
父と子を隔てる硝子のようなものわれは磨きて夏を過ごせり
/橋本恵美「塔」2016年12月号
夫であり父である人とおそらく思春期のわが子との間にある「硝子のような」距離。傍からはわからなくても妻であり母である主体には痛いほどわかる。けれど直接的にはたらきかけるのではない。祈りをこめ硝子を丁寧に磨くようにして日々をふたりの間にいるのである。親子の繊細な部分を切りとり、抒情ある一首。
傘とじて最終バスに乗りこめばすべり出すなりこの黒い船
/宮地しもん「塔」2016年12月号
深夜の最終バスはどこか不思議な雰囲気がある。ほかの乗客と運命をともにしつつどこか見知らぬ場所へ向かっていくようなほの暗さ、それは昼間には感じることのない雰囲気である。しかも雨の夜。バスはなるほど夜の海に漕ぎだす「黒い船」にみえてくる。
渡りゆく鳥にきのうがあったとも思わないただ車をとめる
/荻原伸「塔」2016年12月号
車をとめてながめずにはいられないほど、鳥のゆくその光景に心を奪われたのだろう。上句は意味をとりにくいが、感傷的になっているわけではないのだということを前置きするものだろう。そう前置きすることにより主体の感動の大きさを伝えようとするのだろう。
もう月に帰ると言へばうなづきてそんなふうなる別れがしたい
/澄田広枝「塔」2016年12月号
実際には取り乱してしまいそうになるほどのかなしみなのだろう。けれどかなしみがきわまるところでなお相手を想うからこそうまれる感情がある。やわらかい文体でつぶやくように表現しているところがいい。
残されて風となりゆく真昼間のただひろびろと初秋の駅に
/沢田麻佐子 「塔」2016年12月号
駅は初秋の昼をあたたかくのんびりとしているのに、「ただひろびろと」という四句があるためだろうか、どこかあてどないさびしさがただよう。なにから「残され」るのかはわからない。老いゆく母を想うのかもしれない。あるいはこの昼がそういう感情を呼びおこすのかもしれない。日常のあらゆるさびしさを胸に、目を閉じて風を感じている。そのひとときだけは日常から離れ、まるで風そのものになるかのように。
睡蓮の鉢に空あり雀来てくちづけし後みづは残れり
/清水弘子 「塔」2016年12月号
睡蓮の鉢の水面に雀が触れたのだろう。ただそれだけのことではあるが、結句に「みづは残れり」とあえていうことにより、水の存在感がきわだつ。まるで雀が寄ってきたのは水面に空が映っていたからだというように、水はとり残されたのだというように。
一首鑑賞〈窓〉
でもきみの背後にいつも窓はあり咲いているその花の名は何
/錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』
恋人の背後にいつもあるという「窓」からみえるその「花」は、恋人の心のなかにある欲望や憧れの象徴だろう。その花は主体からは見えない。もしかしたら見たこともない種類の花かもしれない。愛する気持ちがつよければつよいほど恋人のすべてを知りたいと願うけれど、それはけしてたやすいことではない。
そして今日は眺めているだけの「花」だとしても、恋人はいつかそれを摘むためにその「窓」をあけ、主体のもとを去ってゆくかもしれない。主体がその日のくることを予感するのは、恋愛に翳りが生じているからではない。むしろ初句の「でも」は、あなたは誰よりも私を愛しているというけれど、ということであり、これはまさに恋愛のさなか。恋愛のさなかであるからこそ、痛々しくも浮き彫りになってゆく孤独がこの一首のなかには描かれている。