欅のみえる家から

中田明子(なかた あきこ)のブログ。心に響く短歌の備忘録。塔短歌会。

塔12月号作品2より

夏だけに流れる川があることを告げてふしぎを君と分けあう

/高松紗都子「塔」2016年12月号 

「ふしぎを君と分けあう」というフレーズ、そしてその不思議がたとえ知らないままでもさしさわりのないような、そういう類いの不思議であることがこの一首のやわらかさとなっている。まるで少年と少女がささやかな秘密を分けあうように。でも、夏だけに流れる川ってどこにあるんだろう。

 

はちみつの垂るる速度のなめらかさ こんなふうにゆるしたらよかつた

/小田桐夕「塔」2016年12月号  

蜂蜜のとろうりとゆっくり垂れていくあの感じ、お皿あるいはトーストの上に落ちるときもあくまでもソフトランディング。一方で人を赦せるようになるまでにはさまざまな葛藤があるもの。赦し方がわからずそのまま関係が絶たれてしまうことだってある。たしかに蜂蜜の垂れる速度の「なめらかさ」とは対極かも。

 

サンダルを提げて裸足で帰りたり海だねほったらかしの海だね

/小川ちとせ「塔」2016年12月号

「ほったらかしの海」.......!海の雄大さや日暮れて帰るときの言いようのないものがなしさを、生き生きとした口語で言いあてている。文語の文体のなかに口語の会話口調を挿入しているが、この場合はそれが口語をより生き生きとさせている。

 

さりげない永遠ひとつ手に入れて横断歩道のまえでわかれる

/田村龍平「塔」2016年12月号

具体的なことはわからないけれどこの一首のなかには明るさがある。なにかしらの確かさを確信して相手と別れ自分の道を歩きはじめる、その明るさがいいなと思う。

 

偶数のいちじく選ぶ奇数でもよかったんだとレジにて気づく

/谷口美生「塔」2016年12月号 

なにかを買うときには偶数買うことが習慣として染みついている。けれど家族のうちの誰かが家を巣立っていったということだろうか、今は奇数でよいことにあとになって気づく。淡々とした語り口であるのが一層せつない。

 

塔12月号作品1より

父と子を隔てる硝子のようなものわれは磨きて夏を過ごせり

/橋本恵美「塔」2016年12月号 

夫であり父である人とおそらく思春期のわが子との間にある「硝子のような」距離。傍からはわからなくても妻であり母である主体には痛いほどわかる。けれど直接的にはたらきかけるのではない。祈りをこめ硝子を丁寧に磨くようにして日々をふたりの間にいるのである。親子の繊細な部分を切りとり、抒情ある一首。

 

傘とじて最終バスに乗りこめばすべり出すなりこの黒い船

/宮地しもん「塔」2016年12月号 

深夜の最終バスはどこか不思議な雰囲気がある。ほかの乗客と運命をともにしつつどこか見知らぬ場所へ向かっていくようなほの暗さ、それは昼間には感じることのない雰囲気である。しかも雨の夜。バスはなるほど夜の海に漕ぎだす「黒い船」にみえてくる。 

 

渡りゆく鳥にきのうがあったとも思わないただ車をとめる

/荻原伸「塔」2016年12月号

車をとめてながめずにはいられないほど、鳥のゆくその光景に心を奪われたのだろう。上句は意味をとりにくいが、感傷的になっているわけではないのだということを前置きするものだろう。そう前置きすることにより主体の感動の大きさを伝えようとするのだろう。

 

もう月に帰ると言へばうなづきてそんなふうなる別れがしたい

/澄田広枝「塔」2016年12月号 

実際には取り乱してしまいそうになるほどのかなしみなのだろう。けれどかなしみがきわまるところでなお相手を想うからこそうまれる感情がある。やわらかい文体でつぶやくように表現しているところがいい。

 

残されて風となりゆく真昼間のただひろびろと初秋の駅に

/沢田麻佐子 「塔」2016年12月号 

駅は初秋の昼をあたたかくのんびりとしているのに、「ただひろびろと」という四句があるためだろうか、どこかあてどないさびしさがただよう。なにから「残され」るのかはわからない。老いゆく母を想うのかもしれない。あるいはこの昼がそういう感情を呼びおこすのかもしれない。日常のあらゆるさびしさを胸に、目を閉じて風を感じている。そのひとときだけは日常から離れ、まるで風そのものになるかのように。

 

睡蓮の鉢に空あり雀来てくちづけし後みづは残れり

清水弘子 「塔」2016年12月号 

睡蓮の鉢の水面に雀が触れたのだろう。ただそれだけのことではあるが、結句に「みづは残れり」とあえていうことにより、水の存在感がきわだつ。まるで雀が寄ってきたのは水面に空が映っていたからだというように、水はとり残されたのだというように。

 

一首鑑賞〈窓〉

でもきみの背後にいつも窓はあり咲いているその花の名は何

/錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』 

恋人の背後にいつもあるという「窓」からみえるその「花」は、恋人の心のなかにある欲望や憧れの象徴だろう。その花は主体からは見えない。もしかしたら見たこともない種類の花かもしれない。愛する気持ちがつよければつよいほど恋人のすべてを知りたいと願うけれど、それはけしてたやすいことではない。

そして今日は眺めているだけの「花」だとしても、恋人はいつかそれを摘むためにその「窓」をあけ、主体のもとを去ってゆくかもしれない。主体がその日のくることを予感するのは、恋愛に翳りが生じているからではない。むしろ初句の「でも」は、あなたは誰よりも私を愛しているというけれど、ということであり、これはまさに恋愛のさなか。恋愛のさなかであるからこそ、痛々しくも浮き彫りになってゆく孤独がこの一首のなかには描かれている。

 

一首鑑賞〈表情〉

降りる時うしなう表情よ そののちにバスはゆきたり風をうみつつ

/坂井ユリ「花器の欠片が散らばるごとく」『羽根と根』5号 

バスのなかで主体は誰かと話をしていたのだろうか。一首の雰囲気にはどこかさみしげな雰囲気が漂う。表情をうしなうとは意識してあるいは無意識につくっていた表情をほどくということだろう。バスを降り、表情をうしなうのは主体自身?それとも話していた相手だろうか?

「バスはゆきたり」という言いぶりは主体がバスを見送っている景を想像させる。そして相手の前で本当の自分を抑えていた息苦しさからの解放を。

だがバスを降りていったのは相手のほうであるかもしれない。自分と話していたときのたとえば楽しげな表情をすっと消してバスを降りていく相手の姿を見逃さず、主体はバスのなかからさみしく見ていたかもしれない。一字あけの時の間は、相手を見守る主体にとって、時間が長くながく感じられたことのあらわれであり、「バスはゆきたり」という言いぶりは、主体の心のありようとは別に現実の時間だけがさきに進んでいってしまう、そんな感覚かもしれない。そんなふうにも思う。

そしてバスは発車する。ふたりの距離を物理的にも心理的にも遠ざけてゆくように…。

さまざまにドラマを感じさせる一首である。

 

一連の作品のなかにはこのような歌もある。

表情をゆるめるように真顔なり別れはときに安堵でもある 

 

一首鑑賞〈渇く〉

皮膚すこしあざみに破り冬の野の生きて渇けるなかへ入りゆく

/小原奈実「錫の光」『穀物』第3号

この歌に不思議なほど心惹かれてしまう。

まず、上句において「腕」や「指」ではなく「皮膚」というところまで接近して描写することのなまなましさ。また「破」るという言葉は一般には紙や布につかうことが多いが、これを皮膚に対してつかうとき「傷つける」という場合よりもどこか残酷性を増す。

そして、冬の野が「生きて渇ける」ものだという把握も研ぎ澄まされている。ここでも「乾く」ではなく「渇」くという言葉をえらぶことにより、「乾く」よりもよりつよく潤いを求め、渇望するエネルギーのようなものが読者の前に提示される。そのエネルギーは冬の野のエネルギーであると同時に、皮膚を破ってもなおそのなかに歩みをすすめる主体そのもののエネルギーであり、それを炎にたとえるなら青白い炎のようである。

このように書きながらも一方では思ってしまう。静謐な描写のなかに秘められたこのひややかな熱量は、言葉で分析しようとしても遠ざかってしまう、ただしずかに味わえばいいのではないだろうか、と。

 

塔11月号若葉集より

繰り返すことにも飽きて何らかのリボンを結えない長さに裁った

/多田なの「塔」2016年11月号

よくも悪くも繰り返しにあふれる日常へのささやかな抵抗として、ふたたび結うことのかなわぬ長さにリボンを裁つという行為。どうにもならないことへの苛立ちと痛み。

 

前輪のなき自転車の棄てられておしろいばながめぐりに咲きぬ

/川田果弧「塔」2016年11月号

前輪を失ってもう走ることのできない自転車、それを弔うようにまわりにはおしろいばなが咲き乱れている。日常のかたすみにうちすてられてゆくものへのまなざしとともに、一首のなかにはおおらかな時間の経過が読みこまれている。

 

開け放つ窓の向こうにさあさあと雨のおと聞く 土曜のひるね

/紫野春「塔」2016年11月号

つよくもよわくもない初夏の雨。「開け放つ」は季節をまるごと受けとめようとするかのようであり、その雨音に耳を傾けながら目を閉じれば雨の匂いまでしてくるようである。また「さあさあと雨」のあ音のかさなりが明るく、「おと」「ひるね」と平仮名にひらかれていることで全体にやわらかい雰囲気がただよう。アンニュイで、それでいてこころやすらぐ土曜のひるね。

 

朝光にひとり、ふたりと子供らをスクールバスは遠くへ連れ去り

河野純子「塔」2016年11月号 

スクールバスに乗せてしまえば、もうそこからさきは親の手の届かぬ世界。朝のあかるいひかりや子どもたちのきらきらした笑顔とは対照的に、そこには言い知れぬ不安がある。バスの姿が見えなくなるまで立ちつくす母。「遠くへ」は実際の距離であるとともに、心理的な距離でもあるのだろう。

 

この空の断片切りとりそれだけで初夏とあてうる人と会ひたし

/伊與田裕子「塔」2016年11月号 

いま自分が心からうつくしいと感じるこの初夏の空を、同じ感覚で感じる人。そんな人がいるならば、もしいるならば会いたいけれど...。

河野裕子さんの〈月光が匂ふといへばわかる人〉をふと思い出す。

 

塔11月号作品2より②

階段をゆっくりおりる母の背にごめんと何度つぶやけばいい

/西之原正明「塔 」2016年11月号

親孝行をしたいけれど思うようにいかない。面と向かっては素直になれず、母の背に向かってごめんとつぶやく。今日もまた。小言を言わない母の、ちいさな、寡黙な背に。

 

死のことを思へば地獄の文字にゐる犬一匹と時に出会へり

/永山凌平「塔 」2016年11月号

死について考える。おのずと地獄へと思考が広がっていく。地獄、と思うときふと地獄の文字のなかに犬がいることに気がつく。どうしてここに犬が...?主体はその犬のなかに孤独を見ただろうか。それとも...。死を詠いながらどこかユーモアもある一首。

 

妹のもうゐない世のはつなつの〈のぞみ〉へひらり身をうつしたり

/千村久仁子「塔 」2016年11月号

この世にもう妹はいないということ、季節は確実に移りかわり、みずからの現身だけがここにこうして残されているということ。それはもう十分わかっているけれどどこかでまだ受け入れられていない。「妹のもうゐない世」と言葉にすることで自分を納得させようとするかのようである。また、「ひらり身をうつしたり」はどこか浮遊感のある言いぶり。新幹線という非日常的な乗り物に乗ることで、あるいは妹の御霊の近くに行かれるのではないか...などとどこかで思ったりするのだろうか。

 

百日紅ふきだして夏、熱帯夜うすい背びれをひるがえしたり

/山名聡美「塔 」2016年11月号

百日紅が「ふきだ」すという把握が「熱帯夜」という言葉とともに一首の熱量となり微かに不気味さも漂わす。その熱量のなかで「うすい背びれ」にひやりとした感覚をおぼえる。誰の背びれ...?魚?それとも「私」?いずれにしてもどこか官能的である。

 

海風に海が混じっていることを誰も気付いていないバス停

/鈴木晴香「塔 」2016年11月号

海風には海の湿度や海の匂い、海そのものが混じっている。けれどそれはそう感受するものにしか感受されないささやかな気づき。いまこのバス停に並んでいる自分以外の人々はそれぞれになにかに気持ちをとらわれて気づいていないだろう。それがすこしさびしくもあり、世間との微かなずれを感じてしまうのかもしれない。